強大な力を誇りながらも、弥呼が扱えたのは一つの言魂のみ。このような事から、世には滅する術しか存在せぬと思われていた。ところが、道理を覆すかのような那美だけに与えられた浄化の力。
空へと帰りゆく輝きに、弥呼は初めて知り得た。地に落ちた魄霊でも、安らぎの光なら天上に帰すことが出来る。とはいえ、完全な霊鬼の姿になってしまっては滅するほかない。ならば邪に落ちてしまう前に助けてやればいい。
このように考えた弥呼は、那美の指導の下、手を取り合い彷徨う霊を鎮めて歩く。こうした光景は、傍から眺めれば仲の良い親子に見えたかも知れない。しかしながら、楽しい日々も永遠には続かず那美は突然にも姿を消した。
これによって、二つの光からなり得た言魂は、儚くも過去の神気として潰えてしまう。そんな自らの事情を弥呼は烏兎へ丁寧に聞かせた。その姿から窺えたのは、悲しそうに涙ぐむ様子。本当は話をしたくなかったに違いない。けれど、敢えて伝えたのには訳があったのだろう。
理由は一つ。弥呼は偶然にも見てしまったからだ。
その光景は、車に何度も引かれた小さな狐を抱きしめる烏兎の姿。道路の端にしゃがみ込み、哀しみに満ちた表情を浮かべていた。やがて瞳からは、透き通る涙が頬を伝い流れゆく。その滴は亡骸に向かって一つ……。また一つ……。そっと緩やかに零れ落ちた……。
すると――、突然にも掌から溢れでる光華。
温もりのある光と静かなる優しき輝き。この二つを合わせ持つ燦爛とした安らぎの神気。遠く去りゆく想い出の中で、儚くも潰えたかに思われた対極の術。那美にしか扱えなかった言魂が、烏兎から発せられていた。
からといって、いまの状況で浄化をするには荒削りの状態。神気は十分に洗練されておらず、魄霊を救うどころか低級霊すら助けること叶わず。しかしながら、経験を積めば強大な霊鬼にさえ立ち向かうことが出来るに違いない。
それほど『寂滅為楽』とは、未知の力を有した計り知れない神気であった。そのため、この瞬間から烏兎を後継者にするべく、弥呼は自らの生い立ちを語ったという。にしては、伝えられた過去の事情も全てではないように思える。
というのも、三つの事柄だけは烏兎が幾度となく聞くも教えてはくれなかった。
一つが、この現代において、どうして退魔師などを生業としているのかという疑問。
二つが、今の街に移り住む前は、どんな場所や環境で暮らしていたのかという出来事。
三つが、突然にも姿を消した那美の原因と、それに至るまでの状況といった経緯。
これらの事については、問い掛けても話をはぐらかすばかり。いずれにしても、烏兎には幼い頃の記憶がない。したがって、知り得たからと言ってどうなる訳でもなく、それ以上は聞くことを諦める。
――こうして自らが持つ全ての術を烏兎に伝授するため、弥呼は休むことなく過酷な修練を続けたという。
「はあ…………もしかして、今日も除霊の稽古をするのかなぁ」
黒猫を天へと帰した烏兎は、空を見上げながら溜息をつく。その雰囲気から窺えたのは、何かを思い詰めた浮かない顔つき。よほど辛く厳しい修行に違いない。
「それにしても、普段は優しい婆ちゃんなのに、どうして神気のことになると目の色を変えるんだろう?」
ふと、三つの事柄について思いを巡らせる烏兎。なにか関連があるのかと考えるも、状況はよく分からない。そのため、気を取り直し帰宅する準備を始める。
「まあ、いいけどね。だけど今日だけは勘弁して欲しいかな。こんな気持ちのままじゃ、稽古どころじゃないし。――といっても、許して貰えそうにないだろうね」
修練は何があろうと毎日行われる。それは雨が激しい嵐の中も問答無用に実施された。このような事から、失恋したからという理由は通用しない。そんな事情もあってか、残念そうに独り言を呟く烏兎は、校門前に止めてある駐輪場へと向かう。
その瞬間――、烏兎は突然にも立ち止まり双方の掌を打ち鳴らす。
「あっ、そうだ! 肝心なことを忘れてたよ。婆ちゃんに今日は誰も来ないって言わなきゃ。――っていっても、この時間だと二人分の材料はもう買ってるだろうね。ということは、アレを食べろってことかぁ……」
誕生日に祝って欲しかった相手。祖母に友達を呼ぶと伝えていた人物。それは他でもない望のことであった。これらのことが重なり合って、もう自分でも何に落ち込んでいるのか分からない状況。
それは失恋なのか、稽古なのか、あるいは特大ハンバーグのことなのか。様々な事柄に、烏兎は困惑した表情を浮かべながら佇んだ…………。