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十二章 「初めてのケンカ」

 晩ごはん前に、二人で楽しく会話していると、彼女はさらっと「明日は『イベント事』の日だから」と伝えてきた。

 普通に返事をしたけれど、「えっ、事前告知しちゃうの?」と僕は内心びっくりしていた。

 「突然だから、この『イベント事』の日はサプライズ感があっていい」と彼女は前に言っていた。

 それなのに、今回はどうしたのだろう。

「明日は、二人にとって大切な料理の日よ」

「料理の日。そんな日あったかな?」

 僕は目の前にあるカレンダーをじっと見た。

 僕は記念日を前よりかなり意識するようになってきていた。

 八月にそのような祭日はもちろんないし、カレンダーの余白部分に小さく書かれていることもなかった。

「カレンダーを見ても無駄よ。だって私が今作ったオリジナルの日なんだから」

 彼女は楽しそうにしていた。

「それは、都合良すぎるよ」

 僕はつい強い声で言ってしまった。

 声の大きさと冷たさに自分ですら驚いた。

 今まで彼女にもやっとしたりイラッとしてしまったことを思い出し、僕が日々感じている世の中や人への不満までも彼女に全てぶつけた。

 僕にとって世の中はそんなに優しいものではないし、そんなに都合よく何でもかんでも変えることもできない。

 苦しくても、ただ耐えるしかできないものだ。

「ごめん。どこかすごく嫌な気分にさせちゃったのかな」と彼女は焦りながら申し訳なさそうにしていた。

 そこまで彼女の感情がわかっているのに、僕は彼女のことを許すことができなかった。

「明日は『イベント事』の日だということはわかったよ。僕はもう寝るから。ほっといて」

「えっ、あっ、ちょっと待って⋯⋯」という彼女の声に僕は振り向くことなく寝室にスタスタと向かっていった。

 彼女とケンカをしたのは、この日が初めてだった。


 次の日になって、自分のしたこととを少し冷静に考えられるようになった。

 彼女の発言でイラッとはした。でも、あそこまで言うこともあんな態度をとることも明らかにひどかった。

 今まで誰かに怒りを直接ぶつけたことすらなかったから、どんな風に怒るのかさえわからなかった。

 さらに言うなら、ケンカした時の仲直りの仕方もわからない。

 どんな風に話せばいいかと考えると足が震えた。

 怖かったけど、このままの状態にしておきたくないなといい思いのほうがギリギリ勝った。

 彼女が起きてから、僕はすぐに謝りに行った。

 自分がしたことについて謝ることはきっと間違っていないだろうから。 

「おはよう」と彼女が声をかけてきたから、僕は昨日のことなのだけどと言い出そうとすると、彼女と声が被った。

 彼女は私はあとでいいからと言ったから、「昨日は怒りすぎた。怖い思いさせてごめん」と僕は頭を下げた。

 彼女は私は大丈夫と言い、「私の方こそ瑞貴ちゃんのこと全然見えてなかった。ごめんなさい」と涙を流した。

 涙を見て、より一層心が痛くなった。僕は彼女をこんなにも苦しめているということだから。

「もし瑞貴ちゃんが嫌じゃなかったら、昨日何が嫌だったか教えてくれない?」と鼻をすすりながら彼女は聞いてくれた。

 でも、僕は自分の心の中の状態全てを話すことは怖くてとてもできないと本能的に感じた。

 あれは、きっと誰にも受け入れられないから。

 あれについては話さないことにした。

「僕は今まで生きてきて、物事が何もなくうまくいくことも、都合よくうまくいくこともなかった。だから、あまりにも僕の人生と違いすぎて、イラッとしてしまった。本当にごめんなさい」と言った。

