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「ただいまぁ」
がらりと引き戸を開けると、古い本独特の臭いが鼻孔をくすぐった。
何度嗅いでもいい匂い、とは言えないけれど、どこか懐かしい気がするのはなんでだろうか。
古い木製の棚にはジャンル分けされた文庫や書籍が並んでいるが、実は僕自身も何がどこにあるのかよく解っていない。
僕がここで暮らすようになる以前、ここには真帆ねぇのお祖父さんが住んでいたけれど、その時訊いた時にはすでに『適当にジャンル分けしてはいるけど、価値はいまいちわからない』と言われたのを覚えている。
一応古本屋の体を成してはいるが、実のところ、こちら側のお店は扉向こうにある魔法百貨堂を隠すために建てられただけに過ぎない。
お客さんだって一日に二、三人来ればいいくらいで、儲けなんてあるはずもない。
頼まれれば買取もするけれど、基本的にはネットで検索した金額を参考にしているので、実際の価値は――まぁ、お察しだ。
先ほども説明したとおり、所詮は魔法百貨堂を隠すための建前上のお店でしかないのだから、その程度で構わないのだ。
そんな楸古書店のレジカウンターの向こう側、そこには一人の女性がカウンターの上に足を投げ出すような形で椅子に深く腰掛け、如何にも古めかしいボロボロの本を読んでいる姿があった。
真帆ねぇの弟子で、魔法百貨堂で住み込みバイトをしている那由多茜さんだ。
茜さんは僕が帰って来たのに気付くと本から顔を上げ、朗らかな笑顔で、
「おかえりぃ、翔くん」
「……茜さん、またそんな格好で」
毎度の事だから慣れてはいるが、若い女性があんな格好をするのは如何なものか。
すると茜さんはフフンッと鼻で笑いつつ、
「いいでしょー、どうせお客さんなんて来ないんだし」
やれやれ、と僕はため息を一つ吐き、ぴしゃりと引き戸を閉めた。
真帆ねぇが魔法堂に居て、僕が学校に居る間は基本、茜さんがこちらのレジにいる。
けれど、レジを見る限りお客さんが来たという気配はない。
お客さんが来ないのはいつものことだけれど、ここまでリラックスされてしまうのもどうかと思う。
「あれ? その赤いバッグ、どうしたの?」
首を傾げる茜さんに、僕はそれを小さく掲げて、
「ちょっと色々あって」
「色々?」
先ほどまで暴れまくっていたバッグは帰ってくるまでの間にすっかり大人しくなり、代わりに中からスンスンと人の泣く声が聞こえていた。
「ははん?」
と茜さんはおかしそうにニヤリと笑んで、
「どうするの、それ? 誰か入ってるんでしょ?」
「……真帆ねぇに何とか誤魔化してもらおうと思って」
「ま、あの人は誤魔化すの大好きだからねぇ」
言って、再び本――たぶん、真帆ねぇの持ってる古い魔術書――に視線を戻す。
「じゃぁ、しばらくここで店番してるから、行っといでよ」
「うん、よろしく」
手をひらひらさせる茜さんに見送られながら、僕はレジカウンター脇の扉を開けた。
一年中バラの咲き乱れる中庭を抜けた先、そこには古い日本家屋が建っていて、
「真帆ねぇ、ただいまぁ」
言いながら引き戸を開けると、カウンターに突っ伏していた真帆ねぇが「ふへっ」と変な声を漏らして慌てたように顔を上げ、
「い、いらっしゃいませ、どのような魔法をお探しですか?」
口の端に涎のあとを残したまま、にっこりと笑顔を向けてきた。
「真帆ねぇまで」
「あぁ、翔くん、おかえりなさい。で、何が私までなんですか?」
小首を傾げる真帆ねぇに、僕は首を横に振って、
「茜さんも向こうで足投げ出して本を読んでたよ。暇なの?」
「暇って言うか、妙に眠いんですよねぇ」
言って真帆ねぇは両腕を大きく伸ばして胸を張りながら欠伸をひとつして、
「まぁ、私もさっき帰って来たばかりでしたから、ちょっと疲れているんですよ」
「そういえば、昨晩から協会の依頼で出張行ってたっけ。お疲れさま」
「いえいえ――あら?」
とそこでようやく僕の提げている赤いバッグに気が付いて、
「どうしたんですか、そのバッグ。それは昨日、彩名さんに貸し出したはずなのに」
カウンター脇に置かれた真新しい通学鞄に目を向けながら、真帆ねぇはそう口にした。
僕は手短に先ほどの事を話して聞かせ、そして最後に、
