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第3話

 その女性は白いワイシャツに身を包んでおり、耳元にはハートのピアスがきらりと光る。


 口元には笑みを浮かべ、俺の顔をじっと見ながら、

「翔くんの友達にしては、ずいぶんがっしりした身体だね。何か部活でもしてるの?」


「あ、いえ」

 と俺は首を横に振って、

「部活は何も。ただ暇だから、身体を鍛えていただけで」


「ふうん?」


 女性はカウンターを回り込んで俺たちの所まで歩み寄ると(ジーンズに包まれたその細く長い足に、俺はちょっと見惚れてしまった)、いきなり俺の胸元に手をやって、

「すごいねぇ。ここまで鍛えられるものなんだ」


 急なことで、俺は戸惑いのあまり、返答することができなかった。


 そもそも、誰かに身体を触れられたことなんて今まで一度もなかったし、それがまさかこんな綺麗なお姉さんとあっては、どぎまぎしない方が無理って話だ。


 女性は俺の胸板をぽんぽん軽く叩きながら、

「いいねぇ、その反応。私は好きだよ?」

 あははっと楽しそうに笑って見せた。


「え、あ、いや――」

 どう答えたら良いものか解らず、思わず口籠っていると、

「アカネさん、あんまりからかわないであげてよ」

 斜め前に立っていた堂河内が、眉間に皺を寄せながら文句を言った。


 女性は――アカネさんは悪びれたふうもなく、「ごめん、ごめん」と軽く口にして、

「それで? カケルくんが連れてきたってことは、もしかして何か困りごと?」

 とカウンターに右ひじを預ける。


 何だか頼れるお姉さんって感じのアカネさんに目をやり、次いでもう一度、堂河内に視線を向ける。


 堂河内は小さく頷いて、手のひらで彼女を示した。


 俺は小さく息を吸って、ゆっくりと、順を追って、アカネさんに例の獣臭について、話して聞かせた。


 その間、アカネさんは「ふむふむ」「なるほど」「ほうほう、それで」と合いの手を入れてきたが、ふざけているような感じは全くなかった。


 やがて全てを語り終えた時、アカネさんは居住まいを正すと、もう一度俺の目の前まで歩み寄って、

「う~ん……今は何も臭わないけど?」


「そうなんだ」

 と口にしたのは、俺ではなく堂河内だった。

「表の店までは臭っていたのに、中庭に出た途端に臭いが消えたみたいで」


「消えたんなら良かったじゃん」

 小首を傾げながら答えるアカネさん。


 けれど堂河内は眉間に皺を寄せながら、

「臭いが消えたのは、中庭に入ってから。そもそもうちのバラには魔法がかかってるでしょ? たぶん、その影響で獣臭のもとになっている何かが離れていったんだよ」


 俺は堂河内の言葉に、思わず首を傾げながら、

「魔法? 何かが離れていった? どういう意味だよ」


 そんな、魔法だなんておとぎ話じゃあるまいし……


「ほら、さっきも学校で言ってたでしょ?」

 と堂河内は俺に顔を向けて、

「何か獣の息遣いまで聞こえてくるって。今はどう?」


 言われて初めて俺はそれに気づき、耳を澄ませた。


 堂河内もアカネさんも黙りこくり、そんな俺をじっと見つめる。


 カチカチと聞こえてくるのは、壁にかかった小さな時計。


 外から漏れてくるのは、街行く車のわずかな走行音と、庭の木々が騒めく音だけ。


 あれほど俺にまとわりついていた獣の息遣いが、今では臭いと共に綺麗さっぱり消え去っていたのである。


「……聞こえない」


「でしょ?」

 言って堂河内は再びアカネさんに顔を向けて、

「たぶん、この店を出たら、またその何かが猪原くんに戻ってくると思うんだ」


 どうにかならない? というその言葉に、アカネさんはわずかばかり思案するようなそぶりを見せて、

「あぁ、じゃぁ、アレなんてどう?」

 ぽんっと手のひらを小さく叩くと、カウンターの向こう側へと小走りに駆けていき、

「――バラのポプリ。小さな魔よけ」


「……魔よけ?」


 思わず訝しんでしまう俺に、アカネさんは、

「なになに? 魔法の道具が信じられないわけ?」


「あ、いえ、そうじゃなくて。ただ――」


 どこからどう見ても、どこにでも売っていそうな、小さな袋詰めのバラの花びらにしか見えなかった。


 外装は百円均一とかで売ってそうな、本当に安っぽい透明なビニール袋。その大きさはアカネさんの手のひらに、ちょこんと乗っかるくらいに小さくて。


「安心して。ちゃんとした魔法のかかった、正真正銘のアイテムだから」

 とアカネさんは小さくウィンクして見せて、俺にそのポプリを差し出した。


 俺はそのポプリを受け取りながら、矯めつ眇めつしてしまう。


 ……うん、どうにも胡散臭い代物だ。


 本当に、こんなものに効果があるのか?


