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九章 「六月四日 付き合った記念日」

 梅雨入りはまだしていないけど、雨の日がだいぶ増えてきた。

 夜の雨は少し静けさがあって僕は好きだ。

 僕は今傘を差しながら、駅から家に向かっている。

 会社から家までは電車で一駅とかなり近い。僕は単純に近い方が通いやすいし、家での時間も長くとれると思い、会社の近くに家を建てた。

 たまたまだけど、そのおかげで今は彼女と過ごす時間をたくさんとれている。

 彼女のことを知るためには、時間が必要だとわかった。

 僕は中小企業で、経理の仕事をしている。経理は数字を扱う仕事だ。だから、一つでも数字が合わないと、ダメなシビアな仕事だ。

 それなのに、僕は彼女との大切な日には無頓着で、ほとん気にかけていなかった。

 彼女に申し訳ない気持ちが日に日に大きくなってくる。

 今からでもまだ変えられることがあるなら、僕は積極的に変えていきたい。

 今彼女とのことでわかっていることは、考え方がすごく似ているということだ。

 彼女がいつも『イベント事』の日に力説することは、強引なところもあるけど、僕も納得がいく時がほとんどだから。

 他にも、笑いの感性も似ている。

 そんなことを考えているうちに、家に着いた。

「ただいま」

「おかえり、ダーリン」

「ダーリン!?」

「そんなに驚いてどうしたの? いつもそう呼んでるじゃない?」

 彼女はおかしなことなんて何もない、むしろ僕の方がおかしいという目でじっと見てくる。

 いやいや、僕は間違えてないからね! と僕は負けじと見つめ返した。

「うん、あっ、そうだったね」

 僕は諦める覚悟を少しずつもってきていた。

「もぅ。ダーリンは、忘れっぽいんだから」

 彼女は体をクネクネさせていた。

 「私、運動音痴だし、身体も固いのよ」と付き合っていた頃に言っていた。

 「いや、身体柔らかいじゃん」とツッコみたくなるぐらい、見事な身体の動きだ。

 彼女が今日こんなに甘えてくる理由は、さすがの鈍い僕でもわかっている。

 今日六月四日は、僕たちの付き合った記念日だ。

「ダーリンならもうわかってると思うけど、今日は『イベント事』の日だよ」

「わかっているよ、花音ちゃん。今日は僕たちが付き合った記念日だよね」

「ん? 『花音ちゃん』じゃないでしょ? ちゃんといつもの呼び方で呼んでよ」

 ダーリンの相方といえば、アレしかない。

 今回の甘え方は、僕も巻き添いをくらう系なのね。

 でも、この突然『きゅんとさせて』と言い出した理由は、きっと壮大な理由があるんだよね? そうであると今は信じたい。

 そう思わないと僕は恥ずかしくてとてもじゃないけど、求められている言葉を言えないから。

 大きく深呼吸をし、覚悟を決めた。

「あっ、ごめんごめん。間違えたよ。『ハニー』だったね」

「ダーリンは、うっかりさんなんだから」

 今時『うっかりさん』って言い方をする二十代の子はいるのだろうか。

 覚悟を決めても、恥ずかしいものはやっぱり恥ずかしかった。

 この呼び方を今日一日はしなきゃダメなのかと思うと、顔がまた赤くなってきた。

「話を戻して、今日は『イベント事』の日になる理由を話してもいい?」

「うん、いいけど、今回はいつもみたいに深い理由がある? ただ付き合ったという日なだけじゃないのかな?」

 こんな風に言いながら、これまで彼女の説明を聞いてきて、僕は彼女の説明がどんどん好きになってきていた。

「そんなことないよ! すごく特別なことだよ。それは、これまでは何の関係性もなかった他人の二人が、初めて関係性を結んだ日だから。そこから、どんどん関係性は深まっていった。人が関係性を結ぶのって意外と難しい。でも、本当に難しいのは、その関係を持続させることだよ。今日この『イベント事』の日を祝えるということは、今でもその関係性が続いている、または発展しているということで、私はそこを『私たちすごいよね』と互いにほめあいたいのだよ」

