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九章 「六月四日 付き合った記念日」

 六月四日。

 僕は今仕事を終わらせて、会社から家に向かっている。

 会社から家までは電車で一駅とかなり近い。僕は単純に近い方が通いやすいし、家での時間も長くとれると思い、会社の近くに家を建てた。

 たまたまだけど、そのおかげで今は彼女と過ごす時間をたくさんとれている。それはありがたいことだ。

 彼女のことを知るためには、じっくり話す時間も必要なのだとわかった。

 僕は中小企業で、経理をしている。経理は数字を扱う仕事だ。だから、一つでも数字が合わないと、ダメなシビアな仕事だ。

 数字を扱うには慣れている。数字を覚えるのも得意だ。

 それなのに、僕は彼女との記念日には無頓着で、ほとんど覚えていなかった。

 仕事と家庭は別という考え方もある。でもその考え方を考慮したとしても、僕が彼女を全然大切にできていなかったことは確かなことだとやっとわかった。

 僕はそれにまず気づけててよかったと思った。もちろん彼女に申し訳ない気持ちはある。

 今更変えられないことも確かにある。でも、今からでも変えられることもあるし、未来は確実に変えることができるから。

 とりあえず今彼女とのことでわかっていることは、考え方が似ているということだ。彼女がいつも『イベント事』の日に力説することは、確かに強引なところもあるけど、「なるほどな」と僕も納得がいくことが多い。あと、笑いの感性も似ている。彼女がすることにくすりと僕は笑えるから。

 考え方や笑いの感性が似ていることは、夫婦としてずっと一緒にいる上で大切なことだろう。そんな当たり前なことを今更わかっている僕だけど、必ず彼女が突然『きゅんとさせて』と言った理由を見つける。

 そんなことを考えているうちに、家に着いた。

「ただいま」

「おかえり、ダーリン」

「ダッ、ダーリン!?」

 彼女はいつものようにピンクのエプロンをして出迎えてくれた。

 「どうしていつもエプロンをして待っているの?」と最近僕は聞きたくなってきていた。

 けれど、いつもそんな思いを軽く吹っ飛ばすことを彼女がしてくれる。

 今度は、呼び方そのものを変えてきたようだ。

「そんなに驚いてどうしたの? いつもそう呼んでるじゃない?」

 彼女はおかしなことなんて何もないという、いやむしろ僕の方がおかしいという目で僕をじっと見てくる。

 いやいや、僕は間違えてないからね! と思った。

「あっ、そうだったね」

 僕は諦める覚悟を少しずつ持ちながら、答える。

「もぉ。ダーリンは、忘れっぽいんだから」

 彼女は体をクネクネさせていた。

 「私、運動音痴だし、体も固いのよ」と付き合っていた頃に確かに言っていた。

 「いや、体柔らかいじゃん」と突っ込みたくなるぐらい、見事な体な動きだ。

 彼女がこんなに甘えてくる理由は、さすがの鈍い僕でもわかっている。

 今日は、僕たちの付き合った記念日なのだ。

「ダーリンならもうわかってると思うけど、今日は『イベント事』の日だよ」

「うん、わかってるよ、花音ちゃん。今日は僕たちが付き合った記念日だよね」

「『花音ちゃん』じゃないでしょ? ちゃんといつもの呼び方で呼んでよ」

 ダーリンの相方といえば、アレしかないだろう。

 今回の甘え方は、僕も巻き添いをくらう系なのね。

 でも、この突然『きゅんとさせて』と言い出した理由は、きっと壮大な理由があるんだよね?知らないけど、そうであると今は信じたい。

 そう思わないと僕は恥ずかしくてとてもじゃないけど、求められてる言葉を言えないから。

 大きく深呼吸をする。

 僕も覚悟を決めた。

「あっ、ごめんごめん、間違えたよ。『ハニー』だったね」

「ダーリンは、うっかりさんなんだから」

 彼女はとりあえず納得してくれたようだ。でも今時『うっかりさん』って言い方をする二十代の子はいるのだろうかと疑問に思った。

 そして、覚悟を決めても、恥ずかしいものはやっぱり恥ずかしかった。

 この呼び方を今日一日はしなきゃダメなのかと思うと、顔が赤くなってきた。

「話は戻って、今日は『イベント事』の日になる理由を話してもいい?」

 彼女は当たり前のように涼しい顔をしている。

「うん、いいけど、今回はいつもみたいに深い理由がある? ただ付き合ったという日なだけじゃないの??」

 僕は言いがかりをつけたいわけじゃなく、彼女がどんなことを言うのか気になっていたのだ。そこに突然『きゅんとさせて』と言いだした理由がわかることが含まれているかもしれないから。

 それに、これまで色々彼女の説明を聞いてきて、僕は彼女の話がどんどん好きになってきていた。

「そんなことないよ! すごく特別なことだよ。それは、これまでは何の関係性もなかった他人の二人が、初めて関係性を結んだ日だから。そこから、どんどん関係性は深まっていくから。人が関係性を結ぶのって意外と難しい。でも、本当に難しいのは、その関係を持続させることだよ。今日この『イベント事』の日を祝えるということは、今でもその関係性が続いている、または発展しているという事で、私はそこを『私たちすごいよね』と互いにほめあいたい」