「それを持っているだけで、色んな事柄から守ってくれるはずだから」


「色んな事柄?」


「色んな事柄って、例えば?」


 訊ねると、アカネさんは口元に人差し指を当てつつ宙に目をやり、

「そうね、例えば躓く予定だった石ころに躓かなくなったり、あと一分で乗り遅れるはずだったバスに乗り遅れなかったり、買い物の時なんかに足らなかった十円が、ふと足元に目をやると落ちてたり、そんな感じ?」


 そんな感じって、どんな感じだよ……


 ますます胡散臭い、何だそれ、それって魔よけか? どう考えても違うよな?


 あまりにも心配になって堂河内に顔を向けると、堂河内は口元にうっすらと笑みを浮かべながら、

「まぁ、信じてみてよ。大丈夫。俺――僕が保証するから」


 その言葉に、俺はううんと唸ってしまう。


 けど、確かに庭のバラ園に足を踏み入れてから臭いも息遣いも消えてなくなったのは確かなんだ。どんなに胡散臭い代物でも、すがってみれば案外効果があるかもしれない。


「わかった。ありがとう」

 一応礼を言ってから、俺は確認する。

「……それで、値段は?」


 これで高額な金額でもふっかけられたら、さすがの俺もブチ切れるぞ?


 なんて思っていると、

「あ、タダでいいよ、初回サービス」

 アカネさんはへらへら笑いながらそう口にして、

「その代わり、今後も翔くんと仲良くしてあげてね!」


「あぁ、はい――」


 俺はただ、そう答えることしかできなかった。







 それから堂河内に見送られながらあの庭のバラ園を抜けて、表の古本屋に抜けて出ると。


「……臭いが、しない?」


 早速ポプリの効果があったのか、あの獣臭もしなければ、息遣いすら聞こえてはこなかった。


 おいおい、マジか。凄いな、バラのポプリ!


 俺は手にしたポプリをひとしきり見つめて、それを通学鞄の中へそっと収めた。


 俺みたいな身体のデカいやつが、小さなポプリを見つめながらにやけていたら、なんか不審者扱いされそうだと思ったのだ。


 これが本当に魔法の力なのかどうか、俺には解らない。


 けど、これで獣臭や息遣いから逃れられるのであれば、これほど嬉しいことはなかった。


 俺は嬉々とした足取りで古本屋をあとにして(ちゃんとシモハライさんに挨拶をして)表通りに出て、角のコンビニを曲がったところで――


「きゃっ!」

 突然、目の前に背の低い若い女性が現れて、

「――わっ!」

 寸でのところで身体をねじって、正面衝突を回避する。


 危ない、この体格差だと、確実にこの女の人を突き飛ばしてしまうところだった。


 俺はよろめいた身体を、地を踏みしめてバランス

を取り、次いでその女性に目を向ける。


「あ、大丈夫ですか?」


 女性の方もわずかにバランスを崩して倒れかかったが、気のせいだろうか、まるで宙に手を突くような動作だけで居住まいを正すと、

「ごめんなさい、そちらこそ大丈夫ですか?」

 そう言って、にっこりと微笑んだ。


 長く美しい黒髪はけれど夕日に照らされて茶色く輝き、露わになった右耳には星形のイヤリングが揺れている。桃色の唇は何とも瑞々しく、整った顔立ちは――どこかで何だか見覚えがあった。


 はて、いったい誰だろう? 何だかついさっきまで一緒に居たような気がするんだけど。


 何となく思い出そうと頭を回転させていると、

「あのぅ……?」

 目の前の女性に再び声を掛けられて、俺ははっと我に返った。


「あ、すみません。大丈夫です」


「そうですか? なら良かった。それじゃぁ、失礼しますね」


 その女性は言うが早いか俺のすぐ脇を抜けて、つい今しがた俺が来た道の方へ身体を向けて、

「……臭いますね」

 不意に、そんな言葉を口にする。


 それから俺のところまで戻ってくると、その鼻をひくひくさせながら俺の身体の周りをまるで犬か何かのように嗅いで回る。


「えっ、えっ? な、なんすか、いったい!」


 ついつい声を荒らげると、彼女は「あら、すみません」と俺から一歩あと退って、

「なんかちょっと、臭いが気になったもので」


「……臭い?」


「えぇ、そうです」

 と彼女はわずかに口元に笑みを浮かべながら、

「――獣臭が、あなたの身体にこびりついてるみたいですね。何かありましたか?」


 言われて俺は、大きく目を見開く。


 それからもう一度身体の臭いを嗅いでみて――けれど、あの獣臭はもう全然臭わなかった。


 魔法堂で貰ったバラのポプリの方が匂いがきついくらいだ。


 眉間に皺を寄せる俺に、女の人は小さく首を横に振って、

「そうですね、私の気のせいかも知れません」

 けれど、と肩に下げていたショルダーから一枚の紙片を取り出して、それを俺に差し出しながら、

「もし何かあれば、うちを訪ねて来てください」


 それじゃぁ、と言って俺にその紙片を押し付けるようにして無理矢理受け取らせると、スタスタと歩いて行ってしまった。


 何なんだよ、いったい――


 思いながら、受け取った紙片に目を向ければ。


「えっ?」


 そこには、『魔法百貨堂 楸真帆』という文字が印字されていたのだった。

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