これから三年後に起こる惨劇と、自分が三年前に逆行してきたことを話し終え、二人の間に重い沈黙が落ちた。
……どれくらい時間が立っただろうか。
手慰みに卓上の蓋碗を触ってみると、陶器の器は冷え切っていた。それからふと窓の外に視線を向けると、日が高い位置に昇っているのが見えた。
……思っていたよりも、ずいぶんと話し込んでしまったようだった。
蘭花は視線を移すと、向かいに座る
蘭花とてこの茶会をお開きにしたくはないが、昼餉の準備をしている小梅たちや、警備にあたっている者たちは気が気でないだろう。
(一国の公主が、これだけ長い時間、男性と二人きりで部屋に閉じこもっているのだもの。きっと、すごく、気になっているはずだわ……)
小梅と小菊の二人がニヤついている姿を容易に想像できてしまい、苦虫を噛み潰す思いだった。
(まだ話は終わっていないし、時間もかかりそうだから……とりあえず、新しいお茶を持ってきてもらおうかしら?)
室内に入ってくれば、下世話な誤解も解けるだろう。
そう考えて、蘭花が席を立とうと身じろいだとき、明杰が話の口火を切った。
「蘭花。君の話を聞いてから、よく考えてみたのだけれど……。やはり、蘭花の言う通り、何者かによって謀られたと考えるのが妥当だと思うよ」
真剣な表情でそう言った明杰は、乾いた喉を潤すように、冷えてしまった茶をごくごくと飲み干した。そして蓋碗を少し雑に置いた明杰は、眉根を寄せて蘭花を見つめた。
「それにしても。いったい、蘭花のどこをどう見たら、
明杰が言う色とは、金武様の子孫である白氏の特徴的な見た目のことだ。
白氏の血を分けた子孫は、必ず、透き通るような白い肌と絹糸のような銀の髪を持って生まれる。そしてもっとも特徴的なのが、猫のように縦長の瞳孔を持った
「それぞれ個人差はあるけれど、今いらっしゃる王子・公主の中でも、蘭花が一番色濃く白氏の血を継いでいるのは明確ではないか!」
普段、あまり感情的にならない明杰が卓に拳を叩きつけた。
――明杰の言う通りだった。
陛下には大勢の妃嬪がいる。ということは、蘭花には、腹違いの兄弟姉妹がいるということだ。そして蘭花はその兄弟姉妹たちの中で、唯一、白氏の血筋の特徴が全て顕われていた。
しかし、大勢いる白氏の中で、蘭花が唯一持ち得ないものがあった。
「やっぱり、
転変とは、白氏の血筋にのみ伝わる異能で、男女ともに十を迎える頃には虎の姿に変身できるというものである。と言っても、今いる子孫の中で完璧に転変できるものはおらず、あるものは耳のみ、またあるものは尾のみといった不完全な姿ばかりだ。
しかしそんな不完全な姿でも、転変すれば天候を操ることができる。ゆえに、
「私は、見た目だけの出来損ないよ。偽物の公主だと言われても仕方がないわ……」
「そんなことはない! 遅くとも十代のうちに転変することができれば――」
「そんなこと言って! のうのうと暮らしていたから、お母様達は殺されちゃったんじゃないっ!」
大きな金色の瞳から、ぼろぼろと涙を溢しながら、蘭花は握りしめた拳を震わせた。
「明杰……私……十五歳になっても転変することができなかったの。転変、できなかったのよ……!」
「……蘭花」
明杰はすすり泣く蘭花の姿を痛ましい目で見ると、静かに席を立ち、蘭花の側に寄り添った。
蘭花は明杰の衣を握りしめ、温かい腹に顔を埋めた。声を押し殺して泣く蘭花の頭を明杰の大きな手が優しくなでる。その心地よさに慰められながら、暫くの間、二人はそのままでいた。
すんすんと鼻をすすっている蘭花は、明杰の膝の上に乗って抱きしめられている。そして、下半分だけ結わずに背中に流している銀髪を、優しく手櫛で梳かれながら傷ついた心を癒やしていた。
「落ち着いたかい?」
明杰に優しく問いかけられた蘭花は、手ぬぐいから顔を離すと、こくりと頷いた。
「ねえ、明杰。黒幕は誰だと思う?」
「私は――
「どうしてそう思うの?」
「
蘭花はこくりと頷いた。
「大きな声では言えないけれど、その通りよ。王妃殿下――お義母様が崩御なさってから、一年喪に服して、ちょうど喪が明けた日に襲撃されたの」
明杰は、「やはり……」と言って、親指と人差指で顎先をなでた。
「これは推測にすぎないけれど。殷氏が君たちを
「はあっ?」
かあっと頭に血が上った蘭花は、明杰の膝から床に降り立った。
「なによそれ! 三年後もお母様は婕妤の地位にいるのよ? いくら陛下に寵愛されているからって、婕妤が王妃の座につけるわけないじゃない! そんな横暴、
「確かに、蘭花の言う通りだ。でも、可能性はなくはない」
明杰の言葉に、蘭花は眉根を寄せる。
「……それって、どういうこと?」
蘭花は立ち上がったまま、両手の拳を握りしめた。すると明杰は、蘭花の手を労わるように触れて拳を開かせると、その手を取って自分の隣の椅子に座らせた。
