「伏見くん、昨日出してくれた原稿だけど……」
編集長の言葉がどこか遠くに聞こえる。数日前から体調が悪かった。何かの匂いを嗅ぐだけで吐き気が押し寄せる。そのせいで白米すら食べられず、取材で食事が摂れないとき用にまとめ買いしていたゼリー飲料すら体が受け付けない状態だった。
「伏見くん、体調が悪そうだね。この原稿も内容はいいんだけど、君には珍しく誤字だらけだ。帰って休んだ方がいい」
「すいません……そうさせてもらいます」
「長引くようならちゃんと病院に行くように。ライターは体が資本なんだからな」
似たような言葉をどこかで聞いた気がする。いや、あれは「自分一人の体ではないのですから」だ。普通は妊娠した女性などにかける言葉だ。俺もそうやって妻の体を気遣っていた日々があった。妻はもう子供は望めない体になってしまったが、それも自分たちの運命だったのだと互いに受け入れている。
編集長に言われたとおりに早退し、ベッドに横になる。しかし何をしても吐き気は襲ってくるし、頭がクラクラする。とりあえず水分は取らなければと思って買ってきたスポーツ飲料も何度も戻して無駄にしてしまった。
一体どうしたことだろう。あの開かずの部屋を調査に行ってから、自分の体が自分のものではないみたいだ。しかも昨日診てもらった病院では何の異常もなかった。俺は気持ち悪い味が残る口をゆすいだ。そこでちょうど妻が仕事から帰ってくる。
「賢次、また体調悪いの?」
「ああ……昨日行った病院では異常なしだったんだけどな」
「一応賢次が食べられそうなもの買ってきたから。他の病院行ってみてもいいんじゃないかな……」
俺はゆっくり頷いて部屋に戻る。妻の優月は俺の体を気遣い、出来るだけ吐かないで済むような食事を考えてくれている。申し訳なく思って謝ると、妊娠のときに学んだことだから、と笑っていた。子供は死産に終わってしまったが、悪阻は酷かった。それだけ酷い悪阻ならせめて無事に生まれてきてほしかったが、過去をいくら責めてもどうにもならないことはわかっている。だからこそ、俺たちは今を生きている子供たちのために何かが出来ないかと考えるようになったのだ。
それこそ、この前取材に行った開かずの部屋で死んだ子供のような例を出さないように。
そのためにはまずこの体調をどうにかしないといけないと決意したそのとき、腹部で何かが蠢くような気配がした。
*
「あれ、伏見くんはどうしたんですか?」
「とても体調が悪そうだったから帰したよ。記事もまあ誤字だらけだけどしっかり上げてはくれたし」
「誤字潰すの、私がやりましょうか?」
伏見が家に帰った頃、取材から戻ってきた緑川律樹は編集長とそんな会話をしていた。スクープを争う編集部では同僚は敵になりがちだが、ここはそれに比べると大分牧歌的だ。そもそもオカルト雑誌に芸能ゴシップのようなスクープはない。向き合っているのは古代文明や地球以外のところにいることしかわらかない宇宙人のことや、存在するのかもわからない幽霊のことだったりする。
「ああ、じゃあ頼むよ」
「私の原稿は二時間前に現地から送りましたけど、チェックしてくれました?」
「今ファクトチェックしてるところ。明日には朱入れて戻すよ」
オカルト雑誌のファクトチェックとは何なのか、と思いながらも律樹は何も言わなかった。編集長には編集長の矜持があるのだ。おそらくこの編集部でもっともオカルトに愛着がある人だ。律樹と、同僚の伏見はそれほどオカルトに愛着はないし、信じてもいない。
問題はその伏見だ。律樹は編集長に尋ねた。
「伏見くんのことなんですけど、この前彼が取材に行ったのって、○○県の開かずの部屋でしたっけ?」
「そうだよ。何故か伏見くん指名でね」
「それの記事はまだ上げてないんですよね? 正直芳しい結果は得られなかったって聞きましたけど」
