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後編


 どうしてこんなことになっているんだろうか。ああ、そうだ。あの色水を飲んだせいだ。でも青を飲んだから、なるべく水には近付かないようにしていたのに。どうして。

 何があったのかわからない。真っ暗だけれど、何かの箱の中であることはわかる。そしてその箱の中に少しずつ水が満たされていって、今は自分の顔が出せるくらいの隙間しかないということも。

 逃げなければ死んでしまうのに、この状況では扉を開けることも出来ない。どうにかして誰かに電話できないかと水没しないように守っていたスマホが鳴る。通話ボタンを押すことは出来たが、相手が誰か見る余裕はなかった。


「誰か! 助けて! このままじゃ死んじゃう……!」



「――景」

「緑川さん……」


「とりあえず警察に事情は話してきた。また何か聞かれるかもしれないけど、私たちはたまたま彼女に用事があって電話して、その様子がおかしかったので警察に連絡しつつ彼女を探したって説明で納得してはくれたよ」


 都市伝説だの噂だのの話をしても警察は取り合ってくれない。景の生徒であった蓮見はすみ耀子ようこという女子高生は、道端に捨てられていたトラックのコンテナの中から発見された。死因は溺死。コンテナの中には何故か彼女を溺れさせるには十分なほどの水が入っていた。しかし普通コンテナの中に水など入れない。そもそも彼女がコンテナの中にいた理由もわからない。警察は事件と事件の両方から捜査を進めるということだったが、どちらかといえばこれは事件だろう。


「俺がもっと早く蓮見さんと緑川さんを会わせていれば……」


 景は蓮見を助けられなかったことで酷く落ち込んでいた。普段、心霊スポットだの都市伝説だので、人が死ぬ話ばかりを聞いている緑川よりも耐性がないのと、蓮見と交流があったからこそ助けたかったという思いがあるのだろう。景の周りに見える靄は黒っぽく淀んでいた。

 冷たいと思われるかもしれないが、これだけは景に言わなければならない。思えば、これまでの色水売りの男が関わっている事件もそうだった。それらは全て、方法などには謎が残るものの、おおよそ事故とは思えない状態で死んでいた。自然に土の中に埋まることはあまりない。誰かが埋めているに決まっている。毒だって、自分で誤って食べてしまったのでなければそれを盛った誰かがいる。他にもメッタ刺しにされた事件や今回のコンテナの中での溺死事件。全て、事故ではなく殺人事件だろう。


「……蓮見さんの遺体を見たとき、彼女の全身に青い靄が見えた。一瞬景のと混じっているのかと思ったけど、形がゴブレットだったから違うってことはわかった」

「じゃあ……」

「生きている人間の強い感情が纏わり付いていた。実行したのは怪異かもしれないけれど、それを肥らせた生きた人間がどこかに存在するはず」

「……探してくれますか、緑川さん」


 緑川は息を吐き出した。景はどちらかといえばいつも緑川を心配し、仕事に行くと言えばついていくと言うし、なるべくなら事件には関わらないでほしいと思っている。それなのに、今回は違う。いつもと違う色、違う形の靄が見える。


「蓮見さんの無念を晴らしたいという、景の気持ちのためにもやってあげるよ」



 しかし調査は簡単ではなかった。事情を説明し、編集部からも経費を沢山もらったが、色水売りの男そのものが捕まらない現状では、その裏にいる人間のこともわからない。手がかりはあの靄だけ。運良く網にかかる確率はそれほど高くはない。


「緑川さん、朗報があるんだけど聞きたいかい?」

「何ですか、編集長……調査が難航して疲れてるんですよ」

「実はこれまで色水売りの男の被害者だったんじゃないかって言われてる子たちの共通点が見つかったんだよ」


 緑川は顔を上げる。その件に関しては警察も調べているはずだが、いちオカルト雑誌がその捜査力を上回るなんてことはあるのだろうか。疑問に思いながらも、緑川は一応編集長の話を聞くことにした。


「最近、全員があるSNSのアカウントを取得していたんだよ」

「ああ……Xが不安定だから移住したってやつですか? でもそんな人沢山いるじゃないですか」

「まあそれはそうなんだけど。全員が分散型SNSの同じサーバーに書き込んでたってのは結構興味深いものがあるんじゃないか?」

「それは確かに……」


 ただでさえ乱立するSNSにそれぞれがばらけて移動しているような事態だ。その中で、しかも分散型SNSで同じサーバーともなれば、少しは検討してもいい共通点だろう。


「で、それはどんなサーバーなんです?」

「見たところ一見普通のところなんだよな。雑談中心なんだけど、大きいところとかは流速が早すぎてついて行けないって子たちが集まってて、日頃の悩みなんかを吐き出してるような感じの……」

