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第3話 告げる想い

「ただいま! 誰かいる?」


 自室に戻ってくるなり蘭花ランファが忙しなく呼ぶと、部屋の奥から掃除道具を手にした小梅シャオメイが駆けつけた。


「蘭花様、おかえりなさいませ! なにか御用でしょうか?」


 軽く膝を曲げてお辞儀をした小梅は、蘭花の後ろに立つ明杰ミンジェの姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。


「明杰様! いらっしゃいませ!」


「やあ、小梅。相変わらず、君の瞳は翡翠のように美しいね。元気だったかい?」


 恥ずかしげもなく、歯の浮くような台詞を口にする明杰を、蘭花はじとっとした目で横目に見る。


 しかし、明杰はどこ吹く風だ。


 そして小梅にいたっては、不快な顔をすることもなく、むしろ喜んでいるように見える。


 小梅は赤くなった顔を隠すように手を頬に当て、


「あっ、あたし! おっ、お茶の用意をしてまいりますね!」


 と言って、機嫌よくくりやに向かった。まるでうさぎが跳ねるように、びょんぴょんと駆けていく小梅の後ろ姿を、蘭花はなんとも言えない気持ちで見送る。それから、甘ったるいお菓子を食べすぎて、胸焼けを起こしたときのような気分で後ろを振り返った。


「……ねえ、明杰」


「なんだい、蘭花?」


 同じ空間にいるのに、ひとりだけけろっとしている明杰を憎らしく思いながら、蘭花は腰に手を当てて明杰を見上げた。


「いつも言ってると思うけど、他人ひとの侍女を口説かないでほしいの」


 蘭花は額に手を当てて、疲労感の滲んだ表情を浮かべる。すると明杰は、サッと顔色を悪くして、焦った様子で両手を振った。


「いやいや! いつも言ってるけど、口説いてないからね!?」


「いやいや! あれは口説いてるでしょ!」


 反論は許さないとばかりに人さし指を突きつける。


 しかし明杰は往生際悪く首を左右に振った。


「だから、口説いてないって! あんなのただの挨拶じゃないか!」


「そのっ、挨拶がっ! 口説き文句になってるって言ってるの! あなた、さっきの小梅の表情かお見た!? まるで恋する乙女みたいだったじゃない!」


「蘭花様。僭越ですが、恋する乙女の顔をご覧になったことがあるので?」


 唐突に横槍を入れてきた小菊シャオジュに核心を突かれた蘭花は、うっと言葉を詰まらせた。


「み、見たことはないけど……書で、それらしいものなら読んだことが……」


 口を尖らせて指先をもじもじさせる蘭花の姿を見て、小菊は無表情のまま、小さく息を吐いた。


「……小梅のあれは、ただ照れているだけです。明杰様に恋をしたわけではございません。わたしたち侍女や宮女は、なかなか若い男性とお会いする機会がございませんからね。ちょっと褒められて浮かれているだけです。……ですから、安心なさってください。やきもちなど焼かなくても、明杰様は、蘭花様一筋でございますよ」


 そう言って、にこっと控えめに微笑んだ小菊の言葉に、今度は蘭花が顔を赤くする番だった。


「だっ、誰がやきもちなんか……っ」


 はて、と小菊が首を傾げる。


「違うのですか?」


「ちっ、違うわよっ! 私はただ、いつも風紀を乱す明杰をたしなめただけでっ」


「風紀を乱す!? そんな言い方は酷いよ、蘭花〜!」


「ちょっと、明杰は黙ってて!」


 三人でわいわいと騒いでいるところに、けろっとした表情の小梅がお茶を用意して戻ってきた。


「あら、みなさん。なにをなさっておいでで?」


 はて、と首を傾げる小梅に向かって小菊が口を開こうとしたので、蘭花は小菊の口を塞ぐために二人の間に立った。


「な、なんでもないの! お茶、ありがとう! あとは私がやるから、二人とも外に控えててくれる!?」


「はい……わかりました……?」


 蘭花は小梅から奪い取るように盆を受け取って卓上に置いたあと、二人の背を押して部屋から出すと、勢い良く扉を締めた。


『やきもちなど焼かなくても、明杰様は、蘭花様一筋でございますよ』


 ふいに小菊の言葉が蘇り、蘭花の胸がざわめいた。顔がほてり、鼓動が速くなっていく。


 ――そう。蘭花は明杰のことを『お兄様』ではなく、ひとりの男性として好きなのだ。


 逆行前はこの想いを伝えられないまま、明杰は他の女性を娶ってしまった。その婚姻は勅命によるものだったが、蘭花は何日も泣き暮らした。


 ……けれど、蘭花は再びこの世に戻ってきた。


(復讐は大事よ。最重要任務よ。……でも、ちょっとだけ。叶えられなかった想いを告げるくらい、許されるわよね?)