 彼女は「そうだったのね。本当にごめんなさい」ともう一度謝った。

 そして、辛い話を話してくれてありがとうとも言っていた。

 彼女の優しさに救われた。

 もし、彼女に嫌われたらとても平常心ではいられなくなるから。

「今日は『イベント事』の日だけど、どうしようか」

 僕は自分で判断がつけられなかったから、彼女に相談した。

「もし瑞貴ちゃんが今そんな気になれないならなしでいいよ」

 彼女の声は小さかった。

 僕はまだ完全にもやっとしたものが消えていなかった。

 でも、『イベント事』の日は変わらずしようかと思った。

 彼女が一生懸命考えてくれたことだから。

「『イベントの日』は予定通りしようよ」

「もし、している最中にまた嫌になったたらすぐに言ってね。無理はしなくていいからね」と彼女は温かい言葉をかけてくれた。

 僕はこの時中途半端な気持ちで、何かをすることが相手に失礼だということをわかっていなかった。


 僕たちは二人でエプロン姿になった。 

 このエプロンは最近おそろいのものを買ったものだ。

 これはシンプルなデザインながら、ペンが差し込むところがあったり、スマホが楽々入るポケットが二つもあったりと機能的でとてもいものだ。

 おそろいのエプロンを買った時、僕は「いつもどうして料理が既に終わっているのに、エプロン姿で玄関まできてくれるの?」と聞いてみた。

 僕は前よりは、彼女に聞きたいことを聞きやすくなってきていたから。

 「それは⋯⋯」と彼女は言ってから、次の言葉がなかなか出てこなかった。

「ん? それは??」と僕が普通に聞き返すと、「それは、瑞貴ちゃんに少しでもかわいく見られたいから」と彼女は耳までまっ赤にしていた。

 その時、彼女はなんてピュアなんだろうと僕は喜びを超えて感動した。

 エプロンの姿の謎がこんなにも素敵なものだったなら、彼女の他の謎も解き明かしてみたい。

「一緒に楽しく料理を作っていこー」と彼女は元気よく手を叩いた。

 さらに彼女は、「わからないことがあったらどんどん私に聞いてね」と声をかけてくれた。

 でも、その優しさに甘えるのは、なんだか申し訳ないなと僕は思った。

 そして、彼女ほど明るい気持ちになれない僕がいた。まだケンカのことを僕はひきずっている。

 「材料はこちらでーす」と彼女はホワイトボードをどこからともなく出してきた。

 そんなものは、前まで家になかった。

 これも彼女がこの日のために買ってきたのだろう。

 彼女ならこんな準備は当たり前のようにする。

 そこには、こう書かれていた。


ミートボールの材料

豚ひき肉 200g

パン粉 大さじ2 

牛乳 大さじ3

塩こしょう 少々

水 100cc

ケチャップ 70cc

ソース 大さじ1

しょうゆ 小さじ1


「まずは、ボウルを用意して、そこにホワイトボードに書かれた量のパン粉と牛乳を入れます」

 彼女は某有名料理番組のような話し方で、話し始めた。

 もちろん、料理上手な彼女は今から作る料理の作り方をすでにわかっているだろう。

 今回彼女は料理を教えてくれる役にわざわざなってくれている。

 僕は、彼女の『イベント事』の日に対する熱い思いを感じた。

 でも、感情を整理できていない僕は、彼女が教えてくれたとおりに黙々と作っていった。

 彼女にわざわざどんな感じか詳しく聞くことをしなかった。

 それは、今日は大切な『イベント事』の日なのに、そんなことに、時間を割くのは悪いと思ったからだ。

「次に豚ひき肉を入れて、塩と胡椒を振ってください」

 彼女の元気が少しなくなったような気がしたけど、たぶん気のせいだろうと僕はそのことを深く考えなかった。

 むしろ、僕は大切な彼女にひどいことを言ってしまったと自分をダメなやつだという思いで、頭の中がいっぱいだった。

「それを混ぜてコネコネしましよう」

 一緒にコネコネしながらも、彼女は僕にまた話しかけてきた。

「あっ、何度も言うけど。わからないことがあったら、いつでも、どんな小さなことでも、聞いていいのだからね」

「ありがとう。でも大丈夫。花音ちゃん説明上手だし、自分でも少しはわかるから」

 コネコネしている間も、僕は『イベント事』の日に集中することができていなかった。

「そっか。じゃあ、次の工程にすすみます」

 ここでやっと僕は彼女の様子がおかしいことに気づいた

 『イベント事』の日なのに、彼女は全く甘えてきていない。

 むしろ、普段の彼女よりもテンションが低めだ。

 なんとなくだけど、僕が怒ったこと以外にも別の理由もある気がした。今日の彼女はいつも以上に優しかったから。

 そして、この状態は僕の中では僕が彼女を楽しい気持ちにできていないということと、同じだった。

 僕が『イベント事』の日に、他のことを考えていたのが悪かった。

 なんで中途半端な状態でできると言ってしまったのだろう。

 後悔はしたけど、今からどうしていいかはわからなかった。

 僕は「せめて、料理は完成させないと!」と思い、わからないことがあるとスマホで調べて、彼女に頼らずに急いで作った。

 なんとか料理は完成した。 

 いつもなら、ここから彼女が今日がなぜ『イベント事』の日になるか話をしてくれる。

 でも、彼女は何も文句は言わないけど、悲しそうな顔で僕を見つめていた。

 結局、この日彼女は一度も甘えてこなかった。


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