10
翌朝。
昨日のあの出来事が夢だったんじゃないか、と思いながらわたしはゆっくりとベッドから身体を起こした。
時計を見ればもうすぐお昼。昨夜は遅くまで起きていたものだから、珍しくこんな時間までずっと寝ていたようだ。
家の中が静まり返っているのは、両親ともにわたしを起こすことなく仕事に行ってしまったからだろう。
無理に起こされなかったことに感謝しつつ、とりあえず着替えようと立ち上がったところで、
「――っ!」
何とも言えない筋肉痛が全身を襲い、わたしは思わず声なき悲鳴をあげてしまった。
皮肉にも、その痛みが昨夜の出来事が決して夢などではないことを証明してくれる。
普段身体を使わない分、もろに反動がきてしまったらしい。そんなにめちゃくちゃ痛いって程ではないのだけれど、油断していただけに驚きはハンパなかった。
わたしはその痛みに耐えながらなんとか着替えると、軽く朝食兼昼食をすませて家を出た。
向かうは堂河内くんの家。
昨日の妖怪たちや真帆さんのことを、もっと詳しく聞いてみたいと思ったのだ。
暑い日差しに照らされながら道を歩き、堂河内くん家の前までたどり着いたところで、
「……あれ? 堂河内くん?」
車に荷物を積み込んでいる堂河内くんの姿がそこにはあって、わたしは彼のもとに小走りで駆け寄る。
「あぁ、タクミ」
堂河内くんはわたしに顔を向け、小さく微笑んだ。
「もしかして、もう帰っちゃうの?」
訊ねると、堂河内くんは軽く頷いて、
「うん。こっちでの用事も終わったしね」
「用事って、昨日の月の件?」
「あぁ、いや」
と堂河内くんは首を振り、
「言ったろ? あれはこっちに来た時に花本から聞いただけって。ついでだよ」
「じゃぁ、どんな用事?」
「両親に顔を見せる、って用事」
それを聞いて、わたしは軽く笑ってしまう。
「何それ。それって用事になるの?」
「さぁ、どうだろ」
と堂河内くんも笑って見せる。
「次戻ってくるのは、年末?」
「ああ、たぶんね」
「そっか……」
なんとなく残念に思いながらため息を吐いたところで、
「別に年末なんて言わずに、もっとくればいいんですよ」
後ろから声がして慌てて振り向くと、そこには大きな旅行鞄を抱えた真帆さんの姿があって、彼女は満面の笑みで堂河内くんに、
「なんだったら、わたしがホウキで連れてきてあげますよ?」
「それはいい」
と堂河内くんは即答して、大きなため息を吐いてから、
「真帆ねぇの運転、荒いから酔っちゃうんだもの。来るんだったら、普通に電車で帰ってくるよ」
「そんなに荒いですか? 私の運転」
「荒いよ。みんな言ってるでしょ?」
「おかしーなー。私はそんなことないと思うんですけどねー」
わざとらしく首を傾げる真帆さんに、堂河内くんは呆れたように、
「はいはい。それより真帆ねぇ、鞄」
「ありがとうございます!」
堂河内くんは真帆さんから旅行鞄を受け取ると、先ほどと同じように車の後部座席にそれを置いた。
そこに堂河内くんのお父さんが家から出てきて、
「ふたりとも、準備できたか?」
それからわたしの姿に気づいて笑みを浮かべながら、
「あれ? タクミさんじゃないか。もしかして、見送りに来てくれたのか?」
「え? あぁ、はい」
別にそんなつもりじゃなかったのだけれど、流れで適当に返事をしちゃうわたしがいた。
――まぁ、いっか。色々聞きたいことはあったけれど、また次の機会にしておこう。
もう二度と会えなくなるってわけでもないのだから。
「昨日はごめん。変なことに付き合わせちゃって」
「え? ううん。いいよ、別に。でも、まさかあんなのが本当にいるなんて思わなかった」
「僕も最初に見たときは驚いたよ。けど、慣れちゃったのかな。真帆ねぇと一緒にいると、こういうことが結構あるんだよね」
「そうなんだ」
わたしが苦笑すると、
「ヒドくありません? まるで私が疫病神みたいな言い方じゃないですか!」
真帆さんは腰に両手を当てて可愛らしく頬をぷんぷんと膨らませて、
「それに、いつも言ってるじゃないですか。彼らは彼らです。翔くんが翔くんであるように、タクミさんがタクミさんであるように、彼らは彼らでしかないんです。私たちと一緒、ただそこに在るモノ。見た目や種族なんてものは――」
「関係ない、でしょ」
「そういうことです」
言って真帆さんは、満足そうにうんうんと頷いた。
そんなわたしたちに、
「よし、そろそろ行くぞ!」
堂河内くんのお父さんが言って、先に運転席に乗り込んだ。
「うん、わかった」
堂河内くんはお父さんに向かって頷いてから、再びわたしに顔を戻して、
「じゃぁ、またな、タクミ」
軽く手を振ってから、助手席の方へ乗り込んでいく。
真帆さんもわたしに手を振りながら、
「それじゃぁ、タクミさん。また会いましょうね!」
微笑み、後部座席に乗り込もうとしたところで、わたしは思わず、
「あれ? ホウキじゃないんですね」
すると真帆さんはあははっと笑ってから、
「ホウキだと、帰りに寝れないですからね。翔くんと一緒に駅から電車です」
寝るために電車って。まぁ、ホウキだろうとなんだろうと、居眠り運転は危険なんだろうけれども。
なんて思っていると、
「――あっ!」
真帆さんは何かに気づいたように声をあげて、小走りにわたしのところまで駆け寄ってくると、
「タクミさん」
「あ、はい」
すると、真帆さんは不意にわたしの耳元に顔を寄せて。
「もし何かありましたら、是非うちのお店に来てください」
「……えっ、お店?」
真帆さんから香るバラのような甘い匂いにドキドキしつつ口にすると、真帆さんは小さな紙きれをわたしに手渡してきた。
なんだろうと思いながら見てみれば、それは『魔法百貨堂 楸真帆』という文字だけが印字されたただの名刺で。
「魔法……百貨堂?」
「はい。どんな望みでも魔法で叶えて差し上げます。例えば――」
言って真帆さんは人差し指で助手席に座る堂河内くんを指さしながら、
「恋の魔法、とか?」
「えぇっ!」
思わず声をあげてしまったわたしに、真帆さんはくすくすと小さく笑ってから、
「それでは、お待ちしていますね!」
もう一度わたしに手を振り、後部座席に乗り込んだ。
ゆっくりと動き出す車を見送りながら、わたしは大きくため息を吐き、何とも言えない気持ちの中、もう一度名刺に目を向ける。
『魔法百貨堂』
どんな望みでも、魔法で叶えてくれるお店……
わたしはその名刺を、そっとポケットにしまい込んだ。