「そう。話は聞けたみたいだけど、実際に怪現象が目の前でバンバン起きたとかではないみたいで」
「本当に何も起きなかったんですか?」
律樹の言葉に編集長が首を傾げる。どうしてそんなことを聞くのか不思議に思っているのだろう。オカルト雑誌の取材は、実際そんな風に空振りで終わることはかなり多い。その場合はいつか隙間を埋める記事にしようと事実を纏めておくことになっているのだが、伏見はそれもまだ完成させてはいないようだった。
「伏見くん曰くそうらしいけど……もしかして何か見えた?」
編集長は律樹の能力についてある程度のことは知っている。たまにそれが怪異に万能に立ち向かえると勘違いしがちなところがいただけないが、話が早い相手ではある。
「今朝、伏見くんのお腹のあたりに黒い靄が見えて……でもあれだけ濃かったのに、何も起きなかったとは思えなくて。今朝は薬を飲んだのにそれでも見えるなんてよっぽどですよ」
律樹は眉根を寄せる。編集長も律樹の言葉でただならない状況だと感じたようだ。机に戻り、書類を数枚持って律樹の机までやって来る。
「緑川さん。これがこの前伏見くんが行った取材の概要だ。体調不良の彼に代わって追加取材をお願いしたい」
*
「で、その話受けたんですか?」
「まあ……あれだけ見えたってことは生きてる人間が相手なのは間違いないし」
「生きてる人間が一番危ないってこの前緑川さんが言ってたじゃないですか……」
「でも伏見くんのことも心配だし」
律樹の助手である一倉景は編集長の決定に文句があるようだった。薬を飲んでいても青い傘が見える。彼は律樹を心配しているだけなのだ。そして律樹が折れないこともどこかでわかっている。
「仮説は立ててるんですか、律樹さん?」
「伏見くん、お子さんが死産で、しかもそれで奥さんは子供がもう産めない体になってしまったらしくて……それ自体は受け入れているみたいなんだけど、だったら他の子供のためになることをしようって考えていて」
「前向きっちゃ前向きですね」
「でもねぇ、彼はその気持ちを暴走させてしまうこともあるのよ」
かつて伏見が書いた記事がそうだった。あれは編集長がGOを出したものではあるが、普通の雑誌なら許される記事ではないだろう。それほど彼は子供に入れ込んでしまう性質がある。今回の開かずの部屋も、実際にそこで死んだ子供がいるということで、伏見がその子供に同情してしまった可能性は否定できない。
「怪異に対して同情は禁物のはずなんだけどね……冷静でいられるかっていったら、まあ無理でしょ」
「つまり怪異に同情してしまったから……取り憑かれたとか?」
「それだと私には何も見えないはずなんだよ。景は嫌な感じがするかもしれないけど」
景は正真正銘の霊感の持ち主である。しかも彼のところに怪異が集まってきてしまうという性質があった。しかし彼は感じることが出来るだけで、できることと言えば、その恵まれた体躯を生かした物理攻撃だけだ。
「あくまで予想だけど、あの子供に伏見くんが同情するであろうことを利用した人間がいるんじゃないかって思うのよ」
「その人相当ヤバい人じゃないですか」
「そうね。でも会ってみないことには確かめようがない」
「そんなヤバい人に会うつもりですか? じゃあ俺も行きます!」
「景の分の移動費、経費で落ちないんだけど……」
今回は編集長からの正式な追加取材の命令なので、交通費等は経費になっている。しかし律樹の個人的な助手である景の交通費が出るはずもない。
「いいですよ! 俺の分は俺で出すんで!」
「わかったけど、いつも言ってるとおり、基本的には一歩下がっててね?」
景の感情は強すぎて、他の人の感情を見たいときは邪魔になる。とはいえ視界に入らなければそこにあるのがわかる程度まで見えなくなるので、景を連れて行くときは必ず一歩下がっているようにと言っていた。
