梅雨入りはまだしていないけど、雨の日がだいぶ増えてきた。
夜の雨は少し静けさがあって僕は好きだ。
僕は今傘を差しながら、駅から家に向かっている。
会社から家までは電車で一駅とかなり近い。僕は単純に近い方が通いやすいし、家での時間も長くとれると思い、会社の近くに家を建てた。
たまたまだけど、そのおかげで今は彼女と過ごす時間をたくさんとれている。
彼女のことを知るためには、時間が必要だとわかった。
僕は中小企業で、経理の仕事をしている。経理は数字を扱う仕事だ。だから、一つでも数字が合わないと、ダメなシビアな仕事だ。
それなのに、僕は彼女との大切な日には無頓着で、ほとん気にかけていなかった。
彼女に申し訳ない気持ちが日に日に大きくなってくる。
今からでもまだ変えられることがあるなら、僕は積極的に変えていきたい。
今彼女とのことでわかっていることは、考え方がすごく似ているということだ。
彼女がいつも『イベント事』の日に力説することは、強引なところもあるけど、僕も納得がいく時がほとんどだから。
他にも、笑いの感性も似ている。
そんなことを考えているうちに、家に着いた。
「ただいま」
「おかえり、ダーリン」
「ダーリン!?」
「そんなに驚いてどうしたの? いつもそう呼んでるじゃない?」
彼女はおかしなことなんて何もない、むしろ僕の方がおかしいという目でじっと見てくる。
いやいや、僕は間違えてないからね! と僕は負けじと見つめ返した。
「うん、あっ、そうだったね」
僕は諦める覚悟を少しずつもってきていた。
「もぅ。ダーリンは、忘れっぽいんだから」
彼女は体をクネクネさせていた。
「私、運動音痴だし、身体も固いのよ」と付き合っていた頃に言っていた。
「いや、身体柔らかいじゃん」とツッコみたくなるぐらい、見事な身体の動きだ。
彼女が今日こんなに甘えてくる理由は、さすがの鈍い僕でもわかっている。
今日六月四日は、僕たちの付き合った記念日だ。
「ダーリンならもうわかってると思うけど、今日は『イベント事』の日だよ」
「わかっているよ、花音ちゃん。今日は僕たちが付き合った記念日だよね」
「ん? 『花音ちゃん』じゃないでしょ? ちゃんといつもの呼び方で呼んでよ」
ダーリンの相方といえば、アレしかない。
今回の甘え方は、僕も巻き添いをくらう系なのね。
でも、この突然『きゅんとさせて』と言い出した理由は、きっと壮大な理由があるんだよね? そうであると今は信じたい。
そう思わないと僕は恥ずかしくてとてもじゃないけど、求められている言葉を言えないから。
大きく深呼吸をし、覚悟を決めた。
「あっ、ごめんごめん。間違えたよ。『ハニー』だったね」
「ダーリンは、うっかりさんなんだから」
今時『うっかりさん』って言い方をする二十代の子はいるのだろうか。
覚悟を決めても、恥ずかしいものはやっぱり恥ずかしかった。
この呼び方を今日一日はしなきゃダメなのかと思うと、顔がまた赤くなってきた。
「話を戻して、今日は『イベント事』の日になる理由を話してもいい?」
「うん、いいけど、今回はいつもみたいに深い理由がある? ただ付き合ったという日なだけじゃないのかな?」
こんな風に言いながら、これまで彼女の説明を聞いてきて、僕は彼女の説明がどんどん好きになってきていた。
「そんなことないよ! すごく特別なことだよ。それは、これまでは何の関係性もなかった他人の二人が、初めて関係性を結んだ日だから。そこから、どんどん関係性は深まっていった。人が関係性を結ぶのって意外と難しい。でも、本当に難しいのは、その関係を持続させることだよ。今日この『イベント事』の日を祝えるということは、今でもその関係性が続いている、または発展しているということで、私はそこを『私たちすごいよね』と互いにほめあいたいのだよ」
「なるほど、確かに持続させるのは難しいよね。またそれをほめるというのは素敵な発想だね」
「ありがとう。ダーリンとの日々は、私にとってはいつでもスペシャルな日なのだけどね」
彼女はまた僕をきゅんとさせた。
もしかして、僕をきゅんとさせたいから『イベント事』の日を突然やり始めたのだろうか。
「そんなに日々を大切にしてくれて本当に嬉しいよ」
「ダーリンのことが大好きなんだから、当たり前でしょ」