「蘭花。君も良く知っていると思うけれど、この国の王位継承は、長子制でも男子制でもない。正妻の子だろうと、側室の子だろうと、条件さえ満たせば男女関係なく王位につける」
「ええ。それくらい、私だって知ってるわ」
「……じゃあ、いまこの国で、王位に一番近い存在は誰だと思う?」
「なにを言っているのよ、明杰。それは当然、お兄様――王太子殿下でしょう?」
蘭花の言葉に、明杰はふるふると首を左右に振った。
「――君だよ。蘭花」
思いもよらない答えに、蘭花は言葉を無くす。目を大きく見開いて明杰を凝視すると、明杰は肩をすくませた。
「と、言ってもね。結局は、蘭花が転変できなければ難しい……というのが廷臣たちの意見でね。陛下は泣く泣く、第二王子殿下に王太子の称号を授けられたんだよ」
「……そんな話、知らなかったわ」
蘭花が視線を足元に落とすと、苦笑した明杰が優しく頭をなでてきた。
「仕方がないよ。これは
「でも……」
無知な自分を情けなく思って落ち込んでいる蘭花の頭を、明杰が優しく抱き込んだ。
蘭花は、明杰に慰められながら、「じゃあなぜ」と疑問を口にする。
「私たちは、殷氏に謀られてしまったのかしら」
そう言って、明杰の腕の中から抜け出した蘭花は、明杰を上目遣いで見上げた。すると明杰は考え込む仕草をしたあと、
「……なにか、殷氏が危機感を覚えるような出来事があったんじゃないかい?」
と言った。それに対して蘭花は、今後三年間に起こる出来事を思い出そうと頭をひねり、そして――
「……王妃殿下の崩御後に、お母様がご懐妊なさったわ。襲撃された時は妊娠五か月で、
「それだよ!」
明杰は、蘭花が問題の回答に正解したときのような微笑みを浮かべて、人差し指を立てた。
「蘭花は言ったよね? 私が殷貴妃の娘――白蘭玲公主と婚姻した年に、王太子殿下が
「ええ、そうよ。そのことで気落ちされたお義母様は、気鬱を患ったあとに病に罹ってそのまま……」
蘭花は言葉の途中でハッとした。
「まさか……」
蘭花が愕然とした表情を明杰に向けると、明杰は神妙な面持ちで頷いた。
「……王太子殿下と王妃殿下の死に、殷氏が関わった可能性がある」
「っ、」
二人では抱えきれないほど罪深い話の内容に、蘭花は身震いする。それと同時に、点と点が繋がっていくことに、気持ちが昂ぶってもいた。
「……お兄様が亡くなられてすぐ、その地位についたのは第三王子殿下だったわ。第三王子殿下の母親はとうに亡くなられていて、
「……おそらく、『不仲説』は隠れ蓑だ。殷貴妃が王妃になれば、劉賢妃は第三王子の養育権を殷貴妃に譲り渡すだろうね。そうなれば、殷貴妃は晴れて王太子殿下の
「なのに、私に弟が出来てしまった……」
「蘭花の弟だ。もしかすると、君と同じように白氏の特徴が顕著に現れていたかもしれない。その上、転変までできてしまったら――」
「っ、そんなのただの憶測じゃないっ!」
蘭花が、卓を叩いて勢いよく立ち上がったせいで、がたーん! と椅子が後ろに倒れた。
明杰はその椅子を元の位置に戻したあと、ぶるぶると怒りに震える蘭花の肩に優しく手を置いた。
「殷氏にとっては脅威の存在だったんだ。君たち姉弟は」
明杰の言葉を聞きながら、蘭花は、自分の身体を掻き抱いた。
(出る杭は打たれる……お母様が弟を身ごもらなければあんなことは起きなかった?)
そう考えて、蘭花はふるふると頭を振った。
(……ううん。違うわ。
「まさか、全ての原因は私……?」
くらりとめまいがし、床に崩折れそうになった身体を、明杰がとっさに支えてくれる。蘭花は潤んだ瞳で明杰を見上げた。
「ミンジェ……わたし……どうしたらいいの……?」
しゃくりあげながら目を閉じると、蘭花の白くまろい頬に、一筋の涙がこぼれた。
目蓋の裏に、惨劇の光景が浮かぶ。
「わた、私のせいで……お母様は……っ! うっ……うぅ……私、死んでしまいたい……!」
明杰に縋りついたまま、蘭花はずるずると床にへたり込んだ。
蘭花の言葉に息を詰まらせていた明杰は、さっとしゃがみ込み、震える小さな身体を抱き寄せる。
「なんてことを言うんだ、蘭花! そんな悲しいことを言わないでくれ……! 私たちは結婚するのだろう?」
「でもこのままだと、あなたはまた、白蘭玲と……っ」
「二人で未来を変えるんだ」
蘭花は目を見開いて明杰を見た。
二人の視線が交錯する。
藍色の瞳に宿る強い意志を感じ取った蘭花は、消えかけていた復讐心を蘇らせた。
(そうよ。私は復讐するためにここにいるんだわ)
蘭花は深く息を吸い込みながら目蓋を閉じる。
(思い出すのよ、蘭花。目の前で惨殺された、大切な人たちの姿を……!)
衛士に斬り殺された沈氏。
蘭花の無実を証明すると言って、慎刑司で拷問を受けて死んだ小梅と小菊。
蘭花の目の前で撲殺された阿明。
そして――
おそらく、王太子殿下から引き離す目的で、白蘭玲と婚姻させられた明杰。
(私の大切な人たち……。今度こそ、守ってみせる……!)
蘭花は目を見開くと、力強く頷いた。