目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第10話

   9


 大きなため息がこぼれて落ちた。


 こんな気持ちになったのは、たぶん、生まれて初めてのことだった。


 誰かを好きになるってのは、こういうことだったんだ、と足取りすら重くなった。


 一目惚れなんて幻想だと思っていた。


 これまでにも何度か女の子を見て『可愛いな』と思うようなことはあったけれど、その気持ちが長続きすることなんて一度もなかった。


 何をどうしたらよかったのか、全然わからない。


 思い起こされるのはアヤナ先輩の笑顔で、そのたびに俺の胸は締め付けられた。


 苦しい。

 息ができない。


 気持ちが沈んで、肩にかけた通学鞄もやたらと重く感じられた。


 この気持ちを、伝えればよかった。


 吐き出してしまえばよかった。


 けれど、そんなこともできなくて。


 俺はなんて意気地がないんだ。


 小さい頃からそうだった。


 いつもいつも、一歩前へ踏み出せない。


 趣味にしても、勉強にしても、恋愛にしても、失敗するのが怖いのだ。


 ほら、駄目だった。

 やっぱり俺には無理だったんだ。


 そう思うのが嫌で、怖くて、何もできない。


 俺は、俺はなんて弱いんだ。


 勇気が欲しい。


 ――一歩踏み出す、勇気が欲しい。


 そうすれば、何かを変えられるかもしれないのに。


 思いながら、両手をポケットに突っ込んだ、その時だった。


「……んん?」


 右手の指がちくっとして、俺は慌ててポケットから右手を引き出す。


「なんだ、なんだ?」


 呟きながらもう一度ポケットに手を突っ込んでみれば、

「これは、名刺……?」

 茜さんからもらったその名刺には、ただ小さく『魔法百貨堂』と印字されていて。


 それと同時に、茜さんの言葉がすぐ耳元でよみがえった。


『――何かあったら、うちにおいで。魔法で何とかしてあげる』


 俺はしばらくその名刺を見つめていたが、

「――うん」

 と一つ頷き、その名刺を握り締めて、一歩前に踏み出した。








 陽は西に傾き、橙色の光が辺りを照らし出していた。


 その名刺には住所も何も書いてはいなかったけれど、足が勝手に前へ進んだ。


 不思議だった。これも、茜さんの言う『魔法』なんだろうか。


 まるで何かに誘われるかのように、右へ左へ何度も曲がり、見知らぬ道をひたすら進んで、しばらくすると大きな通りに出て、そのすぐそばのコンビニの角を右へ曲がったところで――


 やがて見えてきたのは、古めかしい感じの小さな古本屋さんだった。


 その店先で閉店の準備に取り掛かっている、二人の人影。


 その人影に、俺は確かに見覚えがあって。


「――翔?」

 思わず声を掛けると、

「あれ? ヒロタカ?」

 店の前の陳列カートを店内に引き入れていた手を止めて、翔は驚いたように口にした。


 その後ろでは、「ん?」とこちらに顔を向けて、シャッターに手を伸ばすシモハライさんの姿もあった。


「どうしたんだよ、珍しい。何か俺に用事?」


 言ってこちらに歩み寄ってきた翔は、ふと俺の手に握られた名刺に気づき、

「――あぁ、なるほど」

 と口元に笑みを浮かべた。


 俺は眉間に皺を寄せながら、

「なんだよ?」

 と唇を尖らせる。


 何か知っているような素振りの翔は、古本屋の奥の方を指差しながら、

「何か相談事があるんだろ? こっちだよ」

 そう言って、俺に背を向けてスタスタと店の中へと入っていく。


「え? あ、おい!」

 俺も慌ててその後を追うと、翔は店の奥、レジカウンターの隣にある扉のノブに手をかけて、

「どうぞ」

 と一気に扉を開けた。


 ふわりと流れてくる甘い香りと、夕日に照らされた中庭がそこには見えて。


 その中庭には一面のバラが咲き乱れていて、舗装された小さな道がさらに先へと続いている。


「こ、ここは――?」

 戸惑う俺に、翔は手で先を示しながら、

「魔法百貨堂は、この奥だよ」

 と教えてくれた。


「あ、え? あぁ……」


 背中を押されるように促されて、俺はその小さな舗装された道を歩き始める。


 色とりどりのバラは夕日に照らされてよりその色を濃くし、道の脇には小さな四阿が建っていた。


 さらに道を奥へ進むと、やがて古い日本家屋が姿を現し、その軒先には誰が書いたのだろう、達筆で『魔法百貨堂』と記されていた。


 ガラスの引き戸にはボロボロの紙片に、これまた綺麗な、けれど可愛らしい丸文字で『萬魔法承ります』と貼られており、俺はその戸に手を掛け、ゆっくりと横に引いた。


「いらっしゃいませー」


 その途端、やはり閉店作業をしていたのだろうか、雑巾を片手に水色のエプロンを着た茜さんの姿がすぐ目の前にあって、

「あら? 君、来てくれたんだ」

 と嬉しそうな笑顔を俺に向けてくる。


 それに対して俺は、

「あ、はい」

 と小さく頷き、続いて茜さんの肩越しに見える、カウンターへと視線を向けた。


 カウンターの向こう側には見覚えのある長い黒髪の女性がこちらに背を向けて立っており、商品棚に並べられた瓶から手を離すと、スッとこちらに振り向いて、


「――いらっしゃいませ。どのような魔法をお探しですか?」


 そう言って、真帆さんはにっこりと微笑んだ。






……ひとりめ 了・ふたりめ へつづく。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?