アッシュは動きを止めた。
「おい、どうした」
再びヴェロニカの声。
アッシュは先へ。二歩の距離を、慎重に進めた。ヴェロニカも室内に入ってくる。
「血か」
ヴェロニカの呟きが聞こえた。足元に広がる滑りは、血溜まりだった。
「どういう状況だ」とヴェロニカは続ける。
「困った事になった」
アッシュは言った。
「お前じゃない、お前の友達だよ」
「同じだ。困っていたみたいだ」
「過去形だな」
「もう過去の人だからな」
男が死んでいた。
「何だよ」
足を止めているアッシュは、肩を掴まれる。振り向くと、ヴェロニカがナイフを抜いて首元に押しつけてくる。またヴェロニカの肩から、黒猫が床へ降りた。
「騙したな」
ヴェロニカの目を見ると鳥肌が立った。
「ぶっ殺してやろうか」
刃の冷たい感触が首に伝わる。恐怖で顎が上がった。動けない。
「知らなかった」とアッシュ。
震えていた。
「俺だって同じだ、驚いてるんだ」
「この落とし前、どうつけるつもりだ」
「金はあると思う」
「思う? 思ってるだけじゃガキと変わらない」
たぶんないだろう、と思った。だがこう告げるしかなかった。
「私の金は返せるな?」
「返せる」
「絶対か?」
「俺は嘘を吐いた事はない」
「探せ」
解放された。力が抜け、深呼吸をしていた。刃を当てられていた首元を確かめる。切られてはいなかった。
「早く探せよ」
「分かってる」
「コイツの名前は何だったっけ?」
ヴェロニカは屈んで、床で横たわる塊の顔を上に向ける。
「アンタらしくないな。記憶力があるかと思ってた」
「エドワールだろ、覚えてる。お前を試したんだ。こっちへきて本人か確かめろ」
アッシュはヴェロニカの隣に立って、死体を見た。丁度、黒猫も視界に入る。
「間違いない、エドワールだ」
死体に黒猫。悪魔の組み合わせだ。
「死体と仕事をした訳じゃないよな」
「俺がそんな愉快な男に見えるのか」
「お前は不愉快だ。探せ」
「探してる」
「黙って動け、のろまが」
ヴェロニカは椅子を引き、腰掛けた。その膝の上に、黒猫が飛び乗る。
クソ。自分は働かないつもりだ。
「名前はつけないのか、その黒猫に」
アッシュは机の引き出しから棚、木箱、壷の中を覗いて周る。
「必要ない。コイツが勝手について来てるだけだ」
「猫、好きだろ」
「大嫌い」
「あっそ」
探索を続ける。
「これじゃ泥棒だ」
アッシュがぼやく。
「確かにな。お前は私の金を盗んだ」とヴェロニカ。
「今返す。もう直ぐだ。もうお別れだよ」
「直ぐ、が遠いぞ」
「アンタよく死体の前で座ってられるな」
話を変える。
「道にあるのと変わらない」
「そうか? 俺は落ち着かないよ。やっぱり生きてる時に、話した事があったからかな」
死体には見慣れているつもりだったが、知り合いの死体が突然現れるのは初めてだった。
「見つかったか?」
「待て」
壷の封を開けた。蝋で封してあったが、短刀で切り裂いた。壷の中から匂いがした。覗き込み、中身を確認した。
「何だ?」とヴェロニカ
「阿片だ――」
子供の拳程の大きさの阿片の塊を取り出した。無数の草臥れた、白い花弁で包まれていた。一枚剥がす。粘土の様な黒い塊がみえた。鼻に近付ける。確かに、阿片の匂いがした。
「貸せ」
ヴェロニカも鼻に近付けて匂いを確認した。
「阿片だな」と一言。
笑っている。
「だが私は死体と阿片が欲しいなんていった覚えないはないぞ。金はどこだ」
「これだけっぽい」
見つけたのは、二枚の銅貨と七枚の硬貨だった。ヴェロニカはアッシュの手を払った。床に金が散らばる。
「ガキの小遣いじゃないんだ」
「すまない」
ヴェロニカは舌打ちをし、顎に手をやり何かを考え始めた。
「恐らく、エドワールという男は阿片の密売人だった」
ヴェロニカは言った。
「部屋は――私達が来た時は荒らされていなかった。今はお前が荒らしまくったが、来た時は違った。だろ?」
「ああ」とアッシュは同意する。
「という事は、強盗目的の犯行ではなく、エドワールは何かのトラブルで始末された。だが私の金はない。どういう事か分かるか」
「俺がエドワールを殺して金を奪った、と思ってる?」
「自惚れるな。私はお前をそこまで評価していない」
「夢を見た。御免よ」
「私はお前以外の肝っ玉の据わった奴が私の金を奪った、そう思ってる」
「アンタの金って……」
「じゃあ、お前の金なのか」
「俺とアンタの金だろ。報酬は二万ギル。一万二千はアンタで、八千は俺の物だ」
「金の勘定は出来るみたいだな」
「頭いいんだ、俺」
「それ馬鹿の決まり文句だぞ」
ヴェロニカはエドワールの死体を漁り始めた。ズボンとシャツのポケットに手を突っ込み、腰に下げていたナイフを調べ始めた。
アッシュは机の引き出し、隅にあった指輪を見つけた。ヴェロニカはナイフに夢中の様だ。指輪は高価な物の様な気がする。リングが太く、上に乗る宝石は赤い。リングをよく見ると、二重になっていた。内側と外側の輪がある。
「何だこれ」
外側の輪を回転させてみると、宝石を乗せている台座から、爪程度の長さの刃が飛び出した。
「うわっ」
両手で持っていた為、驚いて左手の小指を切ってしまった。
「どうした」