「当たり前」とはっきり言える彼女がすごいなあと僕は感心した。
「ハニー、ちょっと後ろ向いてくれる?」
「えっ、どうしたの? ダーリン??」
「はい、よい子はすぐに後ろを向いてねー」
、僕は彼女の体をくるっと回した。
そして、手に持っていた紙袋の中から用意していたペンダントを、彼女につけた。
「えっ、これって!?」
「うん、これが今回の僕のきゅんとさせる行動だよ」
「ダーリンも腕を上げたね」と彼女は大袈裟にほめてくれた。
ペンダントを嬉しそうに見つめながら、彼女はまた口を動かした。
「これって私でも知ってるぐらいの有名なブランドのものだし、ダイヤモンドもついてるし、本当にもらっていいの??」
僕が前々から小遣いの一部を何かあった時のためと、貯めておいたお金で買ったものだ。
今までは漠然と貯めてるだけで、何かに使う予定はなかった。
でも、数日前にこれをきゅんとさせる行動のために使おうと閃いた。
そもそも僕がこうやって小遣いをもらえてるのは、彼女が家計をうまく回してくれてるおかげなのだから。
結婚してから、家計のやりくりは彼女に任せることにした。それが、当たり前だと感じていた。
初めて小遣いをもらった時、僕は「使うものもないから、いらないよ」と言った。
でも彼女が、「部下ができた時に、お金をもっていないと格好がつかないでしょ」と強引にもたせてくれた。
「僕がハニーにあげたいと思ったのだから、いいのだよ。そして、僕が今回プレゼントをあげるには、ちゃんと理由があるよ。聞いてくれる?」
僕も彼女の説明したがるところがうつってきたのだろうか。
でも、それも全然悪い気はしないし、むしろ楽しい気分になってきた。
「うんうん、聞かせて」
「まだハニーは若いから、ブランドものとかあまりつけないかもしれない。でも、今後素敵な大人の女性になっていくから、その時アクセサリーをつける際、似合うものを選んだ。まあ、大人なハニーの姿を今すぐ見たいっていうのもあるのだけどね」
「そんなことまで考えてくれたなんて、本当に愛されてるって感じるよ」
「喜んでもらえて、ホッとしたよ」
彼女の一際喜んでいる顔を見て、僕はこの顔を見るためならどんなことでも頑張れると思った。
僕の『幸せ』って、もしかしたら彼女が毎日幸せな顔をしてくれることかもしれない。
「実は、私からもサプライズがあります! ちょっと待っててね」
そう言って彼女は、またどこかへ走っていった。
そして、「今回は、サプライズって堂々と言うのね」と小さな声で笑ってしまった。
そもそも何でいつも走っていくのだろう。彼女のことだから、「早く渡したいから」だけじゃないと気がする。
僕は思ったら即行動してみるのもたまにはいいと思い、彼女を呼び止めた。
「待つのはいいけど、その前に聞かせてほしいことが一つあるけどいい?」
「ん、なになに??」
彼女は嫌そうな顔をせず、僕の方を向いてくれた。
「なんでハニーはいつも何かを持ってくる時、走っていくの?」
「それは、一秒でもダーリンのそばを離れたくないからだよ。じゃあ、今度こそ少しだけ待っててね」
彼女はそう言うと、いつもより早足で走っていった。
僕は、突然の愛にあふれた言葉に、ドキドキが止まらなかった。
なんてない日常にも、彼女の愛は隠れていたようだ。
彼女はワンホールのチョコケーキを持ってきた。
ケーキの真ん中には、『瑞貴&花音』のチョコプレートまでついている。
「まさか、これって全部ハニーの手作り?」
「そうだよー。驚いた??」
まさかスイーツも作ることができるのかと、僕はまた彼女の料理スキルに驚いた。
ケーキの作り方を知らない僕が見ても、完成度がすごく高い。
僕がきゅんとさせる予定なのに、また僕の方がきゅんとさせられている。
いつも予想を超えてくると彼女は僕のことをほめてくれるけど、彼女の方が断然予想を超えてすごいことをしてくれている。
「ありがとう。僕もすごく嬉しい」
なぜか涙がぽろっと出てきた。
あれ、何で涙が出るのだろう。
「思い出話でもしながら、晩ごはんの後に食べようね」
彼女はそう言いながら、僕の頭をよしよしとさすってくれた。
ちゃかすことなく、優しくしてくれたことがあることを僕に思い出させたのだった。