「なるほど、確かに持続させるのは難しいよね。またそれをほめるというのは素敵な発想だね」

「ありがとう。ダーリンとの日々は、私にとってはいつでもスペシャルな日なのだけどね」

 彼女はまた僕をきゅんとさせた。

 もしかして、僕をきゅんとさせたいから『イベント事』の日を突然やり始めたのだろうか。

「そんなに日々を大切にしてくれて本当に嬉しいよ」

「ダーリンのことが大好きなんだから、当たり前でしょ」

 「当たり前」とはっきり言える彼女がすごいなあと僕は感心した。

「ハニー、ちょっと後ろ向いてくれる?」

「えっ、どうしたの? ダーリン??」

「はい、よい子はすぐに後ろを向いてねー」

、僕は彼女の体をくるっと回した。

 そして、手に持っていた紙袋の中から用意していたペンダントを、彼女につけた。

「えっ、これって!?」

「うん、これが今回の僕のきゅんとさせる行動だよ」

「ダーリンも腕を上げたね」と彼女は大袈裟にほめてくれた。

 ペンダントを嬉しそうに見つめながら、彼女はまた口を動かした。

「これって私でも知ってるぐらいの有名なブランドのものだし、ダイヤモンドもついてるし、本当にもらっていいの??」

 僕が前々から小遣いの一部を何かあった時のためと、貯めておいたお金で買ったものだ。

 今までは漠然と貯めてるだけで、何かに使う予定はなかった。

 でも、数日前にこれをきゅんとさせる行動のために使おうと閃いた。

 そもそも僕がこうやって小遣いをもらえてるのは、彼女が家計をうまく回してくれてるおかげなのだから。

 結婚してから、家計のやりくりは彼女に任せることにした。それが、当たり前だと感じていた。

 初めて小遣いをもらった時、僕は「使うものもないから、いらないよ」と言った。

 でも彼女が、「部下ができた時に、お金をもっていないと格好がつかないでしょ」と強引にもたせてくれた。

「僕がハニーにあげたいと思ったのだから、いいのだよ。そして、僕が今回プレゼントをあげるには、ちゃんと理由があるよ。聞いてくれる?」

 僕も彼女の説明したがるところがうつってきたのだろうか。

 でも、それも全然悪い気はしないし、むしろ楽しい気分になってきた。

「うんうん、聞かせて」

「まだハニーは若いから、ブランドものとかあまりつけないかもしれない。でも、今後素敵な大人の女性になっていくから、その時アクセサリーをつける際、似合うものを選んだ。まあ、大人なハニーの姿を今すぐ見たいっていうのもあるのだけどね」

「そんなことまで考えてくれたなんて、本当に愛されてるって感じるよ」

「喜んでもらえて、ホッとしたよ」

 彼女の一際喜んでいる顔を見て、僕はこの顔を見るためならどんなことでも頑張れると思った。

 僕の『幸せ』って、もしかしたら彼女が毎日幸せな顔をしてくれることかもしれない。

「実は、私からもサプライズがあります! ちょっと待っててね」

 そう言って彼女は、またどこかへ走っていった。

 そして、「今回は、サプライズって堂々と言うのね」と小さな声で笑ってしまった。

 そもそも何でいつも走っていくのだろう。彼女のことだから、「早く渡したいから」だけじゃないと気がする。

 僕は思ったら即行動してみるのもたまにはいいと思い、彼女を呼び止めた。

「待つのはいいけど、その前に聞かせてほしいことが一つあるけどいい?」

「ん、なになに??」

 彼女は嫌そうな顔をせず、僕の方を向いてくれた。

「なんでハニーはいつも何かを持ってくる時、走っていくの?」

「それは、一秒でもダーリンのそばを離れたくないからだよ。じゃあ、今度こそ少しだけ待っててね」

 彼女はそう言うと、いつもより早足で走っていった。

 僕は、突然の愛にあふれた言葉に、ドキドキが止まらなかった。

 なんてない日常にも、彼女の愛は隠れていたようだ。

 彼女はワンホールのチョコケーキを持ってきた。

 ケーキの真ん中には、『瑞貴&花音』のチョコプレートまでついている。

「まさか、これって全部ハニーの手作り?」

「そうだよー。驚いた??」

 まさかスイーツも作ることができるのかと、僕はまた彼女の料理スキルに驚いた。

 ケーキの作り方を知らない僕が見ても、完成度がすごく高い。

 僕がきゅんとさせる予定なのに、また僕の方がきゅんとさせられている。

 いつも予想を超えてくると彼女は僕のことをほめてくれるけど、彼女の方が断然予想を超えてすごいことをしてくれている。

「ありがとう。僕もすごく嬉しい」

 なぜか涙がぽろっと出てきた。

 あれ、何で涙が出るのだろう。

「思い出話でもしながら、晩ごはんの後に食べようね」

 彼女はそう言いながら、僕の頭をよしよしとさすってくれた。

 ちゃかすことなく、優しくしてくれたことがあることを僕に思い出させたのだった。



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