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校舎に入ってあたしが向かったのは、自分の教室ではなく、保健室の方だった。
こんな時間にわざわざ注目の的になるような場所になんて行けるはずがない。
こういう時、あたしは決まって保健室に逃げ込むようにしていた。
がらりと保健室の扉を開けると、窓辺の机に向かうオギちゃんの姿があって、
「おはよう、オギちゃん」
と挨拶しながら彼女の方に歩み寄った。
オギちゃんは書類から顔を上げると、
「――オギちゃんじゃない。オギ、先生」
いつものように、呆れ顔で訂正する。
けれどあたしはそんなオギちゃんに笑いかけながら、
「言いじゃん。そんなに歳、かわらないんだし」
新任のオギちゃんは若くてわたしたち生徒と年が近いせいもあって、みんなから『オギちゃん』と親しみを込めて呼ばれている。
いつも優しい先生のことがあたしは好きなのだけれど、一部の先生からは『生徒から舐められている困った新人』なんて思われているらしい。
まぁ、確かにそんな一面もあるかも知れない。
でも、それだけ親しみやすい、良い先生ってことだとあたしは思う。
「また遅刻?」
「……お腹、痛かったから」
下腹部をさすりながら答えると、オギちゃんはやれやれと肩をすくめて、
「はいはい、わかりました」
答えて、再び書類に顔を戻した。
あたしはベッドの上に赤いバッグを放り投げ、勢いをつけて寝ころんだ。
白い天井が視界を埋め尽くし、それを眺めながら、あたしは大きなため息を一つ吐く。
――変な期待、させちゃったかな。
そんなことを考えながら、あの男の子の表情を思い浮かべた。
彼のあの視線は、間違いなくあたしに対する好意によるものだった。
こんなことを考えるのは思い上がりかもしれないけれど、あの手の視線を受けたのは一度や二度じゃない。
以前、試しに付き合った元カレも最初、同じような目であたしを見ていた。
いつも何か(たぶん、あたしからの好意)を期待するような目であたしを見ていたのだけれど、残念なことに、あたし自身はその元カレに対して結局、最後まで好意を抱くことはなかった。
ほぼ途切れることなく送られてくるメールに対しての返信、休みのたびに誘われるデート、登校時や下校時にもとにかくあたしにくっついてきて、しまいにはあたしのプライベートにまで足を踏み入れようとして、とにかくウザかった。
いつしかあたしは意図的にメールを無視し、休みのたびに親と出かけるからと言って誘いを断り、元カレとの時間をずらして登下校するようになっていった。
当然、別れを切り出したのもあたしの方からだった。
元カレと会う回数が減るたびに濁っていく彼の瞳に、あたしは耐えられなかったのだ。
何度も何度もしつこく食い下がられて、けれど、それでもあたしは彼をフッた。
その後も付きまとってくる彼を、トモダチの助けを借りて何とか遠ざけて。
――また、あんなことになるのは嫌だな。
あたしはもう一度ため息を吐いて、瞼を閉じた。
何だか胃がキリキリして仕方がなかった。
なるべく考えないように、考えないように努めたのだけれど、考えないようにすればするほど、逆にあの男の子のことを意識してしまってどうしようもない。
助けなければよかったかもしれない。
あんなことをしなければ、今頃こんな思いなんてせずに済んだというのに。
……放っておけなかった。
あんなふうに困っている子を、あたしはどうしても放っておけない。
真面目だ、いい子ぶってる、なんてトモダチは言うのだけれど、そんなんじゃない。
ただ、どうしても困っている人の姿を見かけると心がざわざわして、見て見ぬふりをすることができない性分なのだ。
親切――とはちょっと違う。
たぶん、これはただのおせっかい。
この性格、どうにかしたいなぁ。
こんなんだから勘違いされて、変な期待をさせてしまうんだ。
三度目の深い深いため息を吐いたとき、一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
あたしは上体を起こし、むちゃくちゃ気怠い思いの中、バッグを肩にかけて立ち上がった。
「じゃぁ、あたし教室に戻るね」
まだ少し残る胃の不快感に耐えながら保健室を出ようとしたところで、オギちゃんはそんなあたしに顔を向けて、
「どうする? 湯たんぽ、いる?」
あたしはちょっと考えてから、
「――うん、いる」
と小さく頷いた。