「それ、URL教えてもらえませんか?」


 薬を飲むと画面越しでは何もわからなくなるが、一回抜けばうっすらと何かを感じることは出来るかもしれない。緑川は編集長から教えてもらったURLにアクセスし、適当なプロフィールをでっち上げてアカウントの登録を済ませた。


「中身はXと大して変わらないですね。みんな好き勝手呟いてるというか。一応チャンネルでいかがわしい話題なんかは分けられているみたいですが。とりあえずあとで被害者のアカウントを探してみるとして……」


 収穫はないかもしれないと思ってスクロールを続けていた緑川は、一つのアイコンのところで手を止めた。アカウント名を見ればそれがこのサーバーの管理人ということがわかる。

 その文面を見たとき――いや、正確には一文字も読めなかった。目の前が歪むほどの濃い靄が見える。目が眩むほどの青色。そしてあまりにも巨大なゴブレット。緑川はそれに呑み込まれそうになり、思わず口を押さえた。


「緑川さん?」

「すいません、ちょっと体調が――」

「そうか。大変なことがあったばかりだしね。今日は早退して家でゆっくり休むといい」


 そういう方面の体調不良ではないのだが、編集長の厚意には甘えることにして、緑川は急いで編集部の部屋を出た。まずはトイレに駆け込み、こみ上げてきたものを全て個室の便器に吐き出す。

 流れていく吐瀉物を見ながら、緑川は肩で息をした。久しぶりに人の感情に当てられてしまった。ここ最近の調査で寝不足なのもあるかもしれないが、それだけ画面越しでも強烈なものだった。脈が少し落ち着いたところで、緑川は景に電話をかける。


『どうしました、緑川さん?』

「犯人……と言っていいかわからないけど、誰が裏にいたかはわかった。一応この前事情聴取してくれた警部にも連絡する。でも、多分……」


 この事件は、公式では迷宮入りするだろう。まだ本人を目にしたわけではないからわからないが、おそらく実際に人が出向いて実行した犯罪ではない。


「そのサーバーの管理人がどこにいるかわかったら、私はそこに行く。今回は、景にもついてきてほしい」



 いつも思う。この世界には死んでしまいたいと思っても死ねない人がいる。

 そもそもこの世界は地獄だ。生きるだけで苦痛が伴うのに、何故だか多くの人が死なないでいる。僕は子供たちを見る度に思う。この地獄のような世界に生まれてしまって可哀想に、と。そして死は全ての苦痛を消してくれる優しいものであって、決して怖いものではないのだと。

 SNSには沢山の小さな死にたいが集まってくる。明日には元気に別のことをしているかもしれない。だけどこの瞬間の死にたいは本物だ。思うように成績が上がらなくて親に叱責される子供、将来のためにと他の子には許されている甘味を許されない子供、クラスメイトにいじめられている子供。世の中の人間は、生きてさえいればいつかいいことがあると励ます。けれどそんなことはない。死が一番の安寧だ。だから僕は自分で使ったサーバーに書き込まれていく「死にたい」に祈りを捧げる。彼らに、早くそれが訪れますようにと。


 そして、出来れば僕にもそれが訪れてくれますように――と。


 この部屋に引きこもって何年になるだろうか。引きこもりは甘えだ、親のすねをかじっている、なんて意見もある。実際親が食事を運んでくれなければ死ぬというイメージがあるのだろう。金銭面でも親の力がなければ、働かずに生きることは出来ない。

 でも、生きろと世界は言うのに、働かなければ生きられないとは変な話ではないか。努力しなければ生きられないのなら、人間は死んでいる状態が普通なのではないか。別に生きたくもないのにここで生かされ、死が訪れることを願うことしか出来ない自分が不甲斐ない。

 僕はペットボトルに詰めた色とりどりの水を見つめた。これは通販で買った食品用の着色料を使って色をつけた、ただの市販の飲み物だ。最近は透明なのに甘い飲み物が色々あるのだ。そんなものを飲んで人が死ぬことはないとわかっている。けれど、これを飲んだら死ぬという自分の姿を毎日思い描く。

 現実逃避と言われるだろうか。少なくとも両親はそう言うだろう。でも現実と向き合う度に心が砕けそうになる。怒られる度に、誰かに溜息を吐かれる度に、自分は生きていてはいけないんだと思わされる。さっさと死んでしまいたいのに、どうしても腹が減る。生きようとするこの肉体が恨めしい。


 そんなときに自分で作ったサーバーの書き込みを見ると少し安心できた。同じような死にたいの欠片がここには浮いている。この色水で君が死ねたらいいのにと僕は思う。顔も名前も知らないけれど、僕のところに集まってきた誰か。死が彼らを救って欲しいと僕は念じ続ける。


