さすがに高村も腕を振り払う。つまんないの、と二人はぱっ、と手を離した。
「でも、紹介もされてない割には、高村先生、もうファン居るんですよー」
「そうそう、購買での大声とか、特攻とか、有名になってますし」
「あ、あれは」
必要に応じてそうしただけ、なのだが…… そんなところで「ファン」がつくとは彼は思ってもみなかった。
そう言えば。
「ファンと言えば、六年の遠野みづきさんって、ファンが多いんだって?」
「えーっ、何で先生、遠野サマのことを知ってるんですかあ?」
思いがけない程の大声を立てて、元部は高村の前に回り込んだ。
「遠野『サマ』かい?」
高村は何となく、口を歪めた。
「だってあのひとに、それ以外のどんな呼び方ができましょう?」
うっとりと元部は目をつぶり、両手を前で組み合わせた。思わず高村は退いてしまう自分を感じる。
「去年の文化祭、演劇部の恒例の公演で、遠野サマがお演りになった『千夜一夜物語』の残酷な王様の美しかったこと! 撮ってあれば、高村先生にも見せて差し上げたいわ……」
ううむ、と高村は内心うなった。
何だか内容はよく判らないが、遠野みづきという女生徒は、どうも「お姫様」ではなく、「王様」役で、しかもそれが「美しかった」、ということは高村にも理解できた。となると、彼女の雰囲気も予想ができる。
「遠慮するよ。じゃあやっぱり『ファン』、多いんだ?」
「そりゃあ、もう!」
元部は両手の拳を力一杯握りしめる。
「でも元部、あんたは例の『授業ボイコット』には参加しないじゃない。ファンとして、それでいい訳?」
やや嫌味な口調で早瀬は突っ込む。すると元部は、口元をにっ、と両方上げて、ちちち、と人差し指を振った。
「そこをあえてしないのが、あたしのファン道というものよ」
「あんたのファン道って、時々あたし判らなくなるわよ」
「ファンというものは、遠くにありて思うもの! それがあたしのモットーなんですよ。ねえ高村先生、そう思いません?」
「うーん…… 変質者にはなるなよ」
高村は苦笑しながらそう言った。「ファン道」と言われても、彼の中では、それが「電柱の陰からそっと見守るストーカー」とどう違うんだ、という気持ちもあった。
だが彼の嫌味に気付かないのだろう、彼女達は平然と会話を続ける。
「まあでも、遠野サマがあんなことする気持ちも判るけどね」
「気持ち?」
「先生あの時、川原が南雲さんに聞いてたでしょ? 七組の日名さんが退学したの、どーのって」
早瀬は高村の顔をのぞきこむ様にして問いかける。
「ああ…… そう言えば」
そういうことを聞いていたような気もする。
「日名さんって?」
「あのひと、去年の劇で、シェヘラザードだったんですよね」
「シェヘラ……?」
高村は眉を寄せた。
「ヒロインです。可愛い子なんで、男装した遠野さんと組むと、すっごく綺麗なんですよ」
へえ、と高村はとりあえず想像を試みる。しかし上手くいかない。早瀬は構わずに続ける。
「あたし普段、こいつの様に、先輩のこと、遠野サマ遠野サマ、って騒いだりはしないけど、あの時は、あの二人見て、ああすごく綺麗、って思いましたもん」
「実際、日名と遠野サマ、凄い仲良しで、それこそ百合じゃないか、って噂もあるんですよねー。でもあたし達、あんな綺麗な二人組ならいいか、と思ってましたからねー」
げげ、と高村は口元をゆがめた。
「あー、でも日名って、山東先輩とも噂無かったっけ?」
「それを言うなら、遠野サマと山東会長とも結構言われてた時期あるじゃない」
だんだん二人の会話が自分を差し置いて、訳の判らないものになってきたのに高村は気付く。このままではいかん、と彼は口を挟んだ。
「で、つまり、遠野さんは、日名さんの退学に怒って、ボイコットしている訳?」
「えーと、正確には違うんですよ」
元部はぴ、と目の高さに指を立て、真剣な表情になった。
「じゃ、何?」
そこなんですよ、と声と姿勢を低くする。
「遠野サマは、日名が『何で』突然退学したのか、その理由を学校が教えてくれないから、そのことに抗議してボイコットを続けてらっしゃるんです」
「ああ……」
ようやく話が見えた、と高村は思った。
*
「それじゃ先生、さよならー」
「明日またー」
おぅ、と高村は手を振る。
彼女達の姿が駅の改札をくぐると、彼の背中にはどっと疲れが押し寄せて来た。同時に、胃も空腹を訴えていたので、彼は近くに見えた牛丼屋へと足を伸ばすことにした。
自炊とは縁が無い彼にとって、二十四時間営業の、しかも格安のチェーン店は、そこにあるだけでほっとするものだった。
賑やかな店内。馴染んだ匂い。
「へいっ、牛丼大盛り、お待たせ」
目の前に置かれるほかほかの牛丼。ぱん、と割り箸を開くと、高村は即座に、その濃いめの味つけに舌鼓を鳴らした。ああ、疲れていたんだなあ、としみじみ彼は思う。
さて明日の昼はどうしよう。彼はふと考える。
今日食べたパンも、中等の頃を思い出し、決して悪くは無いのだが、やはりそれだけでは栄養が偏るし、だいたい甘すぎる。朝、行く途中で弁当やパンを購入していくのが無難だろう。
そしてまた、禁止されていようが、やっぱりあの屋上は食事場所として良い所だ、と彼は思う。それに、何となくあの村雨という女生徒のことが気になっていた。
中等学校の頃、彼の周囲に居たのは、皆、先程の早瀬や元部の様に、元気で物怖じしない少女ばかりだった。
小学校の頃までは、確かに居た気がする。例えば、いつも仲間外れになって、一人で図書室で本を読んでいる子。給食がどうしても食べられなくて泣いている子。いつも何かにおびえていて、フォークダンスの時に手を握ろうとすると遠慮している様な子。
いつの間にか、そんな子達の姿は彼の前から居なくなっていた。考えることもしなくなっていた。
村雨の態度は、そんな小学校時代の知り合いの姿を思い出させた。
彼らは一体、何処に行ったのだろう。皆が皆、中等で変わってしまったのだろうか。
彼ははっとして、頭を大きく振った。いかんいかん。
ここのところ本当に、考えが暗い方へ暗い方へ、と向かってしまう。落ち着こう、と彼は茶をすする。
そしてふと、今日発売の雑誌だの、録り忘れたTVドラマのことだの、とりとめも無いことを考えながら、彼は視線をウインドウの外へふっと飛ばした。
日が暮れるのが遅くなってきてはいたが、それでも既に、辺りは真っ暗だ。
と、ふと制服の少女が横切る姿が彼の目に映った。
ショートカットの背の高い、綺麗な少女だった。
そしてその横には、その彼女より更に背の高い、体格の良い男が居た。二人とも、何やら力を込めて話しながら、どんどんスピードを上げて歩いている。
思わず目を奪われ、高村は彼らが視界から消えるまで、ずっとそれを眺めていた。