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第1話

   1


 目の前に、小さな石ころが落ちていた。


 その先に、小さな祠が立っていた。


 ただ、それだけだったんだ。


 俺の蹴り飛ばしたその石ころが、祠の中の小さな鏡を壊したのは、本当にただの偶然で。


 だって、そこに石ころが落ちてたら蹴りたくなるのが子供ってもんだろ?


 まぁ、子供って言っても、もう中学生だったんだけれど。


 その夜からだった。


 もう一つの足音が聞こえるようになったのは。


 最初、俺はその足音は建物に反響した俺自身のものだと思っていた。


 けど、それは違ったんだ。


 その音は間違いなく、俺以外の何者かによる足音で、俺がトントンと道を歩けば、そのあとを追うようにタンタンと同じ歩数分、ついてくる。


 ばっと振り向いても、そこには誰の姿も見当たらない。


 気のせいか、と思って前を向いて歩き出せば、やっぱり同じようにその足音が付いてくる。


 怖かったさ、当たり前だろう?


 誰もいないのに足音がすれば、誰だって怖いに決まってる。


 おまけに、どこからともなく動物園の臭いが漂ってくるんだ。


 わかるだろ? そう、いわゆる獣臭だよ。


 あとから知ったんだけど、その祠に祀られていたのは狐だったんだ。


 あぁ、その所為か、俺が鏡を壊したから、狐の神様が怒ってついてきてるんだ――なんて思いはしたよ。


 けど、そんな非科学的なことを信じるほど、俺もガキじゃなかった。


 これは俺の心の問題だ。


 祠の鏡を壊しちまったことに対する罪の意識が、そんな幻を見せているんだって判断したんだ。


 だってそうだろ? この世に幽霊や妖怪なんているはずがない。それが現実なんだから。


 俺はもう一度その祠を訪れた。


 鏡を壊してから二週間ほどが経過していて、その間もずっと足音は俺のあとをついてきていた。


 俺はその祠の周りを掃除して、壊れた鏡を接着剤でつなぎ合わせて、ついでに稲荷寿司もお供えしておいた。だって、狐の神様といえば稲荷寿司だろ?


 これでばっちり元通り、ついでにお供え物もしたんだから、もう大丈夫。


 そう思ったんだけど――そうじゃなかった。


 今度は足音だけじゃなくて、何かの息遣いまで聞こえだしたんだ。


 ヒタヒタヒタ……

 フゥフゥフゥ……


 俺が歩くその後ろを、一定の距離を保ったまま、それまでよりももっと近くで。


 獣臭も強くなった。ただただ臭くて仕方がなかった。


 まるで、俺の身体そのものから臭っているかのようだった。


 俺の母さんも父さんも、妹も眉間にしわを寄せて俺に言った。


「どうしたんだ、シユウ。すごい臭いけど」

「汗じゃないな。犬とでも遊んでたのか?」

「お兄ちゃん、臭すぎ! 早くお風呂入ってよ!」


 俺だってその臭いには耐えられなかった。


 だから、妹に言われた通り、すぐに風呂に入って念入りに身体を洗ったんだ。


 だけど。


「――まだ臭い。ちゃんと洗った?」


 妹の言う通り、俺の身体はまだ獣臭かった。


 もう一度風呂に入って、それでも獣臭は取れなくて――


 いつしか俺は、家族とも距離を置いて食事をしなくちゃならなくなり、今でもこんな臭いを放ち続けているっていうわけだ。








「わかったか?」


 俺が訊ねると、目の前の席に座る大人しめな感じの同級生――堂河内(ドウゴウチって読むらしい)翔は口元に手をやりながら、小さく「そう」と頷いた。


 放課後。俺は堂河内と机を挟んで向かい合い、事の次第を話して相談しているところだった。


 どこか女っぽい顔をしたその同級生は、唯一俺を邪険に扱わない、数少ないクラスメイトの一人だった。というより、唯一の存在だった。


 中学を卒業して、この高校に入学して。


 臭い臭いと言われながら独りぼっちの寂しい高校生活一年目を過ごした俺は、それでも負けずに学校への登校を続けていた。


 幸いなことに、俺の見た目は他人に言わせれば相当に怖いらしい。身体もでかいし、眼付も悪い。友達もいないから一緒に遊びに行くやつらもおらず、暇な時間はただひたすらに身体を鍛えて過ごしてきた。その所為だろう、自分で鏡を覗き込んでみても、無駄にガタイが良い高校生に仕上がっていた。だから、いじめられるなんてこともなかったんだ。


 そんな俺とは対照的に、堂河内はほっそりとした体つきで、けれどパッとしない印象だった。よくよく見れば美少年の部類に入るのだろうけれど、目にかかりそうなほどの前髪がそれを隠して無駄にしているように俺には見えた。


 堂河内は「そうだね」ともう一度頷くと、

「その音は、今もまだ聞こえてるんだよね?」


「あぁ、聞こえる。こうやって動かない分には聞こえないけど、一歩でも歩き出せばその足音はついてくる」


「息遣いは? 今も聞こえるの? 僕には聞こえないんだけど……」


「聞こえる」


 事実、今でも俺のすぐ後ろから、フウフウと息を吹きかけられ続けていた。


「たぶん、俺の臭いはそいつのせいなんだ」


「……そう」

 もう一度、堂河内は小さく頷いた。


 それからしばらくして、じっと俺を――いや、俺のすぐ後ろを目を細めて見つめながら、

「猪原くん、これから時間、ある?」

 訊ねられて、俺は頷き、

「あるけど、どうするんだ?」


「ちょっとうちまで来てもらえる?」


「うち? お前の家に、何かあるのか?」


「うん」

 堂河内は頷いて、口元に笑みを浮かべながら、

「来てくれたらわかるよ。たぶん、どうにかできるはずだから」


 茶色いその瞳が、わずかに虹色の光を発したような気がした。

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