ここに来たときのことはあまり覚えていない。ただ、ある日寝ている最中に透明な巨人を見たことは覚えている。その巨人は眠っている僕を見つけて、軽々とつまみ上げた。それを私は奇妙な夢だと思った。そして夢が終わって目が覚めると――この場所にいたのだ。
最初はすぐに戻ることができた。この世界で目を閉じると、次は元の世界で目を覚ます。けれど何度も何度もこの世界に迷い込むうちに、僕はこの世界から戻れなくなった。
ここには私以外の人も時折迷い込んでくる。その話を総合すると、それぞれの元の世界にある、廃墟のような打ち捨てられた場所で眠ってしまうと、ここに連れてこられてしまう。けれど普通はすぐに戻ることができる。迷い込む人たちは、それぞれ違う世界からやってきているようだ。私が聞いたことのない世界も多くあった。
なぜ帰ることができなくなってしまったのか。それはおそらく私に原因があるのだろう。この世界に入る条件は、打ち捨てられた場所で眠ること。そしてそのときに、この世界にいたくないと強く望むことだ。
僕をここに連れてきた存在は、もしかしたらその願いを叶えてくれたのかもしれない。でもそれは親切などではないとわかっている。この世界にずっといるうちに、僕はその存在を感じることができるようになった。それにあるのは善意でなければ悪意でもない。
この世界は夕暮れがずっと続いている。しかしその時間で止まっているように見えて、時間は進んでいた。
この世界に迷い込むようになって、ちょうど十回目のことだった。夕暮れで止まっているように思えたこの世界に、夜の風が吹き始める。僕ははっとして周囲を見回した。いつの間にか日が沈みそうになっている。いや、そんな時間は経っていなかったはずだ。誰かが時計の針を一気に進めたかのように夜が近づいてきたのだ。
戻らなければ。僕は本能的に思った。戻らなければ、彼女を永遠にここに閉じ込めてしまうことになる。そんな直感があった。
僕は目を閉じて走り出した。目を閉じれば元の世界に戻れる。少なくとも今まではそうだった。しかし瞬きをするたびに道は閉ざされていく。草木が意思を持っているように進路を妨害していた。けれどここに閉じ込められるわけにはいかない。僕は諦めて目を開いて走り始めた。
「ずっとここにいるわけにはいかないんだよ!」
たとえ彼女がそれを望んでいようとも。彼女が元の世界で生きていたくないと思っていても、ここにずっといることはできない。それは元の世界での彼女の死を意味するから。僕は何かから逃れるように走った。しかし出口は一向に開かれない。どこかにそれらしきものがないかと周囲を見回した僕は、自分が今まで通ってきた道の先に、透明なものを見た。
「何だ、あれは……」
透明なのに、見える。
ぐにゃぐにゃと形を変えているが、それは巨大な人間の姿をしているようだった。あれが僕たちをここに連れてきた存在だろうか。でもこれまでは直接姿を見せることなどなかった。ならばなぜ、今になって現れたのか。
それが何なのかはわからない。けれど逃げなければならないと思った。捕まってしまえば取り返しのつかないことになる。
けれど足が動かない。いつからかわからないが、僕のそれは完全に麻痺してしまっていた。必死に送っている指令が届かない。起きているのに金縛りに遭っているような状況だ。
僕が動けずにいる間にも、それは体をゆらめかせながら近付いてくる。夜を帯びた風は湿度が高く、じっとりと肌にまとわりつく。背中に滲んだ汗が雫となって皮膚の上を流れていった。
やがて、透明なそれはとうとう僕の前まで辿り着き、形のはっきりしない腕をこちらへ伸ばす。透明なのに、見えないはずなのに、脳が直接その光景を理解する。
抵抗しようとしても、喉さえ凍りついていた。それが伸ばした手が体に触れる。その瞬間に真っ黒な奔流が僕の体の中に入って来るのを感じた。
意識が塗り潰される。
目を開いているはずなのに、全てが黒に閉ざされていく。
(だめだ……このままだと……!)
