翌日。俺が教室に入ると、クラスメイトたちが一斉に俺に振り向いた。
いったい何事か、と思っていたら、一番近くにいた男子――山田がわずかに目を見開きながら、
「ど、どうしたんだよ、猪原。なんか、いつもと、その……」
ともごもごと口を動かす。
するとそんな山田の言葉を引き継ぐように、隣に居た女子――真田さんがくんくんと鼻をひくつかせながら、
「なんか、いいにおいするね。どうしたの?」
「え? あぁ、いや」
問われて、けれどどう説明したらよいものか、なかなか言葉が出てこなかった。
何となく返答に困っていると、真田さんは、
「もしかして、香水か何か?」
「え、マジ?」
と山田は眉間に皺を寄せて、けれど、
「良いなぁ、すげぇいいにおいじゃん。なになに? どうしたんだよ急に。好きな女でもできたのか?」
「え? そうなの? 猪原くん」
「マジ? 猪原に恋人?」
「嘘だろ、おい!」
「へぇ、いいんじゃん?」
「誰? 誰のことを好きになったの?」
何が何だかわからないうちに、俺の周りに人だかりができる。
昨日までの、俺を邪険にするような表情はもはやどこにも見えなくて。
しどろもどろになりながら、彼らの期待を裏切るまいと曖昧に答えをはぐらかしていると、視界の端で窓辺の席に座り、うっすらと微笑みを浮かべる堂河内の姿が眼に入った。
堂河内は口だけを動かして、
『良かったね』
それに対して、俺は小さく頷いた。
そしてその日、俺は夢のような一日を過ごしたのだった。
誰かと一緒につるむのなんて、あの獣臭をまとうようになって以来のことだった。
誰も俺を邪険には扱わず、これまでのことがまるで嘘だったかのように、みんながみんな、笑顔で俺に話しかけてくれたのだ。
俺は久しぶりに声を出して笑ったし、こんなにも学校を楽しいと思ったのは初めてのことだった。
なんて素敵な一日なんだろう、本当に夢のような、いや、むしろ今までの生活こそが悪い夢だったんじゃないかと思えてくるような、そんな一日。
そして一日の終わりに、俺は下校しようとしている堂河内を脱靴場で捕まえた。
「なぁ、堂河内」
堂河内はそのよく見れば美しく整った顔を俺に向けて、
「ん? なに?」
と訊ねてくる。
「なんていうか、その……お礼を言いたくて」
「あぁ」
堂河内は小さく口にして、
「いいよ、別に。気にしないで」
「いや、でもお前が俺を助けてくれたんだ。ありがとう、本当に感謝してる」
けれど堂河内は頑なに首を横に振って、すこし苦笑いを浮かべながら、
「だから気にしないでいいって。俺――僕は何もしてないんだから。全部アカネさんがくれたあの魔法のポプリのお陰だから、アカネさんにお礼をいってあげて。きっと自信満々の笑顔でそうでしょうともって答えると思うから」
「そうか? わかった。また今度、改めてお土産を持ってお店に行くよ」
「そうだね、きっとアカネさんも喜ぶよ」
じゃぁね、と言って俺に手を振り、背中を向ける堂河内。
そんな堂河内に、俺はふと思い出し、
「あ、そう言えば昨日の帰りなんだけど」
「ん?」
振り向いた堂河内の顔は、確かにあの人、長い黒髪が綺麗な美人の女性によく似ていて。
「昨日の帰り、楸真帆って人に出会ったんだ」
「……真帆ねぇに? そうなんだ?」
「あぁ」
と俺は頷いて、
「あの人が、魔法百貨堂の……店主さんなのか?」
「うん、そう」
と堂河内は頷いて、
「あの人が、僕のお世話になっている家の人」
「そうか」
「うん」
「なら、真帆さんにもお土産を買っていった方がいいよな、店主さんなんだし」
「そんなに気を使わなくていいと思うけど?」
「いや、そんなわけにはいかない。俺のこれまでの三年間の苦しみを、こんなバラの花びらだけで払ってくれたんだ。ちゃんとお礼はしないといけないだろ」
「そっか」
堂河内は微笑んで、
「なら、うちの店の近くにパティスリー・アンって洋菓子屋さんがあるんだけど、そこで売ってるクッキー・シューをお土産にすると良いよ。真帆ねぇもアカネさんも、よくあそこのシューを食べてるから」
「わ、わかった。そうする。ありがとな、堂河内」
「ううん、いいよ。じゃぁ、また明日」
「あぁ、また明日」
俺たちは挨拶を交わして、そして堂河内は、スタスタと脱靴場をあとにした。
俺はその背中を見送って、同じく帰宅の途に就いたのだった。
とても素晴らしい一日だった。
こんな一日が、これからもずっと続くのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。
これまで諦めていたバラ色の高校生活、それが今ようやく始まろうとしているのだと思うだけで、心がウキウキしてくる。
小躍りしたい気持ちになりながら俺は通学路を進み、やがて我が家に辿り着いた。
「ただいまぁ!」
大きく声を張り上げて、
「あら、お帰りなさい」
微笑む母のその顔さえ、これまでと違ってとても明るい。
なにせ、これまでの母親は俺が帰宅するなり、その獣臭の臭さからいつも眉間に皺をよせていたのだから。
それから俺は通学鞄を置きに自室に向かい、その扉を大きく開いて。
「うっ――!」
部屋に充満する獣臭さに、思わず鼻を腕で覆った。
いったい、どうして?
思いながら部屋の電気をつけて、俺は絶望する。
いったい何者の仕業なのか、俺の部屋はまるで大きな獣が至る所を、その大きな鉤爪で引っ掻き回したかのように、荒れまくっていたのだった。