「わかってますよ。でも俺がいないとすぐ無茶なことするじゃないですか」
「してるつもりはないんだけど、いつもいつの間にか大変なことになっているというか……」
「とりあえず、生きてる人間なら殴れば倒せますから」
あくまで物理攻撃らしい。筋肉自慢の景らしい判断だ。律樹は微笑みながら再び資料に目を落とした。
*
「そうですか……そんなにお悪いんですね、伏見さん」
「ええ。ですから残りの取材は私どもが」
伏見を案内したという役所の男に会った瞬間に、律樹は確信していた。律樹の目は嘘を吐かない。男の周りに黒い靄が立ちこめていて、男の姿が見えないほどだった。
そもそも男に会う前から、彼が裏で糸を引いていることはわかっていた。その理由はそもそも伏見が会ったのはこの男だけだったというのが一つ。そして後で調べてわかったこの男の経歴が一つだ。
「ところで、その子を最初に発見した警察官の名前は御堂というんですよね」
「はあ、そうでしたかな」
「誤魔化そうたってそうはいかないですよ。御堂さん――いえ、今は桜川さんですね」
その男の名前は桜川といった。苗字が違うから、最初はその二人は無関係の別人だと思っていた。しかし桜川は結婚して妻側の姓になり、離婚して旧姓に戻ったことが調査でわかった。妻側の姓が御堂だったのだ。男は姓を変えることが少ないというのも盲点だった。伏見は調べればわかることを見落としてしまっていたのだ。
「御堂という警察官は子供の遺体を見てショックを受け、心を病んでしまった。その後は警察を辞めて通院し、落ち着いたところで役所に再就職したんですね」
「そうですよ。この地域の担当になるとは思いませんでしたが」
「ええ。そこは本当に全くの偶然のようですね。役所の仕事というのはローテーションが多いと聞きますし」
偶然なのか、運命に引き寄せられてしまったのかはわからない。けれど桜川が何かしたわけではなく、役所の気まぐれな人員配置によって彼はこの地区の担当になったのは間違いない。
「あなたはここで死んだ子供に心から同情した。心を痛めた。きっと優しい人だったのだと思います。ですが、死人に入れ込むことは心を壊します」
律樹はあえて冷たく告げた。彼はその子供の死で心を病むほどだった。けれど病院に通うことでそれは少しずつ改善しているはずだった。でも違ったのだ。彼は心の中に、死んだ子供が幸せになった姿を作り出し、それを長年育て続けてしまったのだ。
けれどそれだけならその空想が一人歩きし、幽霊騒ぎが起きるだけで終わっただろう。彼が考えていたことはもっと凶悪だった。
「子供に同情し、受け入れてくれる人間を探し、その人の力を借りて子供に肉体を与えようとした。彼を幸せに出来る人のところに生まれることが出来るようにしたんですね?」
伏見の中に宿っているのは、胎児となったその子供だ。伏見の体調不良は、言ってしまえば悪阻のようなものだ。しかし宿しているのが人間とは呼べないものである以上、普通の悪阻として片付けることは出来ない。
「人間は、怪異を産むと大体死ぬんですよ。わかってるんですか? このまま放置していると伏見くんは間違いなく死にます」
それはまさに呪いだった。子供に幸せになって欲しいという願いが生んでしまったどす黒い呪いだ。そもそも子供を産める体ではない男性に、人間とは相容れず、人間を蝕んでしまう存在を孕ませる。それは悪意としか言えなかった。
「彼も本望だと思いますよ。だって彼は受け入れたんだから」
「……彼は子供のことも大切に思っているけれど、奥さんのことだって大事に思ってるんです。子供が死産になってしまったとき、自分も辛いのに奥さんを支えようと必死になっていたのを私は知っています」