しかし体は麻痺している。僕は暗闇の中できつく目を閉じて、その視界に見える小さな光に動かない手を伸ばそうとした。
そのとき、僕の体は網のようなものに受け止められた。それは蜘蛛の巣のように僕の体を捕らえているのに、なぜか不思議な安心感を与えてくる。薄目を開けると、暗闇の中に静かな声が響いた。
『驚いたな。私が知っている子に本当に良く似ている』
その声が女のものであることはわかる。そして発された言葉は流暢な英語だった。僕は理解できて、今は眠っている彼女には朧げにしか理解できない言葉。
『でも目の色は違うね。君の目はよく見ると綺麗なブラウンだ。あの子は海のような青色だったからね』
「誰だ?」
『この状況で私の名前を聞いてどうする? まあ名乗るとすれば……しがない画家だよ、生前はね』
暗闇の中に女の姿が朧げに浮かび上がってくる。派手な橙色の髪と、緑色の瞳。そして片耳を繊細な細工のピアスで飾っていた。
「生前……じゃあここは死後の世界か?」
『近いけどちょっと違う。ここは狭間なんだよ。君は生きてもいるし死んでもいる』
生きてもいるし死んでもいる、という状況には心当たりがある。生きている人間の体に死んでいる人間の心。死者の存在が生者を蝕むものだとわかった上で、それでも手を離してくれなかった彼女の末路。
『私は間違いなく死んだんだけどね。銃でこう、自分の頭を撃ち抜いて。でもどうしてかはわからないけど魂が彷徨ってここに来てしまった。ここには生きている人間がたまに迷い込むけど、死んだ人間も迷い込むってことだね』
「……ここから出る方法は?」
『夜に囚われてしまったらもう無理だね。私ももうここから動けないし、後任が来たってことはお役御免ってことなんだろう』
「後任ってどういうことだよ! もっとちゃんと説明してくれ!」
僕が詰め寄ると、女は少し考えてから口を開いた。聞こえてきた言葉は日本語だった。
『この狭間はね、無数の世界と繋がっているんだ。世界を部屋に例えるなら、ここは廊下みたいなものだ。廊下がなければ世界と世界はバラバラになってしまう。でもこの廊下はね、残念なことに結構脆いものなんだ。夕暮れ時が普通ならすぐに終わってしまうようにね。だからこの狭間を管理するものは、ここを維持するために人柱を要求する。今は私だけれど、次はおそらく君だ』
「勝手に人柱にされるのは納得がいかない」
『勝手ではないはずだよ。少なくともアレは……望まないものをこちらに何度も引き込んだりはしない』
「それは……」
望んだのは自分ではない、と言って理解してもらえるのだろうか。僕たちが置かれているこの状況を。僕たちの相反する願いを。
『私たちをここに引き込んでいるのは、半ば自動的な存在だから、そういう思いに反応して動いているだけなんだよ。でも、考えようによっては悪いことではない』
「……どうだか」
自分で死を選んだ人間からすれば快適なのかもしれない。けれど僕は早くここから出たかった。今回こちらに引き込まれてから、一切呼びかけに応じない彼女のことも気にかかる。いくらここと元の世界の時間の進み方が違うからといっても、あまり長時間この世界にいることがいいこととは思えなかった。
『ここにいる限り、私たちの魂はほとんど現状のままで留まり続ける。だから思ったんだ。ここは、誰かが私たちのことを死なせたくないから、この時間の止まったような場所に留め置いてるんじゃないかってね』
「誰かって……誰だよ?」
『さあ? 今のはあくまで私の直感だから、そもそも合っているのかもわからないよ』
女の言うことはあくまで希望的観測でしかない。けれどあながち間違いでもないのかもしれない。鏡合わせの僕たちの願いが僕たちをここに引き込んだのなら、それにも説明がつく。
『とはいえ夜に捕まってしまった君たちが限りなく絶望的な状態なのは変わりないね。何せこの世界を維持するための燃料にされようとしてるんだから』
「……そっちは随分あっけらかんとしてるんだな」
『私は間違いなく死んでるからね。死んだはずの自分の意識がまだ続いているということにむしろ驚いてるよ』
「そうか」
『私は別にここにいることに異存はないんだよ。想像していた地獄よりは快適だし。でも、君は違うんでしょう?』
僕は頷いた。少なくとも本来はこんな場所にいるべきではない少女の顔を思い浮かべながら。
『私がまだここに残っているということは、私の役割はまだ完全に終わったということではない。それなら、私の在任期間を限りなく引き伸ばせば、後任の君が仕事をしなくちゃいけなくなる日も先延ばしにできるってことになると思わない?』
「そうかもしれないけど、それに何の意味がある?」
『時間稼ぎをすれば、その間に君がここから脱出する方法を見つける可能性はあるでしょう? もしくは君たちより相応しい人がここにやってくるかも』
「成功する確率は低そうだな。だけど――」
