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もう…、大変なことになっています。(2024/12/16)

 皆様に先にお礼を申し上げます。

 NSP02の投票にて、恋愛部門で3位に入れましたのは、皆様のお陰であります。


 1次選考は落選してしまいましたが、皆様の応援が心強かったし、深くお礼を申し上げます。


 さて、閑話休題。


 余りにも不運が続きすぎて、不運が断ち切れるから、なんでもやります。状態になりつつあります。

 「助けて下さい」と、私は叫びたい状態です。


 作者の近況と色々なボヤキ(2024/10/31)にて、自動車メーカーの不正問題で、父の跡を継いだ小さい町工場が危機的に苦しいことに加えて、高校受験を控えた息子が起立性調節障害を患って、学校に全く行けなくなったり、家や工場内の機械や機器類が相次いで壊れた話をしましたが…。


 これだけでも、大変な事態になっていますが、年末にかけて追い打ちをかけるかの如く、色々な不運が襲ってきています。


 10月31日の記事を書いた後に、工場内のエアコンが1台壊れました。


 これは20年以上前のエアコンなので、もう寿命なのですが、この会社の状態では、買い換えが難しいので、今はストーブ使って冬をしのいで、夏場になる前に、エアコン業者や銀行系のリース会社を使ってエアコンを交換することにしました。


 そんな厳しい状況が続いている最中に、愕然とする災難が訪れます。


 私の母は赤芽球癆せきがきゅうろうという、難病の病気を10年近く前から患っていまして、これは脊髄の中で赤血球が作られる際に、リンパ球や抗体が、未精製の赤血球を攻撃してしまうことによって発症すると考えられているようです。


 当然、マトモな赤血球が作られない状態になるので、深刻な貧血になってしまいます。


 そこで、母は暴走した免疫を抑える為に、ネオーラルという免疫抑制剤をズッと服用していたのですが、ここにきて年齢も重なってきた影響から、徐々に服用している薬の副作用も出てきました。


 免疫抑制剤を減らすということは、脊髄を攻撃している免疫を、それだけ自由にさせるのですから、それなりにリスクも伴います。


 そんな最中で、母に不運が訪れました。


 母の赤芽球癆や、赤芽球癆を患ったことによる膠原病などの診察をする為に、私の仕事の都合から、弟が片道車で1時間もかかる大きな基幹病院に連れて行く事になってしました。


 私が、神棚にお参りをして、3年前に肺癌で亡くなった父の仏壇に手を合わせていた時に、玄関でバタッと大きな物音が聞こえて、母のウワッ!!、という声が聞こえたので、急いで玄関に行くと、母が倒れていました。


 どうやら、赤芽球癆に伴う貧血から、めまいを起こして玄関で転んでしまったのです。


 急いで母の体を起こすと、母は大丈夫と言いつつ、しっかりとした足取りで弟の車に乗り込んでいきました。


 しかし、私は不安を覚えるばかりです。

 『来客がなかったら、弟じゃなくて、私が行くのに…。』


 この不安は完全に的中する形になります。


 ◇


 数時間後…。

 外せない来客があって、打ち合わせをしている時に、私の携帯が鳴って弟から電話がありました。


 母親が造血剤の注射を打っている時に倒れて、どうやら迷走神経ではなく、貧血で倒れているようだ…とのことでした。


 弟は、その時に、転倒した影響で頭を強く打っていたし、足腰も痛がっていたから、脳の検査と、骨が折れていないかの検査をするように、思いっきり医師に訴えるべきでした。


 私は電話でそのことを弟に伝えたものの、いまいちアピールが足りなかった部分があります。


 母親は本来、医者嫌いなところがあって、これが相当に事態を悪化させる結果になることが多いのです。


 既に亡くなってしまいましたが、末期の肺癌で亡くなった父も、そんなところがあって、そういう場合に、先生に強く検査をして頂くように訴える事を、私はよくやってました。


 それもあって、医師へのアプローチの仕方なども私は心得ていたのですが、あまり弟は、病院の付き添いをしないので、そのあたりのノウハウが全く足りません。


 それが最悪の結果になって出てきます。


 それでも、応急処置的に点滴などの処置があった後に、なんとか家に戻ってきて、母は足腰が痛いと言いながらも、普段通りに家事や日常生活をこなしていきます。


 それから数日後…。

 母の足は徐々に悪化してしまいました。


 その時点で私や女房、それに弟は母に対して医者に行くように説得しますが、頑なに拒みます。


 激痛のあまりに起き上がることが、ままならない状況です。


 私たちは母を介助する状態になり、その時点で整形外科があるクリニックに行きますが、幸い、骨は折れてない事が分かって、その時は、強い打撲だと思ってホッとしていたのですが…。


 確かに、レントゲンを撮った所見で骨は折れていなかったのですが、そのクリニックではMRIを行わなかったのは致命的でした。


 その後、痛み止めを飲みながら、母を介助する日々が2~3日間続きましたが、今度は39度台の熱が出てしまいます。


 母はシッカリと意識はあるものの、グッタリとしている状況なので、母の血液内科の主治医に診て頂けないか、病院に電話をしましたが、診察が混み合いすぎていて、地元のクリニックに行くように言われてしまいます。


 それが大きな運命の分かれ目でした。

 その日の夜、初めて、熱によるせん妄らしき症状が出てしまいます。


 要するに、母は夢うつつの中にいて、痴呆のような会話になってしまうような現象です。


 その翌朝はもっと最悪でした。


 食事やトイレに行くのに、体を起こそうとすると、意識が遠のいて傾眠したと思ったら、しばらくするとハッと起きるような状態でした。


 私は仕事をやっていたので、その状況は見ていないのですが、慌てた女房が#7119で母の症状を伝えて、救急搬送相当か尋ねた後に、救急搬送が決まりました。


 無論、血液内科がある主治医がいる病院に搬送された形です。


 私は、もう、かなり慌てていました。

 仕事をミスらないかを心配しながら、弟に付き添いを任せて、後で病院に駆けつけることを決めました。


 病院に搬送後、母はすぐにICUに入りました。

 ICUに入って色々と検査をしながら判明したことが幾つかありました。


 1つ目は、母がめまいがして転倒した際に、仙骨にヒビが入って徐々に激痛になっていたこと。

 2つ目は、敗血症になって、命を落とす危険が迫っていることでした。


 これを書いている段階で、未だにICUにいます。


 そして、せん妄の症状は消えずに、母は眠っている時間も多く、話していることも支離滅裂なことが多くて、私たちの気持ちも完全に萎えています。


 今年は本当に修羅場の年になりました。


 私は、絶対にこれを乗り越えてみせます。


 もうね、これを乗り越えれば、どんな苦しいことがあっても、絶対に耐えられます。

 コンテストで賞を貰うなんて次元じゃありませんよ、こっちは私の人生の大きな糧になるのですから。

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