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学校に着き、保健室経由で教室に入ると、
「おっスー」
「おはよー」
詩織と真凛が小さく手を振る。
あたしはそれに対して、
「おはよう、ふたりとも」
と答えながら、バッグを机のフックにかけた。
「昨日、どうだった?」
真凛に訊かれて、あたしは首を傾げながら、
「昨日? 何が?」
すると真凛はわずかに目を細め、少し低い声で、
「……カレシとのデート、楽しかった?」
「へっ」
とあたしは思わず変な声を漏らして、どこか訝しむような眼を向けてくるふたりに、慌てて両手を振りながら、
「――あ、うん。そりゃぁ、もう。楽しかったよ」
と我ながら取ってつけたような笑みを浮かべて、そう答えた。
真凛はしばらくあたしの表情をじっと窺っていたが、やがて「ふうん、そう」と口元に不敵な笑みを浮かべると、
「良かったじゃない」
頬杖を突きながら、詩織の方へと視線を戻した。
「だね」
と詩織も苦笑するように返事して、ふたりは顔を見合わせる。
「……?」
けれどその表情は、まるで何かを企んでいるようにあたしには見えて、
「なに?」
と思わず訊ねると、真凛は「別に何も」と小さく答える。
「そんなことより、今日のニュース見た? やっぱり出てたでしょ、例の話」
「……何だっけ、例の話って」
首を傾げるあたしに、
「ほら、隣のクラスのナカタエミ」
詩織が笑顔でそう言って、あたしは昨日の話を思い出す。
あぁ、また例の、その手の話か――
真凛と詩織はくすくすと笑いながら、見知らぬナカタエミと、そのお相手であるどこぞの先生の話に夢中になる。
あたしはそんなふたりを眺めながら、気づかれないよう、小さくため息を吐いたのだった。
その日の放課後。
あたしはふたりと別れて、魔法百貨堂へ向けて一人、大通りの歩道を歩いていた。
あの後、お昼過ぎに茜さんから、
『真帆さん戻ったよ。鞄直ったらしいから、取りにおいで』
と連絡が入ったのだ。
あたしは赤いバッグを肩にかけ、足早に道を歩き続ける。
コツコツと後ろから聞こえてくる足音に、気付いていないふりをして。
時折カーブミラーやお店のガラスに反射して見えるその追跡者に対して、あたしはいつこの忘れ薬を使おうかと悩んでいた。
彼は――広髙くんは昨日と同じように、あたしの後ろをつかず離れずついてくる。
いったい、どこまでついてくるつもりなんだろうか。
思い、あたしは大きくため息を吐くと、すぐそばの公園に道をそれた。
木の陰に身を隠し、あとからやってくる広髙くんの様子を窺う。
彼は遅れて公園に入ってくると、慌てたようにあたしの姿を探し始めた。
あたしはその背後に歩み寄り、
「――誰、探してるの?」
と声を掛ける。
「えっ!」
広髙くんは目を見開いて振り向き、あたしの姿に気が付くと、
「……ごめんなさい」
そう、小さく謝った。
「あたしに、何か用事?」
すると彼は眉間に皺を寄せるように、真剣な眼差しで、
「はい」
とはっきり口にする。
昨日とは打って変わって落ち着いたその態度に、あたしは少しばかり気圧されて、思わず一歩あと退った。
覚悟を決めた、という感じの表情を見つめながら、あたしはポケットに手を突っ込む。
茜さんから貰った忘れ薬の小瓶。
その感触を確かめながら、けれどあたしは彼を目の前にして、まだこれを使うかどうか決めかねていた。
『使う時はよく考えてから使ってね。使われた方からしてみれば、突然記憶が無くなっちゃうんだもの。本人はそれまでに何があったのか、自分が何をしていたのか、全部きれいさっぱり忘れてしまう、そう言う魔法の道具なの』
茜さんのその言葉が脳裏によみがえり、小瓶を握る手にぎゅっと力をこめる。
あたしがこれを広髙くんに使えば、彼のここ一週間の記憶は失われてしまう。
そうすれば、彼があたしをつけてくる、なんてことはもうなくなるのだろう。
彼の記憶からあたしとの出会いは失われ、その感情も消えて無くなる。
だけど――本当にそれでいいの?
彼の記憶が失われたとき、あたしは何を思うだろう。
……たぶん、きっと、後悔する。
あたしの勝手の所為で、彼の記憶やあたしへの感情が失われてしまったその事実を、ずっと気にして生きていくことになる。
果たしてあたしは、それに耐えられるのだろうか。
「――彩名先輩」
広髙くんがあたしの名前を口にして、あたしはふと我に返った。
そこには神妙な面持ちの彼が居て、大きく深呼吸をしてから、意を決したように、
「俺、彩名先輩に――」
「――よう、何してんの?」
突然、彼のクビに見覚えのある男の腕が回されて、
「やっぱり、付け回されてたんじゃん」
あたしの背後から、真凛が姿を現した。