今は、それに賭けるしかないのかもしれない。何か行動を起こすにしても今のままでは時間が足りないことは明らかだった。
「時間稼ぎ、本当にやってくれるんだな?」
『私を誰だと思ってるの? 見くびってもらっちゃ困るわ』
「いや、誰かはわからないんだけど……」
ここではない世界では有名な人なのだろう。誰だかわからない人に任せるのは不安ではある。けれど、今は何より時間が欲しかった。
「でも……何で僕たちのためにそこまでしてくれるんだ? そっちには何のメリットもないんじゃ」
『メリットかぁ。ここから解放されても多分私は消えていくだけだろうし、だったらもうちょっと残っていたいというのはあるし……あとは、君の顔が私の弟子にちょっと似てるから』
「……顔?」
『そう。その顔に生まれたことを感謝するのね』
女は僕を眺めながら、体つきはちょっと違うかなぁ、などと呑気なことを言い始めた。その弟子とやらが本当に似ているかはわからないし、そもそもこれは僕自身の顔ではないのだ。
『それじゃあ、健闘を祈るわ』
女の手が僕の体を押す。足元が崩れて、暗闇の中に引き込まれた僕は思わず目を閉じ――次に目を開いたときには、あの夕焼けが終わらない場所に戻されていた。
***
その日から、どれだけの月日が流れたのだろう。ここから出る方法はまだ見つかっていない。けれどわかってきたことも多い。
暗闇の中で出会った女は、ここを廊下に例えていた。この世界は無数の世界と繋がっている。世界という部屋同士は独立していたり、直接ドアで繋がっていることもあるが、その全ての扉がここに通じている。けれど廊下とはあくまで通過点であり、本来は長居するようなところではない。世界と繋がっているが故に迷い込む人は多いが、大抵はすぐに元の世界へ戻っていく。
けれどこの廊下を維持するための力というのも必要だ。それが人柱なのだろう。そして透明なものはそれを選ぶためにいる。基本的にはあの女がそれを押し留めているのだろうが、それでもたまにあの透明なものが姿を現す。
それが僕たち以外を引き込もうとしていたことは何度もあった。
他人を差し出せば、少なくともすぐに人柱にされることもないのだと僕たちは理解していた。それなのにまだ僕たちがここにいるのは――。
「……そんなに、他人を犠牲にして助かるのは嫌か」
霊感がある、という少年を元の世界に戻した彼女に僕は尋ねる。僕たちはあの暗闇からは一時的に解放されたが、そこに引き込まれた印は残っている。体を覆い、徐々に内側まで侵蝕していく黒。普段は服に擬態して静かにしているそれは、生贄を逃したことに対して怒っているのか、炎のように時々揺らめいていた。それを抑える白い手。それが今僕たちに残されている足場だ。もう時間がない。本音を言えば、他人を差し出してでも僕はここから出たかった。
「他人を犠牲にして助かる資格は、私たちにはない」
黒の侵蝕も深刻だったが、それ以上に、僕という存在が彼女の自我を蝕んでいるということを僕たちは知っている。だからこそ僕たちはここに引き込まれてしまったのだろう。先程元の世界に返した少年もそうだ。ここに連れてこられるのは、死者に近い人間、あるいは自ら命を絶った直後の人間。死者の存在はそれだけで生者を蝕む。こちらに悪意などなくてもだ。ぬるい水が氷を溶かして全て同じ温度の水になってしまうようなもの。死者とはそういうものなのだと言うしかない。
「……ここを維持するために犠牲になってもいいって言うのか」
彼女は本当はそうなることを望んでいるのではないかと最近思う。それともただ、他人を自分のために差し出すことができないだけだろうか。
「――私はそれでもいい」
その心を変える何かが今すぐ現れてくれれば。ここに繋がるどこかの世界にはそれがあるような気がする。
僕たちがいた元の世界は確かに苦痛に満ちていた。手を差し伸べてくれる人は誰もいなかった。それでも別の世界なら、僕たちの運命を変えてくれる人がいるかもしれない。それが見つかるまで、僕たちはここで生かされているのかもしれない。誰にかはわからない。神様かもしれないけれど、僕は神など信じてはいない。
生きていてほしいという願いはどうすれば届くのだろう。これほどに近いのに僕たちは遠い。ここから出る方法は、彼女が救われる世界は、ここから繋がるどこかに存在しているのだろうか。存在するのなら、そこにはどうしたら行けるのだろうか。
「――由真」
あの少年には教えなかった、彼女の名前。
教えてしまえばよかったと少しだけ思ってしまう。この世界への繋がりが残っていれば残っているほど、彼が再びここに引き込まれる確率は高まる。固有名詞はその最たるものだろう。
ああ、でもそれは――由真が一番望んでいないことだろう。結局はここでただ、何かが変わることを願うしかできないのだ。
たとえば別の世界に引き込まれるだとか、そもそもこの狭間の世界が人柱などなくても動くようになるだとか、そんな都合のいい未来を。