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箱がガタガタと震える音で私は目を覚ました。鬼の人形は箱からは出られない。でも箱から出ようともがいているように見えた。私はまず箱の外からそれを眺める。靄の色は黒。そもそも長年祭に使われた人形であるし、これまで起きた事件のこともあって、当然島の人たちの恐れの感情が集まっているだろう。けれど混ざり合って黒になった靄も、ひとつひとつ紐解いて見なければ真実はわからない。私は一気に木の箱を開けた。すると、中から転がり落ちるように鬼の人形が出てくる。
人形は踊るように動く。髪の毛を模した黒い絹糸が揺れる度に伸びて、私の首に巻き付いた。
「ぐ……っ!」
絹で首を絞められて死んだのは、楊貴妃だったっけ。そんな呑気なことを考えられたのは一瞬だった。苦しくて思わず閉じた目を必死で開く。目を開けていなければ何も見えない。人形がまとう黒い靄を集中して見つめる。黒の中に混ざる色。恐れや不安ではない何か。
(赤……!)
乾いた血のような黒っぽい赤。私は笑みを浮かべた。これは恐れや不安などではない。もっとおぞましい感情だ。その色にさらに意識を集中させる。靄は徐々に蛇の形になっていった。
このあたりが限界か。私は取材道具の入ったカバンに手を伸ばし、中に入っていた筆箱からハサミを取り出した。怪異だろうがなんだろうが、絹糸でできているものはハサミで切れる。私はその黒い糸にハサミを入れた。
「っ……はぁ……助かった」
この話を景にしたら、また心配をかけそうだ。けれどおかげでこれが私向きの事件であることはわかった。人形は急に糸を切られたことでバランスを崩して倒れる。なおも動こうとするそれに、私は木箱を倒して押さえつけた。乱暴だが仕方がない。
「赤黒い、蛇か……」
私は振り向き、倉庫の扉を見つめた。わずかにあいた隙間から、人形がまとっていたものと同じ赤黒い蛇の形をした靄が見える。私は倉庫の扉を勢いよく開け放った。
「――依頼者が犯人って、推理小説だと手垢がつくほど使われていると思うんですよね」
これは推理小説ではないけれど。
赤黒い蛇の靄を纏ったその人――上原悠一が、露出した自らの性器を扱きながら私と人形を見つめていた。
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生者の思いが怪異を太らせることもあれば、生者の思いが怪異そのものとなってしまう例もある。今回は後者だった。元々この鬼の人形はただの人形だった。けれど上原の思いにより動き出し、そこに島の人たちの恐れや不安の感情が集まって、成長してしまったのだ。
「海老名さんが、鬼の人形を操りながら島の人を殺そうとしているのを見て……僕は言いようのない興奮を覚えました。それまで、僕は何を見ても性的に興奮するということはありませんでした。自分はそういう人間なんだろうと思っていたんですが、違っていたんです。あれ以来、僕は毎日そのことを思い出しながら自分を慰めました。そして――もう一度同じことが起きたらいいのにと思っていたんです」
その思いが人形を動かした。そして不幸なことに、動いた人形を見て死んでしまった人がいた。心臓が弱かったという宮本珠里は、ひとりでに動いた人形を見て、そのショックで発作を起こしてしまったのだ。目撃したのが他の人間であれば、おそらくそこで死者が出ることはなかっただろう。
「死んでしまった宮本さんを見てから、自分の欲望が膨れ上がるのを止められませんでした。この鬼の人形が人を殺すところばかりを夢に見るようになったんです。毎晩、毎晩――あなたにわかりますか、この苦痛が? 欲望には底がないんです。夢では足りなくなってしまう」
「……わかりますよ。だから、依頼をしたんでしょう?」
上原は、自分の欲望が人形を動かしていたことには気付いていなかった。けれど人形がこのまま自分の願望を叶えてしまうことが恐ろしくもあった。だから解決する手段を探して私に行き着いたのだろう。
「海老名さんが取り憑いているんだと思っていたんだけどなぁ……違ったんですね」
「その海老名さんの感情は残念ながら感じ取れませんでした。死者の感情は私には見えないので」
