「ここには子供の霊が出るという噂があるんですよ。その扉を開けてしまうとその子が出て来てしまうってね」
俺は曖昧に返事をした。開かずの間があろうが何だろうが、この家は取り壊される。もう何年も空き家になっていたのだ。そこに発生した大規模な土砂災害。この家の周りにあったほとんどの建物が損壊してしまうほどのものだった。
不気味なのは、この家だけがなぜか土砂崩れによる被害を全く受けなかったということだ。人がおらず手入れがされていない家は脆い。それなのにこの家だけが無事なのはどうしてなのか。俺を案内してくれた、この地域の担当だという役人含め、この開かずの間の幽霊がこの家を守ったのだと信じている人は意外に多い。
この時代にそんなオカルト話があるわけはない。けれど取り壊すことに不安を感じている人たちも多いということで、こうして俺が調査にやってきたのだ。
(こういうのは、緑川さん向きだと思うんだけどなぁ)
どうして俺にそんな依頼が来たのかはわからない。俺はただの雇われのオカルト雑誌のライターで、自分が書いている内容を一つも信じていないような人間だ。同僚の緑川はライター業の傍ら、こういったオカルト事件を解決しているという話だが、あいにく俺はそういうことをしたことがない。だから何で俺にそんな話が来たのか不思議だった。
「あの……先に行っておきますけど、私はただの雑誌記者なので、幽霊事件の解決なんかは……」
「伏見さん、前に幽霊騒ぎがあった施設について記事を書いていたでしょう?」
「ああ、あれは……」
数年前の話だ。昔、災害によって多くの子どもたちが亡くなった養護施設についての記事を書いた。結局幽霊騒ぎは近隣に住む馬鹿な高校生たちが仕掛けたものだとわかったのだが、あの頃の俺は若く、正義感も強かった。だから人の死を利用して悪戯をした彼らを強い口調で責めるような記事になったのだ。編集長は「オカルトを扱う者としてオカルトを茶化す輩は許せない」と言って、その記事の掲載を許してくれた。
「私はあの記事を見て心を打たれたんですよ。あなたはその施設で亡くなった子供達のことを真摯に考え、悪戯をしていた高校生を糾弾した。普通、オカルト雑誌にそんな記事を書こうとは思わないでしょう?」
「そうですかね? まあ……子供には思うところがあるんです」
「あの記事にもありましたね。奥様が死産されてしまったとか」
「ああ、あのときはそんなことも書きましたね」
自分を出しすぎたと今では後悔している。当時、それを書くということは妻にも報告し、妻も了承してくれたとはいえ、自分が怒っている理由をそこまではっきりと書く必要はなかったのではないかと今では思っている。
「ここに出ると言われる幽霊は本当に可哀想な子なんです。元々災害遺児でしてね。親戚であるこの家の夫婦に引き取られたんですが、厄介者扱いされていて……その子をこの扉の向こうに閉じ込めて、その子をいないものとして扱ったんです」
この男に怒っても仕方ないとわかっていても、そういった話を聞くと怒りが込み上げてきてしまう。そんな扱いをするならなぜ引き取ったりしたのか。いや、誰かその子の窮状に気付いてやれなかったのか。児童相談所や役所は何をしていたのか。けれど俺は真剣な顔の下に怒りを隠す。俺が怒りをぶつけられるのは、俺の武器は、文章だけなのだから。
「その子は誰にも気付かれずに餓死してしまい……警察が踏み込んだときにはもう遅かったんです。この扉の向こうで事切れていた痩せ細った子供を見た警察官は、その後ショックで心を病んでしまったとか」
俺もその立場なら同様にショックを受けるだろう。生まれることができなかった自分の子供のことがずっと胸の奥にある。彼のためにも全ての子供は幸せであってほしいのに。
「何とかして救えなかったのか……と思うんですよ」
「そうですね……それで、ここにはその子の幽霊が出ると」
「そのようです。この家を取り壊そうとした業者や誰かがいるようだという通報を受けた警察官が目撃しています」
幽霊など信じてはいない。けれどそんな話が出てきてもおかしくないくらい無念だっただろう。お腹が空いてこの扉を叩いても、うるさいと一蹴される。静かにしろと殴られる。そのうち声を上げることさえ諦めてしまって――その光景がありありと浮かんできてしまう。
「わかりました」
何がわかっているのか、自分でも自分の言葉が理解できないまま、俺はその扉に手を伸ばしていた。
――刹那、
扉が向こう側から勢い良く開く。
俺の足元には痩せ細った子供。
子供は助けを求めるように俺の方に手を伸ばし――次の瞬間には跡形もなく消えていた。
幽霊? いや、そんなものはこの世にいるはずがない。俺は幻覚でも見たのだろうか。幽霊話に引き摺られて、大人の都合で殺された子供に同情して。
「どうしました?」
男が尋ねる。彼には見えなかったのだろうか。見えていたらこんなに落ち着いているわけがない。だとしたらあれは俺の頭が勝手に見せた幻覚だ。そうだ、そうに違いないのだ。
「いえ……何でもありません」
「何でもないということはないでしょう」
男が言う。にいっ……と唇の端を吊り上げ、男は俺の腹部をゆっくりと指差した。その瞬間に吐き気が込み上げてくる。自分の中に何かが根を張る気配。そして、ありがとう、という子供の声が遠くに聞こえる。
「無事に、あなたの中に入れたようですから」
吐き気を堪えながら座り込んだ俺に男が言う。その中にあるものを慈しむように、俺の腹を撫でながら。
「これからは無理は禁物ですよ。もうあなた一人の体ではないのですからね」