「な、何でしょう」
「ええと、あ、村雨さん」
「は、は、はい」
「ええと…… オレ五年に、教育実習で来てるんだけど、司書の先生から、貸出のことは君に聞いて、って言われて」
「か、貸出ですね、はい」
何を焦っているのだろう、と高村はその態度に驚く。
「ええと、……あ、でもこれ『禁帯出』ですね…… ええと……」
彼女の視線は、本と高村の間を忙しなく往復する。
「あ、高村だよ」
「高村せんせい。はい。ああ――― どうしましょう」
ばたん、と彼女は司書室の扉を大きく開ける。禁帯出の本の貸し出しはどうしましょう、と泣きそうな声で問いかけているのが高村の耳に飛び込んでくる。
「あーあ、またかあ……」
後ろで、五年五組の女生徒が本を玩びながらつぶやいていた。
「また?」
「あ、高村せんせーだぁ。そぉ、また」
ねー、と更に後ろに居た女生徒と顔を見合わせる。
「そぉ。いっつもあのひとそうだよ」
「きゃ!」
声と共に、飛び出してきた村雨の姿がカウンターから消えた。何かが崩れる音と共に、痛ぁ、という声が下から聞こえる。
「お、おい、大丈夫かよ?」
高村は思わずカウンターの中をのぞき込んでいた。するとそこには、転がった村雨が必死で立ち上がろうとしていた。
「だ、大丈夫です…… な、慣れてます~」
良く見ると、床は未整理の本でごちゃごちゃと散らかっていた。どうやら、つまづいたらしい。
「ええと、すみません、あの、この本の手続きは」
置かれ直した本がじっとりと濡れていることに高村は驚く。良く見ると、村雨の手がびっしょりと汗をかいていたのだ。
やがて彼は、次第に背後の気配が増えてくるのに気付いた。自分一人にかまけているうちに、貸出希望の生徒が列をなしてきたのだ。昼休みの終わりも迫ってきていた。
「ああもうっ! また先輩!」
不意にぱたぱた、と声と共に、列の中から一人の女生徒が飛び出して来た。そしてカウンターの中にするりと入り込み、村雨を横に押しのける。
「先輩は、この先生の分だけ、やっていて下さい。あたし、この後ろを担当します。お願いします」
言葉は丁寧だが、態度はぞんざいだった。
「あ、……はい、ごめんなさい」
ぺこん、と村雨は後輩の委員に頭を下げた。
「じゃ、すみません、高村先生、こっちにちょっと……」
入り口に近い方へ高村は促された。ちら、と見ると、後輩の委員はてきぱきと貸出者の処理をこなしていた。
「どうもすみません…… あたし、いつもこうで」
「……いや別に、いいよ。オレもそんな、急いでないし……」
「だけど先生、もう次の授業……」
え、と慌てて時計を見る。いけね、と彼は大きく頭を振った。どうやら自分まで、この村雨のテンポに巻き込まれそうだった。
「あ、垣内先輩、お久しぶりです!」
その時、後輩委員の声が、急に弾んだものになった。
「あれ、今日は君が当番だった?」
低い声が問いかける。先輩。六年か。高村は思う。
「今日はこっちの村雨先輩です。あたしは助っ人!」
「ああ……」
ちら、と垣内と呼ばれた男子生徒は、村雨と高村の両方を交互に見て、微かに笑った。
「先輩がぁ、またぐずぐずしてるからあ」
「いいじゃない。その分、君等後輩が、しっかりしているんだから」
言うなあ、と高村は思った。そうですね、と後輩委員はその言葉に気を良くしている。それに声もいい。深いバリトンだ。背も高いし、肩幅も結構ある。やせぎすな自分よりずっといい身体だった。
なるほど、人気者の先輩ってことか。高村は納得する。
「村雨さんも、がんばってね」
「あ…… ごめんなさい」
ぺこん、と村雨は出て行く垣内に頭を下げた。その様子を見て、高村は軽く眉を寄せる。
「いつも、そうなの?」
「え?」
「いや…… 村雨さん、さっきから何度も何度も、頭下げてるから」
「あ、だって…… あたし色々、すぐに皆に二度手間三度手間とか掛けさせてしまうから……」
「じゃ、なくてさ」
ううん、と高村は再び眉を寄せた。
何と言ったらいいんだろう。彼は自分のボキャブラリイの無さに呆れるだけだった。
「だから、頭を下げるのは」
キーン・コーン―――
チャイムの音が言葉を遮った。
「あ、時間です」
村雨は何気なく口にする。まずい、と高村は本を抱えて図書室を飛び出した。
「また今度!」
思わず彼は、そう叫んでいた。
また今度。
彼女には、きっとまた会う様な気がしていた。
「はあ……」
部屋の電気を点け、スーツの上着を放り出した瞬間、高村は大きくため息をついた。
そのまま座卓の前に座り込み、ミニコンポのスイッチを入れる。古典的パンクを模したバンドの音が、部屋中に流れ出す。
イカサマな、切れた様な音が好きで、彼は大学の受験勉強の頃も、よくそのディスクを繰り返し流していた。
座卓の上には新聞と、菓子パン半分が置かれたままだった。
今朝読む暇の無かった新聞を床に放り出し、菓子パンを口に放り込む。かさかさに乾いているそれに顔をしかめ、彼はキッチンへミルクを補給に立った。
密度の高い、充実した一日だった気がする。だがこれが二週間も続くと思うと、ややうんざりする。
鞄の中から、本やノート、教頭から配られた日程表のコピーなどを取り出し、座卓の上に広げる。これから改めて腹ごしらえをしたら、取り組まなくてはならない諸々。
日程表には、二週間の予定がぎっしりと記されている。
「ん?」
ふとその一点に、彼の視線が止まる。
「第一日目」の予定の最初に、「朝礼」という文字がある。
「やっぱり予定にはあったんだよなあ」
だけど結局、朝礼は無かった。その結果、校内のあちこちで、彼を知ってる者、知らない者がまちまちだった。
そう言えば、どうして朝礼が無かったのだろう? 事務員も南雲も、自分のせいではない、と言っていたが。
まあ自分のせいじゃないなら、いいか。
彼はそう思いながら、放り出した上着と、クローゼットに並ぶ柄シャツを眺めた。
……そう言えば、まともに履いて行けるズボンなんてあっただろうか?