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第2話

 まだ気温は若干高く感じたけれど、吹く風はどこか冷たく心地よかった。さすがに九月も中を過ぎるとすっかり秋めいていて、あの暑くて仕方のなかった夏はどこへやら。ホバリングする赤とんぼや、チロチロとどこかで鳴いている虫の声、陽が沈むのも早くなって、橙色から藤色へと鮮やかなグラデーションが郷愁を誘っていた。


 イベントホール沿いの川を望む遊歩道を歩きながら、僕は大きく伸びをして深い深いため息を一つ吐いた。がちがちと音を立てる肩がわずかに重い。立ち止まり、何となく腰を左右にひねってみると、ゴキゴキと関節が鳴った。我ながらびっくりだ。それから両肩を軽く回してみたのだが、グキグキと何度も身体に響いた。軽く首をひねってみてもボキボキと不快な音がして、いかに運動が不足しているかがよく解る。


 ふと視線を横に向けると、ジョギングをするカップルや数人のおじさん、ロードバイクに乗って颯爽と走り去っていく若い男の人なんかがいて、自分も何か運動した方がいいんだろうなぁ、と思わずにはいられなかった。


 もともと運動が苦手で、体育の授業もほとんどやる気がなく、ただだらだらと受けてきたせいもあって、体を鍛えるなんてことはこれまで一度もしてこなかった。姿勢も悪く、座ると若干、身体が歪んで見えると言われるのもいつものことだ。気づいたときに背筋をピンッとまっすぐにするよう心掛けてはいるのだけれど、執筆をつづけているうちに、いつの間にかだんだんまた姿勢が悪くなっていく、その繰り返しだった。


 とはいえ、これだけ体を鈍らせるほど熱中して小説を書いたところで、目立った結果もまだ出せてはいなかった。これまでの記録では二次選考通過がやっと、一次選考通過を数回、あとは……まぁ、その程度だ。果たして僕に作家になれるほどの実力が身に付くことはあるのか。


 やれやれ、とため息を吐き、視線を地面に落としたその時だった。


 足元に、一枚の紙きれが落ちていることに気が付いたのだ。


 なんだろう、名刺だろうか。何となく拾い上げて見てみると、片面にのみ文字が印字されていて、そこには『魔法百貨堂 楸真帆』とあった。


 魔法百貨堂? なかなかに面白そうなお店の名前だ。


 けれど、どこをどう見ても連絡先や住所なんて書かれていなくて、ただ店の名前と人の名前があるだけだった。


 ……いや、なんだろう。名刺から、ほのかに甘い香りがする。これは……バラ? 母さんが庭先のプランターで育てていた小さなバラの香りに似ているような気がした。


 なんか面白いな。こんなよく解らないものが道端に落ちていて、しかも魔法百貨堂だって? 魔法? 本当に? いやいや、そんなはずあるもんか。魔法なんて、この世にあるはずがない。それは創造の世界の産物であって、現実世界の法則からすれば非科学的であり、あくまで人の妄想の中にのみ存在するものなんだ。


 けれど、と改めて名刺を見て、僕は思った。


 今後の創作活動で、何かの参考になるかもしれない。この店名からすると、洋風の小さな家みたいなお店の中で、手作りのアクセサリーを売っている、そんなイメージが思い浮かんだ。楸真帆……『楸』という字を何と読めばいいのか解らないけれど、その名字からも何だか如何にも物語の主人公的なものを感じられる。


 ふむふむ、ここから物語を作っていくのも悪くないな。なかなか面白い話になるんじゃないか?


 そう思いながら僕は再び歩き出し、コンビニの角を曲がり、何メートルか進んだところで、

「おっと、ごめんよ」

 突然そんな声がして、僕は想像の世界から現実に引き戻された。


 ぼんやりと歩いていたせいで、閉店作業をしていたらしい店先のおじさんとぶつかりそうになったのだ。


 そういえば、ここにはぼろい古本屋さんがあったっけ。思いながら顔を上げ、

「――えっ」

 軒先テントの文字に、僕は目を疑った。


 そこには、『楸古書店』と書かれていたのである。


「ん? どうかした?」


 先ほどぶつかりそうになったおじさんに声をかけられて、僕は「え、あ」と声にならない声を漏らす。


 するとそのおじさんは、僕が手にしていたあの名刺に気づいたらしく、

「あぁ、もしかして、お客さんか」


「え? 客?」


 首を傾げる僕に、おじさんは店の奥を指さしながら、

「あの奥の扉を抜けた先だ」


「扉?」


「大丈夫、帰るときはまた開けるから」

 行っておいで、と軽く背中を押されて、僕はわけもわからないまま、古本屋のその奥、開けっ放しにされた扉を抜ける。


「え、あっ……」


 そこには色とりどりのバラが咲く庭園があって、石畳の細い道がさらに奥へと続いていた。


 その道を恐る恐る歩いていった先に見えたのは、古い日本家屋。


 そしてその軒先の看板には、達筆でこう書かれていた。



『魔法百貨堂』



 さらにガラスの引き戸にはボロボロの紙片が貼られており、そこには可愛らしい丸文字で、『萬魔法承ります』と書かれていた。


「……ここが、魔法百貨堂? 本当に?」

 思わず独り言ちて、辺りを見回す。


 なんてことのない、昔から立っていたのであろう古い家。想像していた洋風の家なんてどこにもなくて、純和風、どこかの観光地にありそうなお茶屋さんって感じだった。


 バラの咲き乱れる庭園の隅には、オシャレな四阿が建っている。


 ……まさか、本当に魔法が売っているわけないよな。


 なんて思いながら、その好奇心に抗えず、ガラスの引き戸に手を伸ばしたところで。



 ガラガラガラ



 僕が開けるよりも先に、誰かが中から扉を開けた。


「……あっ」

「……あっ」

 僕とそいつの、声が重なる。


 目の前には、僕と同い年くらいの男の子が制服姿で立っていて、彼は僕の顔をまじまじと見つめてから、握りっぱなしだった名刺に眼をやると、「あぁ」と納得したような表情を浮かべて、

「――いらっしゃいませ。魔法堂へようこそ」

 そう言って、口元に軽く笑みを浮かべたのだった。

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