アッシュは酒場『熟れる麦亭』から飛び出した。
帝国自由都市グラオトレイの一画。貧困街カルジーナ地区の名もなき一本の通り。街灯のない道だった。衛兵もここにはやってこない。夜の暗さに灯るのは、疎らに点在する酒場、故買屋、賭場、阿片窟から漏れてくる明かり。
アッシュは走った。後ろからは、強い足音。酔っ払いが追いかけてくる。
何かを叫んでいるのは分かった。追ってくる酔っ払いは、呂律が回っていない。だが決して美しい言葉ではない事も分かる。
脇の路地へ駆け込む。
「くそ」
アッシュは躓いた。骨になった死体に。頭蓋骨が薄っすらとピンク色に染まっている。阿片中毒者の証だ。骨が転がる、乾いた音。態勢を直して顔を上げると、黒猫が奥の壁に飛び上がり、逃げていった。
その下を見ると、三毛猫の死体。脇から血が出て内臓が散らばっていた。共食いをしていたのだろうか。腐った肉と、小便の匂いが纏わりつく。
「テメェ、生意気だなコラぁ」
後ろから酔っ払いの声。
捕まった。後ろ襟を掴まれ、振り回される。アッシュは狭い路地の壁に打ちつけられた。
飲んでいたら、言い掛かりをつけられた。単なる酔っ払いだと思って適当にあしらおうと、手を払ったのが間違いだった。とりあえず酒場から逃げたが、結局この有様だ。
「俺をコケにしたな、おう?」
酔っ払いの男にしてみれば、憂さ晴らし出来るなら誰でもよかったのだろう。
「待て」とアッシュ。
直後に殴られた。腹部に一発。体がくの字に曲がって浮き上がる。胃から飲んだエールビールが喉へ上ってきた。倒れ込む事は許されずに前髪を掴まれ、顔を上げられると、今度は平手打ち。冬の冷たさと衝突した様な刺さる痛み。
運がない、と思った。反撃する気分でもない。そもそも、アッシュは弱い。
「悪かった、謝るよ」
アッシュは声を絞り出した。
「うるせぇんだボケ」
首を掴まれた。そのまま締め上げられる。この辺りでは喧嘩で死ぬのなんて珍しくない。今夜、自分もその一員の仲間入りかもしれない。
助けて、が声に出来ない。
「おい、そこの木偶の坊」
女の声がした。どこから、男の向こう側から。
「なんだよ」と酔っ払いの男。
少しだけ首を掴む力が弱まった。
「離してやれ」と女。
酔っ払いの返事を聞く前に動き出し、滑らかな水面蹴り。倒れる酔っ払い。アッシュは解放された。
「この間抜けは私の客だ」
アッシュを指差して、女が言った。女はヴェロニカ・シェーン・セラノ。
「私の客に手を出されたら、黙っちゃいられないな」
女性の割には低い声。肩まで伸びている黒い髪と、長い手足。右目の下に小さなホクロがある。格好だけ見れば白いシャツにズボン、革靴にナイフを腰から下げた男だった。
酔っ払いの男は立ち上がった。顔が怒りに満ちている。
「なんだお前、女か、それとも男か」
「教えてやらなきゃ分からないのか」
酔っ払いの答えたヴェロニカ。彼女はこの界隈では“男装の金貸し”とも呼ばれている。
男が太い腕を振る。ヴェロニカは身体を傾けて避けると、間合いを詰めて男の襟を掴み、宙へ放り投げた。
「立てよ」
ヴェロニカが手で挑発を示す。
酔っ払いは立ち上がり、痰を吐き捨てると、唸り声と共に突っ込んだ。ヴェロニカは宙返りをして男をいなすと、背後に降り立ち、トンッと指で後頭部を押した。酔っ払い男は肘を振り回転し、振り向くと、鬼の様な形相に変わっていた。
ヴェロニカは、手の甲でその頬を軽く叩いた。
「舐めやがって」
酔っ払いがナイフを抜いた。
「いい心掛けだ、そうこなくちゃな」とヴェロニカ。
酔っ払いが突き出すナイフを躱し、手首を掴む。真逆を向ける様にして容赦なく捻ると、骨が砕ける音がした。膝をついた酔っ払い男の叫びが続く。
「容赦しないからな」
顔面に拳を放つ。鈍い音がした。酔っ払い男は、呻き地面に倒れ込む。
「待て」
黒い影が地面にあった。アッシュは思わず声を出す。
ヴェロニカもその影に気付いたのか、倒れ込む酔っ払い男の首を掴んだ。
丁度、酔っ払い男の背中の下に、黒猫がいた。さっき逃げた黒猫と同じ奴ではないか。どこかへ行ったと思ったが、この喧嘩を観戦していたらしい。
「猫が潰れるだろ、クソ野郎」
ヴェロニカが酔っ払い男を、路地の外へ投げ捨てる。男は突っ伏した後、ゆっくりと立ち上がり、そのまま覚束ない足取りで、どこかへ消えた。
「猫好きなのか」とアッシュ。
「嫌いだ」
ヴェロニカは言うが、黒猫は違うらしい。潰される所を助けられた恩を感じているのか、ヴェロニカの足へと擦り寄る。
「本当に嫌いなのか?」
アッシュがもう一度尋ねる。
「死ね」
ヴェロニカは舌打ちをしてから、黒猫を肩に乗せる。黒猫もまんざらでないらしい。
「それで、私の金はどうした」
アッシュはヴェロニカに借金をしていた。
だが、返す金はない。