こうして積年の想いは儚くも、無常にあっけなく終わりを告げた。残されたものは、虚しさや切なさといった両面の思い。そんな寂しさを励ますかのような光景。緩やかに漂う一片の桜花が、烏兎の掌に揺らめきながら落ちてくる。
それは先ほど、枝に寄り添っていた最後の花弁。風に吹かれ散り去ったかに思われていたが、実際には見守るかのように目の前で舞っていた。この花びらを静かに握りしめる烏兎は、物思いにそっと小さな声で囁く。
「みんな僕の言うことを信じてくれていると思ってた。けど、違っていたんだね。見えているのは、僕と婆ちゃんの二人だけ。そうでしょ、魄霊」
(にゃ?)
立ち去る望の姿を必死に追いかけようとする黒猫。この状況に、烏兎は哀しそうな顔つきで魄霊を呼び止める。
「駄目だよ、そっちに行ったら。あまり長くいるとね、人の歪んだ念で穢れてしまう。そうなったら、望ちゃんが悲しむでしょ。だから僕ができることは一つ。お前をあるべき場所へ帰すこと」
(にゃ、にゃ?)
突然にも烏兎から声をかけられ、黒猫は驚いた表情を見せる。それもそのはず、この一週間は見向きもされず、主にさえ振り向いて貰えなかったからだ。
「さあおいで、心配しなくても大丈夫だよ」
(にゃぁーん)
烏兎が笑顔で呼びかけると、黒猫は嬉しそうに足元へすり寄ってきた。
「お前も寂しかったんだね。分かるよ、その気持ち。だからね、これからは一人じゃない。僕が仲間達の場所へいざなってあげる」
そっと黒猫を抱きかかえる烏兎は、慈しみの表情を浮かべながら話しかける。
(にゃ……?)
これを不思議そうに首をかしげる黒猫。黄金色に光り輝く瞳には、優しく微笑む烏兎の姿が映っていた。
「そうだよ。魄霊達の住む世界は紅鏡という場所。そこへ行けばね、もう一度生まれ変わることが出来るらしい。といっても、この言葉は婆ちゃんが言っていたこと。本当にあるかなんて、僕には分からない。でもね、このままここに居ても悪霊になるだけ。そんな姿はお前も嫌でしょ。だったら、そこに行ってみない」
(にゃ…………ぁ、にゃん!)
その問いかけに、黒猫は間をおき考える素振りを見せる。といっても、数秒。やがて納得したような態度で、可愛らしい鳴き声をあげた。
「よし、いい子だ。目を閉じていればね、すぐに終わるから安心して」
烏兎は腕の中に黒猫を柔らかく包み込むと、もう一方の掌を眼前に掲げる。そして瞑想するかのように目を閉じ、指先を絡めながら言魂を放つ。
「縛解――、寂滅為楽!!」
まるでそれは呪文のような言葉。迷いのない境地へいざない、心の安寧へと導くもの。烏兎はこの言魂を祖母から教わったという。それは地に落ちた魄霊をも、苦しみのない世界へ救いたいと願う想いから。
二つに分かれた尊霊。つまり、魂霊は天上へ昇り安らぎを得ることが出来る。一方で、魄霊は地上にとどまって自然と共生する。しかし、人が持つ邪念に侵されれば、瞬く間に悪霊となってしまう。
その念とは、嫉みや妬みといった悪意に満ちた嫉妬の心。これに触れる魄霊は、次第に自我を失い変貌を遂げる。こうして悪霊と化した後は、人間に取り憑き体の自由を奪うという。
やがて憑依された人間の末路。言うまでもなく、悪事の衝動に駆られ殺しなどの犯罪に手を染めた。そして最後には、自らの命を絶ち無情の結末となる。何とも質の悪い、人の世に害をなす悪霊。
日本における毎年の自殺者総数は2万人。祖母が言うには、少なからずこの事象が関係しているという。呼び名も悪霊ではなく霊鬼といい、烏兎にその存在を詳しく話していた。いずれにしても、1日に数多くの人々が悲しき被害を受ける。
このように心を支配されれば、本人の意志ではどうすることも出来ない。ただただ、為されるがまま死を待つのみ。とはいえ、何もせずに眺めているだけではなかった。
こうした奇怪な事件に立ち向かい、世に安寧を齎すべく退治する者。退魔師を生業とした霊鬼を滅する存在。逢魔時ともなれば、妖艶に美しく魅了する姿に様変わりするという。
その名は弥呼、烏兎の祖母である…………。