蘭花は、
「……自分たちは自然の中で、自由に生きていると思っているのでしょうね」
――ここが作られた囲いの中だとは知らずに。
(逆行する前の、何も知らない無邪気な自分を眺めているようで……息苦しいわ……)
蘭花は強く目を瞑ると、池からふいっと視線を外し、
逆行してから数日が経過した今も、蘭花の食欲は戻らない。そのことを心配した小梅が、わざわざ作ってくれたのだ。
一口大に美しく丸められた点心を、
「……おいしい」
蘭花の言葉を聞いた小菊は、いつも無表情な顔にかすかな笑みを浮かべ、
「もっとたくさんお召し上がりくださいな」
と言って、
「
「はい。栗の点心に合うかと存じます」
蘭花は茶杯を手に取り香りを楽しむと、飲み口に口をつけて温かい茶をこくりと
「甘くて美味しい点心と、味わい深い茶の組み合わせは偉大だわ。だって、こんなにも幸せな気持ちになれるんだもの」
そう言って、再び点心をかじった蘭花の姿を見て、小菊が珍しくころころと笑った。
「ついこの間まで、乳菓子と
蘭花はドキーッとして、思わずむせそうになってしまい、慌ててお茶を飲み干した。
(しゃ、小菊は鋭いところがあるから……小梅を連れてくればよかった……!)
蘭花は小菊にお茶のおかわりを頼むと、「んんっ」とわざとらしく咳払いをして、何事もなかったかのように食べかけの点心を皿の上に置いた。
「お、お母様にも言ったけれど、私はもうお嫁に行ける歳なんだからっ。
「そうでございますか?」
「そうよ!」
これでこの話はもうおしまい! と片手を振ると、小菊は楽しそうに微笑みを浮かべて、淹れたての茶を机の上に置いた。そして、ちょうどそのとき、蘭花の待ち人――明杰と
「明杰!
勢いよく椅子から立ち上がると、蘭花は大輪の笑みを浮かべて、明全に駆け寄った。そうして明全の前で立ち止まると、礼儀正しくお辞儀をする。それが済んでから、蘭花は笑顔で頭を上げた。
「師傅。お久しぶりです! お元気でしたか?」
そう蘭花が訊ねると、
「師傅! おやめください! 私は、師傅の弟子なのですから!」
「しかし、本日は『男装』をなさっておられません。ですから、弟子ではなく『蘭花公主』に対する礼を――」
「
明杰に
相変わらず融通が利かない明全に、蘭花と小菊は苦笑しながら、二人に席を勧める。二人が椅子に座ると、小菊が手際よく茶を出した。
「小菊、ありがとう。三人で大事な話をするから、少し離れていてくれる?」
「かしこまりました」
と言って、小菊は、四阿から離れたところに控えた。
「師傅。お休みの日にご足労いただきありがとうございます」
「いいえ。とんでもない。蘭花公主のお召しですから」
へりくだった態度を崩さない明全の様子を、蘭花は困った顔で眺める。
「師傅。明杰から話をお聞きになりましたよね? 本日はその件でお呼びしたのです。できれば、時間は有効に使いたいわ。そのためにも、私のことは『弟子の
そう言うと、明全はようやく納得した様子で頷いた。
「小蘭。話は明杰から聞いた。信じられない内容だったが、小蘭が嘘をつくはずがない。……ひとりで大変だっただろう。辛い思いをしたな」
「師傅……」
明全の蘭花を気遣う温かい言葉に、思わず涙腺がゆるみそうになる。
必死で涙をこらえる蘭花に優しい眼差しを注いだ明全は、湯気の立つ茶器を手に取りズズッと茶をすすった。そして、茶器を机に置くと、机の上で指を組んだ。
「さて。話し合いという名の作戦会議ということだが……お前たちは何をするつもりだ?」
蘭花が明杰に目配せすると、明杰はこくりと頷いた。
「蘭花の話によれば、殷氏が動き出すのは、これからおよそ半年後。そして、最初に行われるのは、私と白蘭玲公主の婚姻です。ですからまずは、私の婚姻を阻止することが目下の目標になります」
「阻止する、か。なんとも簡単に言うが、お前の婚姻は陛下の勅命によるものだろう? どうやって陛下のご意向を覆すというのだ」
「それは……」
言い淀む明杰を見て、明全は鼻を鳴らした。
「お前が、私を頼るということは、自分では成せないことをやらせる為だろう? おおかた、陛下へ奏上してほしい、といったところか」
「全てお見通しでしたか」
明杰がポリ、と頬を掻くと、明全は「当然だろう」と口の端を上げた。
「しかし、明杰よ。陛下からの勅命は、まだ下っておらぬのだぞ。なにをもって奏上する? それに、どのような経緯で、殷氏が勅命を拝したのかもわからぬ」
もっともな意見に、明杰が苦笑いを浮かべる。
「一応、二つほど策を考えてみたのですが、聞いていただけますか?」
明全は茶杯を手に取り頷いた。
「まず一つ目ですが、陛下に蘭花との婚姻を認めてもら――」
「馬鹿者っ!」
「なに言ってるのよ!」
明全と蘭花は、それぞれ違う理由で顔を赤くしながら声を上げた。
「え。駄目、ですか?」
真面目な顔をして首を傾ける明杰を、残念な生き物を見るような目でみた明全は、握りしめていた茶杯を机に置いた。それから、顔を赤くしている蘭花に向き直ると、
「明杰の一つ目の策とやら。……小蘭はどう思う?」
「……私、ですか?」
突然、水を向けられた蘭花は、心を鎮めるために、目を閉じて大きく深呼吸をした。どうにか、気持ちを落ち着けることに成功すると、蘭花は真っ向から明全を見据えた。
「愚策です」
「うぐっ!」
目の前で胸を押さえて苦しむ明杰の姿を見ないようにして、蘭花は口を開いた。
「まず。私が目標としているのは『復讐』です。有り体に言えば、殷氏を滅ぼそうと思っています」
明全は顎の髭を触りながら、「続けなさい」と言った。
「明杰の婚姻の阻止が目標であれば、明杰の策でも構いません。ですが私は、復讐を遂げたいのです。……昨日、明杰と話し合いましたが、どうやらこの一連の事件には、
明全は、親指と人差し指の腹で顎先をなでる。
「ふむ……劉賢妃が第三王子殿下の養母になれるように、陛下に推薦したのは――たしか、殷貴妃だったはず。そのとき殿下は、」
「まだ赤子でございます。……私もまだ、生まれておりません」
もう過ぎてしまったことだが、第三王子の母親は、殷氏の手にかかったのだろう。
やるせない気持ちを抱えながら、蘭花は、
「殷氏の謀略は、第三王子殿下を劉賢妃が養育するところから始まっているのです。……たとえ、本当に、私と明杰の婚姻が成立したとしても、殷氏は別の手段で王太子殿下を
「第三王子殿下は御年十四。……十四年余をかけて練った謀略を、殷氏が簡単に諦めるわけがない、か……」
この程度のこと、明全ならばとっくに見抜いていただろうと思いながら、蘭花は頷いた。
「師傅。殷氏を野放しにしておけば、この三年の間に同じことが繰り返されるでしょう。ですから私は考えました。まずは、