「なるほど、確かに持続させるのは難しいよね。またそれを誉めるというのは素敵な発想だね」

「ありがとう。ダーリンとの日々は、私にとってはいつでもスペシャルな日なんだけどね」

 彼女はまた僕をきゅんとさせた。

 もしかして、僕をきゅんとさせたいから『イベント事』の日を突然やり始めたのだろうか。

 まだ確定はできないけど、そんな考えが浮かんだ。

「そんなに日々を大切にしてくれて本当に嬉しいよ」

「ダーリンのことが大好きなんだから、当たり前でしょ」

 「当たり前」とはっきり言える彼女がすごいなあと僕は感心した。

「ハニー、ちょっと後ろ向いてくれる?」

「えっ、どうしたの? ダーリン??」

「はい、よい子はすぐに後ろを向いてねー」

 なんだかこのやりとりが永遠に続きそうだから。

、僕は彼女の体をくるっと回した。いや、エンドレスで続くのも悪い気はしないけど、僕も目的があってそう言ったんだから。

 そして、手に持っていた紙袋の中から用意していたペンダントを、彼女の首にゆっくりとつけた。

「えっ、これって!?」

「うん、これが今回の僕のきゅんとさせる行動だよ」

「ダーリンも腕を上げたね」と彼女は大袈裟にほめてくれた。

 ペンダントを嬉しそうに見つめながら、彼女はまた口を動かした。

「もちろんすごくすごく嬉しいけど。これって私でも知ってるぐらいの有名なブランドのものだし、ダイヤモンドもついてるし、本当にもらっていいの??」

 彼女の言う通り、渡したものは某ブランドもので、シンプルながら小さいダイヤモンドもついている。

 これは僕が前々から小遣いの一部を何かあった時のためと、貯めておいたお金で買ったものだ。

 今までは漠然と貯めてるだけで、何かに使う予定はなかった。

 でも、数日前に、これをきゅんとさせる行動のために使おうと思った。

 そもそも僕がこうやって小遣いをもらえてるのは、彼女が家計をうまく回してくれてるおかげなのだから。

 結婚してから、家計のやりくりは彼女に任せることにした。それは、当たり前だと感じていたからだ。

 初めて小遣いをもらった時、僕は「使うものもないから、いらないよ」と言った。

 でも彼女が、「部下ができた時に、お金をもっていないと格好がつかないでしょ」と僕の言葉を否定した。

 彼女が僕のすることを否定したことなんてこれぐらいしかなかったんじゃないかと今気づいた。同時に、どうして彼女は僕のすることをいつも肯定してくれるのだろう? とそんな疑問が浮かんだ。

 とにかく、僕は、普段おいしい料理を作ってくれている彼女に何か感謝したいと思った。

「僕がハニーにあげたいと思ったんだから、いいんだよ。そして、僕が今回プレゼントをあげるには、ちゃんと理由があるんだ。聞いてくれる?」

 僕も彼女の説明したがるところがうつってきたのだろうか。

 でも、それも全然悪い気はしないし、むしろなんだかワクワクした。

「うんうん、聞かせて」

 彼女は、また僕を肯定してくれる。

「まだハニーは若いから、ブランドものとかあまりつけないかもしれない。でも、今後素敵な大人の女性になっていくから、その時アクセサリーをつける際、似合うものを選んだ。まあ、大人なハニーの姿を今すぐ見たいっていうのもあるんだけどね」

「そんなことまで考えてくれたなんて、本当に愛されてるって感じるよ。ありがとう」

「喜んでもらえて、ホッとしたよ」

 彼女の一際喜んでいる顔を見て、僕はこの顔を見るためならどんなことでも頑張れると思った。

 僕の『幸せ』って、もしかしたら彼女が毎日幸せな顔をしてくれることかもしれない。

「実は、私からもサプライズがあります! ちょっと待っててね」

 そう言って彼女は、またどこかへ走っていった。

 そして、「今回は、サプライズって堂々と言うのね」と心の中でつぶやいた。

 そもそも何でいつも走っていくのだろう。彼女のことだから、「早く渡したいから」だけじゃないと僕は思い始めていた。

 思ったら即行動してみるのもたまにはいいと思えた。

 だから、僕は、彼女を追いかけて呼び止めた。

「待つのはいいけど、その前に聞かせてほしいことが一つあるけどいい?」

「ん、なになに??」

 彼女は嫌そうな顔をせず、僕の方を向いてくれた。

「なんでハニーはいつも何かを持ってくる時、走っていくの? 僕には「早く渡したいから」という単純な理由じゃない気がしてきたんだけど」

「それは、一秒でもダーリンのそばを離れたくないからだよ。じゃあ、今度こそ少しだけ待っててね」

 彼女はそう言うと、いつもより早足で走っていった。

 僕は、突然の愛にあふれた言葉に、ドキドキしてすぐに何も言えなかった。

 こんななんてない日常にも、彼女の愛は隠れていたようだ。

 それから、彼女はワンホールのチョコケーキを持ってきた。

 ケーキの真ん中には、『瑞貴&花音』のチョコプレートまで付いている。

「まさか、これって全部ハニーの手作り?」

「そうだよー。驚いた??」

 まさかスイーツも作ることができるのかと、僕はまた彼女の料理スキルに驚いた。

 ケーキの作り方を知らない僕が見ても、完成度がすごく高い。

 ケーキ屋さんに並んでいるケーキとほとんど違いがないだろう。

 僕がきゅんとさせる予定なのに、また僕の方がきゅんとさせられている。

 しかし、まさかこんなことまでしてくれるとは、さすがの僕も思ってもいなかった。

 いつも予想を超えてくると彼女は僕のことをほめてくれるけど、彼女の方が断然予想を超えてすごいことをしてくれている。

「ありがとう。僕もすごく嬉しい」

 なぜか涙がぽろっと出てきた。

 あれ、何で泣いてるんだろう。

「ふふ、思い出話でもしながら、ご飯の後に、楽しみに食べようね」

 彼女はそう言いながら、僕の頭をよしよしとさすってくれた。

 ちゃかすことなく、ただ優しくさすってくれたのだった。





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