上原が自分が怪異を生み出したと自覚すれば、この騒動は終わるだろう。これまでの経験上、生者が自分の感情で生み出したものは、それを自覚した途端に力を失ってしまう。意図的に動かせるような人はごく少数だ。けれどこれで解決したと放り出すわけにもいかない。
「私は人間の精神の専門家ではないので、はっきりしたことは言えませんが、一度受診することをおすすめします」
「怪異だと思ったのに、オチが病院ですか。全く……現実的すぎますね」
上原は笑う。再び赤黒い蛇が鎌首をもたげたので、私は身構えた。
「それで僕の苦痛は消えるかもしれない。でも、僕の、僕だけの悦びも消えてしまうんですよ。ああ……先程のあなたの姿は素晴らしかった。人形の髪で首を絞められて苦しみ藻掻く姿。あのまま死んでくれたらどれだけよかったか! いや、あなた一人では足りませんね。この島の全員が苦しんで死んでいけばいいんです! 想像するだけでほら、もうこんなに……! 僕は嬉しいんですよ! この悦びがなくなって、普通の人のように愛する人とのセックスだけに興奮するようになるなんて、それは僕が僕でなくなるのと同じことですよ!」
欲望には底はない。上原の言うことも少しだけ理解はできる。普通から外れてしまった苦痛は、彼だけの歓びでもあるのだ。けれどこのまま放置すれば、彼の思いが更に被害を広げてしまうだろう。
「あまりこういうことはやりたくないんだけど」
上原が再び己のものを両手で扱き始める。同時に鬼の人形が箱を押しのけて動き始めた。私は溜息をついた。
「この島の神は、『まれびと』に分類されるものですね。島の外から飛来したと信じられているから鳥の姿をしているのでしょう」
島を荒らす鬼を鎮める、島の外からやってきた存在。今の私はそれに当てはまる。私は鬼の人形の隣にあったもう一つの木箱をあける。中にあるのは鳥の姿をした神の人形。
「この島に降り立った神は、夜明けとともに鬼を封じた。――そろそろ、祭は終わりです」
人の心が作り出す怪異は、定められた手順を踏めば消えることがある。コックリさんにはお帰りいただき、口裂け女にはポマードと言う。祭は鳥の神の降臨で幕を閉じると決まっているなら、それを再現するのは一定の効果があるだろう。
巨大な人形を二人羽織のような形で動かす。舞う私の姿を、上原が手を止めて呆然と見つめていた。
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「……だから何でいつも無茶するんですか、緑川さん」
東京に戻ってきた私は、助手の景に怒られていた。事の顛末を報告したらこうなることは予想ができていた。おそらく今の景は水色の傘の形をした靄をまとっているだろう。でも薬を飲んでいるから、かなり意識しなければそれは見えない。
「ちゃんと祭の映像見て、振り付けを全部覚えて行ったことを褒めてほしいんだけどなぁ」
「それでどうにもならなかったらどうするつもりだったんですか」
「そうなったら、最後は暴力だよね」
「だから言ってるじゃないですか、一人で行くんじゃなくて二人で行こうって」
景の気持ちはわかっている。彼は私を心から心配してくれているのだ。だが、これとそれとは別の問題である。
「だからさぁ、景がいると景のせいで見えなくなるって言ってるじゃん」
その傘に視界を遮られてしまうと、私は何も見ることが出来なくなる。怪異を生み出したり、太らせたりする人の思いが見えなくなってしまうと私ができることはなくなってしまう。だから私は景を連れてはいけないのだ。
「どうにか……心を無にするようにしますから! 最近寺に行って座禅したりしてるんですよ」
「いや、無理だと思うよ……」
今はまだ、私を心配しているだけのその傘。でも強すぎる思いは怪異を生み出すことがある。座禅に少しでも効果があるといいなと思いながら、パソコンを開いた。東京に帰ってきたからには、ちゃんと記事にしなければならない。少しばかりの嘘を混ぜて、私は記事を組み立てる。
島の怪異は、一度祭が途中で終わったから発生したものだった。神の人形が動き出し、伝説の再現が行われることにより島の怪異は封じられた。そんな筋書きの話だ。