 そのとき、僕と外の世界を隔てていたドアが派手な音とともに破壊された。


「話を聞かせて欲しい」

「いきなりドアをぶっ壊す人に話も何もないと思うんだけど、景」

「だってドアを開けてくれないって言ってたじゃないですか。だったら壊すしかないと思って……」


 誰だこいつらは。

 僕は目の前に現れた大柄な男と、長い髪をひとつにまとめた女を見つめた。ドアは大柄な男が壊してしまったらしい。


「普通、推理もののアニメとかドラマみたいに、人間が体当たりしてもドアって壊れないものなんだけど……景はちょっと筋肉が過ぎる」

「あ、あの……」

「ああ、そうだった。私は緑川みどりかわ律樹りつき。ちょっとあなたが作った分散型SNSのサーバーについて聞きたかったんだけど……いきなりドアぶっ壊す人に話すことなんてないわね。すいません、出直します」

「いや、あの……出直さないで欲しいというか、来ないで欲しい……」


 常識的なのか非常識なのか全くわからない相手だった。少なくとも筋肉自慢の男の方は非常識だとはわかるが。女の方は表情が読みにくい目で、僕の部屋を見回した。


「……わかりました。壊してしまったドアに免じてもう来ません。修理代も出します。ただ、その代わり――」


 女は僕にある条件を出した。初対面の女にそんなことを言われるのは腹が立ったが、はっきりと言われたことで、僕は何かから解放されたような気がした。



「あんなんで良かったんですか?」

「実際、色水売りの男の話はあれ以来聞かないでしょ。私が出来るのはあれだけだった。まあ景がドアを破壊しなければもう少し時間をかけてやるつもりだったんだけど……」

「すいません、ちょっと怒りもあって手元が狂いまして」

「狂いすぎだよ。怖いよその筋肉……」


 緑川はサーバー管理者の男に病院を紹介した。そして医者の協力を取り付けて管理人の男の母親も一緒に病院を受診できるようにした。やったのはたったそれだけだ。けれどそれだけのことで、あれ以来、色水売りの男の目撃情報はない。そもそも彼が病院に通うようになってサーバーを管理できなくなり、別の人に管理人が変わったということもあるかもしれないが。


「まあ、ドア破壊されて面食らってたから多少言うこと聞いてくれたってのはあるよね。ほら、カルトの手法でも、相手を驚かせてから自分の懐に引き込むっていうのがあるし」

「さすがによく研究してますね……」

「ああいうのはオカルトの風上にも置けないというのがうちの編集長の持論だからねぇ」


 オカルトにはオカルトの矜持があるという。巷の陰謀論にも「陰謀がそんな単純な訳あるかよ」と怒るような人だ。


「記事はどうするんですか? 今回は結構経費も使っちゃったんじゃ」

「まあ、基本的には怪異の一つとして詳細は伏せながら書くしかないかな……あのサーバーがまだ存在している以上、名前も出せないし。ましてや一人の男の感情が色水売りの男という怪異を作り出してましたなんて書けないし。ああ、でも伏見くんが宇宙の生命体についての発見みたいな記事を書こうとしてたから、そっちがいいなら私のは没になるかもねぇ」

「宇宙の生命体の方も正直眉唾ですけど」

「突拍子もないけど、ある程度根拠はあるらしいから。よくわかんないけど」


 事件は解決した、と言えるだろう。けれど蓮見耀子を含め、既に多くの子供が亡くなった。男が作り出した怪異が子供だけを標的にしたのは、男自身の生育歴が関わってくるだろう。彼は母親に厳しく躾けられて育った。しかし何をやっても母親に認められることはなく、元々の不器用さも災いし、会社でも使えない人間だと言われ、自分は生きていてはいけない人間なのだと思うようになっていたのだという。そして徐々に外に出ることが出来なくなり、引きこもりになった。そして母親は引きこもりになった彼を恥に思い、あの部屋に隠すようにして、周囲には息子は結婚して家を出たのだと言っていたのだという。

 彼はあの部屋で、自殺することも出来ず、自分を殺してくれる色水売りの男という空想の人物を作り出すに至った。それがあまりにも膨れ上がってしまったせいで、怪異に変貌してしまったのだ。


「恐ろしいですね。人間の思いが怪異を作り出すなんて」

「古典でも生霊が出てくるじゃない。あれと同じだよ。今回の場合は、あのサーバーに積もっていった小さな希死念慮も作用しているけどね。でもひとつひとつの思いはそこまで大きくなかった。彼らも死にたいと思ってたかもしれないけど、ちょっと楽しいことが明日にあるだけで、一日生き延びられるような状態だったんだろうね」

「そう考えると怖いな。俺も引き込まれる日があるかもしれない」

「……景が引き込まれそうになったら、そのときは私が止めるよ」


 人の感情が靄になって見える程度で、出来ることはたかが知れている。けれど人の思いが怪異と変じるほどに巨大なエネルギーを秘めていることもわかっている。もしそんなものに自分の周囲の人間が囚われるようなことがあるのなら、それは決して許さないと緑川は心に誓うのだった。

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