「指輪だ。刃が仕込まれてた」
「だろうな」
ヴェロニカは納得している様だ。
「どういう事だ」
「コイツ、諜報保安委員会の者だ。ジントゥーラだよ」
「ジントゥーラ?」
「サウスボンスの諜報員だよ」とヴェロニカ。
グラオトレイが属する、バヤジッド帝国の隣国にあるのがサウスボンスだった。
「甘い響きだな」
「バヤジッドの民からしたら一応、敵国だからな。このナイフ、魔導が付呪されてる。魔導の文はサウスボンスのジントゥーラ達が使うものだ。柄に細かく刻まれていた」
「確かなのか、何故分かる?」
「聞いてどうする」
「いや、悪かった」
アッシュもそうである様に、語りたくない過去もある。
「コイツ信心深いのか?」
ヴェロニカが一枚の紙を拾った。
「ラマ教の集会に行くのか」
「ああ、それか。俺がエドワールに渡した。楽園派の説法だよ、今週あるんだ」
「お前は信心深く見えない」
「じゃ何に見える」
「クソ馬鹿野郎」
「酷いね。ま、楽園派についてだが、新しい派閥の事だ。だから新規のお客さんが欲しくて、教会税が安い。長老派は十分の一の税だけど、こっちは十二分の一の税だ。俺も楽園派に鞍替えして節約しようと思ってな。それでエドワールも誘った。世間話の一つだよ」
「金のない奴に限って、金の話ばかりする。私がそれを知らないと思うか。金を取り戻すぞ」
「取り戻す? 誰から?」
ヴェロニカがエドワールの死体を爪先で小突いた。
「相手は諜報員なんだろ?」とアッシュ。
「そうと決まったわけじゃない。こいつがジントゥーラで、阿片の密売をしていただけだ。そして何者かが私の金を奪った」
「だけど……」
「お前、自分に選択肢があると思うな。私の金を奪われたのは、お前の責任なんだぞ」
「分かってる」
「どうだかな。お前はこれから金の回収が済むまで、私の奴隷だ」
何が奴隷だ。阿片が見つかった時に笑っていた。金の匂いを嗅ぎ取ったくせに。恐らくヴェロニカは一万二千ギル以上を狙ってやがる。
黒猫がヴェロニカの肩に飛び乗った。もうそこが定位置だと思ってる。
「どうするんだ」とアッシュ。
「猫の名前か?」
「いや、違う。これからの事だよ」
「お前が私に指図するのか。お前、私がさっき言った事を覚えているか」
「俺は奴隷だろ」
「分かってるなら、自分がどんなに愚かな事をしたかも理解出来たな」
「謝る、謝るよ」
「金を返せない奴は本当にクソだ。エドワールと何の仕事をした。まずそれを話せ」
「俺の稼業は知ってるよな?」
「零細のクソ仲買人だろ。何でも扱うらしいな」
「仲介出来るのなら何でも手を出す。それがアッシュ・ルーランド商会だ」
「それで?」
「絨毯を仕入れてくれと言われた」
「可笑しな点はあったんだろう」
「決めつけた言い方だな。けどその通りだ、ショノフって町は知ってるか?」
「北の炭鉱だろ。見所のない場所だよ」
「そうだ。そこにある店から仕入れてくれ、という話だった。町や店まで指定されるやり方は珍しい、というか初めてで」
「理由は」
「絨毯一枚で二万ギル出す、と言われた」
「つまり聞くなって事か」
「綺麗な仕事じゃないとは分かったが、断る理由もなかった」
「その奇跡の絨毯は? 金を貰うつもりだったって事は、納品済だろ」
「そこにある」
アッシュが部屋の隅を指した。丸まった赤い絨毯があった。
「早く言えクソボケ。持って来い」とヴェロニカ。
指示に従った。
「広げろ」
「はいはい」
丸まった絨毯を放り出した。
「しっかりやれ、馬鹿が」
ヴェロニカが足で絨毯の端を広げる。
赤のベースに白い模様が編み込まれていた。幾何学とは違う模様。
「魔導が編み込まれているのかと思ったが、違う様だな。これに二万ギルとはね」
「空飛ぶ絨毯には見えないな」
左右を結ぶ様に、真ん中に白い線。それを中心に上下にも、白い編み込みが巡らされている。
「アッシュ、明かりをつけろ」
火口箱を取り出し、アッシュは蝋燭に火を灯す。燭台を絨毯の上へ。模様の上に、ヴェロニカの影。
「裏返せ」
アッシュは燭台をヴェロニカに渡し、絨毯を裏返した。模様が引っ繰り返る。編み込みの裏側なので、表程は美しくない。
「これって……」
アッシュは閃く。
「絨毯なのは分かってる。何か思いついたなら、その先を言え」
「期待してもいい、多分俺が正解だ」
「回りくどい、早く言え」
「これは、グラオトレイ近郊の地図だ――」
「地図?」
「ああ、この街が編み込まれている。ほら、この真ん中の左右に流れる線はイルタック川だ。そうするとここが俺達のいる名もなき通りで、ここは第四門。これはマリアーヌ宮殿に、聖母グリウェン教会だろ。後、ここは……」
「もういい、黙れ。私は観光に来た訳じゃない」
「でも分かったろ?」
アッシュが言った。
「ああ、ここが目的地だ」
ヴェロニカが踏みつける。
第三門近くに、黒い糸で編み込まれた丸い模様があった。
「シロ通りの外れだな」とアッシュ。
「メモを取れ」
アッシュは机にあった紙に、地図を簡単に書き写す。
「行くぞ、ついて来い」
アッシュに選択肢はなかった。死体を見る。どうもする事は出来ない。記念に刃の仕込まれた指輪を持って行く事にし、小屋を出た。