だからこそ、子供のために伏見を死なせるわけにはいかなかった。しかし桜川は律樹の言葉を一笑に付す。
「だから何だって言うんですか? 彼の犠牲で一つの命が救われるんです!」
「あれは死んだ子供じゃなくて、あなたの空想が作りあげた幻影でしかないんです」
「うるさいうるさいうるさい! お前のような女に何がわかるんだ!」
桜川がいきなり律樹に飛びかかり、律樹の首に手を掛けた。律樹は咄嗟に逃げようとするが、元警察官の桜川の力は強く、動きに隙はない。桜川の節くれ立った指が躊躇いなく律樹の首を絞めた。
「あの子は幸せにならなきゃいけないんだ! ただでさえ災害でたった一人になってしまったのに、引き取られた家で更に酷い目に遭うなんて、そんな不幸があっちゃいけないんだ!」
桜川の言葉は何も間違っていない。しかしそのために子供を伏見の腹の中に宿すという行為は何もかもが間違っている。律樹が言い返そうとした瞬間に、馬乗りになって律樹の首を絞めていた桜川が吹っ飛んだ。
「一応取材中に取材対象殴っちゃいけないので黙ってましたけど、向こうが暴力を振るってくるなら別です」
「景、多分聞こえてないよ……」
力の加減を誤ったようで、桜川は脳震盪を起こして倒れていた。いずれにしてもこのままにしておくわけにもいかない。律樹はまだ痛む首をさすりながら知り合いの医者に電話をした。
*
「――伏見くんさぁ、産んでもいいとかちょっと思った?」
桜川は律樹への暴行容疑で逮捕された。景も桜川を殴っているのだが、それは律樹を助けるためにやむを得なかったと判断された。しかし事件は解決していない。伏見の中にはまだ呪いの子供が宿っているのだ。
律樹は全てを正直に話すことにした。さすがにオカルト雑誌のライターだけあって超常現象の類には多少知識がある。事実自体はすんなりと受け入れてくれた。
「気持ちはわかるんだ。桜川さんのことをもう少し調べたら、俺と似たような境遇で……そんなときにあんな事件を担当してしまったら、とは思ったし」
「さっきも言ったけど、それはあの子供そのものじゃないの。転生がどうとかはわからないけど、本物の方は景くんに聞いても何も感じないって結果が出たし」
「なら、成仏してるって思っておけばいいのかな。……天国は幸せなところだといいけど」
律樹は溜息を吐いた。律樹は伏見のために殺されかけたというのに、当の伏見は暢気なものだ。
「で、俺はどうなるんだ?」
「伏見くんなら、それが怪異であり呪いだってしっかり認識できれば、体調不良は治るはずだよ」
「俺ならって、どういうこと?」
「伏見くんは奥さんのことを思って悲しみを乗り越えた人だから。あなたがすごく強い人であることを、私は知ってる」
しばらくは休暇で、体調が戻ったら在宅勤務に入って欲しいという編集長からの業務連絡を済ませると、律樹は静かに席を立った。伏見の妻は別室で気ままに過ごしているという。伏見の体調不良の原因がわかってホッとしたのか、その部屋からはテレビの音と明るい笑い声が漏れ聞こえてくる。
「元々、お笑いが好きなんだよ。色々あったけど、俺にとってはああやって笑ってくれるのが一番大事だ」
「それを忘れないでいれば大丈夫だよ。今回は生きている人間が生み出したものだったからね」
律樹が鞄を手に取ったところで、伏見が律樹に尋ねる。
「なあ、これが生きてる人間が関わってない、本当の子供の幽霊が俺の体に宿ってたらどうなってたんだ?」
「少なくとも私の手には負えない」
「そうなると、寺生まれとかにどうにかしてもらうしかなくなってくるってことか……」
「寺生まれがどれだけ強いか、今度取材してみたら?」
「元気になったら考えてみるよ」
もう大丈夫そうだ。律樹は確信し、笑顔で伏見の家を出た。