「何とかならない? 彩名先輩が持ってた忘れ薬、一回分しかなくて」
「なるほどなるほど」
真帆ねぇはふんふんと頷くと、僕から赤いバッグを受け取って、
「えいっ!」
何を思ったのか、おもむろにバッグを開けて、ためらいもなくひっくり返した。
「――えっ!」
その途端、彩名先輩が入れていたのであろう筆箱やら教科書やらがバラバラと大量に飛び出していき、それと一緒に、
「ひ、ひいいっ!」
変な声を漏らしながら、あの男の子が転がり出てきた。
情けないほど涙と鼻水に塗れた怯え顔に、我ながら申し訳ない思いに駆られた。
赤いバッグの中で、さぞ不安と恐怖に怯えたことだろう。
男の子――たぶん同い年くらい――は僕や真帆ねぇに情けない顔を向けながら、
「な、何なんだよ、お前ら! お、俺をどうするつもりなんだよ! お、俺は悪くない! 俺はただアイツにお願いされて仕方なく――!」
聞いてもないのに弁解を始める彼に、真帆ねぇはどこからともなくティーカップとポットを取り出し、紅茶を注いで差し出しながら、
「まぁまぁ、お茶でも飲んで落ち着いてください」
優し気な笑みを浮かべて見せる。
「え、あっ……」
男の子は一瞬真帆ねぇのその笑顔に見惚れ、素直にカップを受け取ると、一気にお茶を飲んで――バタンッ
「はい、おしまい」
「ありがとう、真帆ねぇ」
男の子には申し訳ないけど、バッグの中に閉じ込められたって記憶も無くなるんだし、許してほしい。
あとで目を覚ましたら、店の前で倒れていたから介抱していた、とでも適当に言い訳しておこう。
「あ、そうそう、あとこれも」
僕は思い出したように小脇に抱えていた『天狗の隠れ蓑』(姿を隠せる魔法の道具だ)を真帆ねぇに返しながら、
「ごめん、勝手に借りてた」
「あらあら」
と真帆ねぇは口元に笑みを浮かべて、
「どんな悪さをしてきたんですか?」
「真帆ねぇじゃあるまいし、違うよ」
「と、言うと?」
「真帆ねぇがヒロタカに渡した香水だよ」
「香水が、どうかしましたか?」
「アレ、勇気が出る魔法の香水とか言ってたけど、違うよね?」
「そうですね、魔よけの香水です」
こくりと頷く真帆ねぇ。
「なんであんなの渡したの?」
真帆ねぇは口元に手をやりながら、
「別になんでも良かったんですよ。“勇気”が出ると言っておけば、それだけで」
「どういうこと?」
「確かに、魔法を使って告白したり、それこそ惚れ薬を使うって手もありました。けれど、ヒロタカくんの望みはそうじゃなくて、一歩踏み出す勇気、でしたよね」
「つまり?」
「せっかくの愛の告白ですよ? 魔法に頼るより、やっぱり自分自身の意思で行動した方が良いって思いませんか?」
「だから、嘘を吐いたってこと?」
「嘘じゃありませーん、プラセボ効果って言ってください!」
ぷぷっと噴き出すように笑う真帆ねぇに、僕は大きくため息を吐きながら、
「僕、真帆ねえがそんなことするから、どうしても気になって、天狗の隠れ蓑を使って学校を出たところから、ずっとヒロタカのあとをつけてたんだ」
「そうなんですね。でもほら、効果あったでしょう? ちゃんと魔がよけられましたよ」
「それは、僕がその場にいたからで――」
「それを含めての“魔法”ですからね、翔くん」
「……そうなの?」
「はい」
真帆ねぇは頷いて、
「バタフライ効果じゃないですけど、魔法はそういうのを自発的に起こす力があるんです。その時にヒロタカくんを守る為に発動した魔法が、結果的に彼を追っていた翔くんを動かした。そう言うことだと思ってください」
「ふぅん? そんなもの?」
僕はまだしばらく目覚めそうにない、床に倒れたままの男の子を見下ろしながら、何となく納得しかねる思いで返事した。
「そうです、そんなもんです」
にっこり微笑む真帆ねぇは、それからおもむろにパンッと手を打って、
「そうそう、翔くんにお土産買ってきたんですよ! むらすずめ! 今からお茶入れますから、一緒に食べましょう!」
「えっ? この子はどうするの?」
「そのうち目が覚めるでしょ」
「そんな、適当な」
「ほらほら、早く早く!」
スキップするように暖簾をかき分けて店の奥へと入っていく真帆ねぇに、僕は大きくため息を吐きながら、
「はいはい、今、行きますよ」
そのあとを追って、暖簾をくぐったのだった。
……さんにんめ に続く