 蘭花は、洗練された所作で蓋碗と茶菓子を卓上に置いて、明杰を椅子に座らせる。


「明杰。あなたが好きな六安瓜片ろくあんかへんのお茶よ」


 そう言うと、明杰はふわりと微笑み、たれ目がちの目元を優しく和らげた。


「……嬉しいよ。私の好きな茶を、覚えていてくれたんだね」


 蓋碗を手に持ち、蓋で茶葉を避けながら、明杰はこくりと茶を飲んだ。するとあたりに、六安瓜片の甘くて清い香りが漂う。


 ゆっくりと茶の香りを堪能している明杰の端正な顔をちらっと盗み見ながら、蘭花はわざとらしく空咳をすると、乾いた唇をひと舐めして緊張で震える両手を胸の前で握り締めた。


「そ、そんなに感動することはないじゃない。……す、好きな殿方の好みくらい、私にだって覚えられるのよ」


「――え?」


 明杰から驚いている空気が伝わって、蘭花は気恥ずかしさと居心地の悪さを感じて、思わずそっぽを向いてしまった。しかし、明杰から顔を隠しても赤くなった耳を隠すことはできない。


 蘭花は、自分に明杰の視線が注がれているのを肌で感じながら、根気強く明杰の反応を待った。すると卓上に蓋碗を置く音が聞こえ、揺れた空気で、明杰が席を立ったのが分かった。


(なっ、なにか言ってちょうだいよ)


 とうとう沈黙に耐えられなくなった蘭花が口を開こうとした瞬間、熱くて逞しい身体に、蘭花の小さくて華奢な身体が抱き締められた。


 すると、ドクンと蘭花の心臓が高鳴り、今まで感じたことのない速度で早鐘を打ち出した。そして、自分と同じ鼓動を背中に感じると、蘭花の胸がきゅうっと締め付けられ、言葉にできないほどの歓喜が花開くように胸中に広がった。


 蘭花は身体に回された明杰の腕に自分の手をそっと添えて、顔を半分だけ後ろに向けた。そうして、熱を持ち、濃さを増した藍色の瞳に視線を絡め取られる。


「蘭花。私も君を愛している」


 ぬるい呼気が唇にかかったあと、柔らかくて少しかさついた明杰の唇が、蘭花の小さな唇に重なった。まるで時が止まったような、短くて長い甘美な時間を享受する。そしてどちらからともなく唇を離すと、二人は熱い抱擁を交わした。


「明杰……明杰……私、ずっとあなたのことが好きだったの。だからこの気持ちを伝えることができて、いまとても嬉しくて幸せよ」


「ああ、蘭花。私もずっと、君のことが好きだった。でも君はこのジン国の公主で、王からの寵愛も熱い。……だから、私の想いが叶うことはないと……」


「明杰……」


「蘭花」


 明杰が身体を離して真剣な顔を向けてくる。


「私は君と結婚したい。いますぐにでも、君を妻に迎えたい。だから、君との結婚を許してもらえるように、陛下に奏上する」


「明杰……!」


 明杰の本気を感じ取った蘭花は、喜びの涙を流した。けれど。


「……嬉しい。本当に、心から嬉しいわ。明杰。……でも、結婚は無理なの」


「――え? なぜ?」


「私……このままでは、三年後に幽閉されてしまうのよ。だから私は、あなたと結婚することはできないの」


「そ、れはいったい……どういうことだ……? 説明を……説明をしてくれ、蘭花……!」


 蘭花の両肩を掴んでがくがくと揺すってくる明杰に、蘭花は涙を流しながら、事のあらましを話して聞かせた。

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