「だーーーーっ!!」
強烈な声が、廊下に響き渡った。
何ごとか、とばかりに事務室の小窓が開けられる。
男の声だった。生徒の誰かだろうか。それとも。だが見渡しても、誰の姿も無い。
いたずらだろうか、と閉められようとする。
「ちょ、ちょっと待って」
小窓を止めようとした手に、事務員は思わず手を止めた。
下から頭が、身体が、ゆっくりと上がってくる。青年だった。それも、やや大きめの紺のスーツを着た。
何処か打ったらしく、痛そうに片目を細めている。だがそれでも何とか、顔を上げた時には笑顔を作っていた。
「す、すいません、ちょっとあの箱に、けつまづいちゃって。何入ってるんですか、ずいぶんがっしりして」
青年が指した先には、大きな黒い箱があった。上には「冷蔵指定」のラベルが添付されている。
「ああ、あれ頼まれたの。何でしょうねえ…… 朝一番で校長から、宅配屋に集荷に来てもらうようにって…… えー…… と、すみません、当校に、何のご用ですか?」
彼女は改めて青年に問いかける。
「え? あ、あの、オレ、あ、すいません、時間、ずいぶん遅れたから、朝礼、もう、終わりました?」
「朝礼?」
彼女は首をかしげた。
「いえ、今日は中止になったけど」
「うーん…… オレのせいかなあ……」
「あなたの? ってあなたは?」
「あ、何度もどうもすいません」
ひょい、と彼は頭を上げ、姿勢を正す。
「オレ、今日から二週間、この学校で教育実習をさせていただくこととなりました、高村と言います!」
「教育実習…… ああ!」
彼女はぽん、と手を叩いた。
「そういえば、今日からだったわね。ねえ、そうでしょう?」
奥の別の事務員に、彼女は問いかけた。ええそうです、と高村の耳にも声が飛び込んできた。
「そうそう、そうだったわ。あー…… でも、朝礼が無いのはあなたのせいじゃあないと思うけど」
「へ?」
彼は眉を大げさに曲げた。
「だって、今の今まであなたが来るとか来ないとか、こっちには全く連絡が無かったもの。忘れていたわ、ごめんなさい」
曲げた眉が、更に間にシワを作る。
「ま、とにかくすぐに、職員室の方へお行きなさいな。ちょうど、この上よ」
彼女は小窓から天井を指した。
「上」
「そこを真っ直ぐ行くと、左に階段があるから。そこを上がって、右側の突き当たり」
「判りました! ありがとう!」
「あああああ、ちょっと待って! スリッパくらい履いて行って!」
上がって右、上がって右……
確かに突き当たりに、職員室はあった。高村はその前で思わずぐっ、と生唾を呑む。二重になった扉はぴったりと閉ざされ、遅れた彼を弾き返しているかの様だった。
しかしここは一発気合いだ。自分に言い聞かせる。一度大きく深呼吸をすると、高村はがらり、と扉を開けた。
途端、空気がざわり、と動いた。中の教師達の視線が一斉に、戸口の彼に集中する。
「誰ですか、あなた」
張りのある、真っ直ぐな姿勢の女性が問いかける。声には、明らかに非難の色が含まれていた。
高村はその声に一瞬気圧される。
「あ、すみません、オレ、今日から教育実習に参加させていただくことになっている、高村といいます」
「高村?」
訝しげな声で彼女はつぶやき、二秒後、ああ、とうなづいた。
「ずいぶんと、遅かった様ですね」
「どうも、すみません!」
彼はその時とばかりに、声を張り上げた。とにかく遅れた事に関しては、自分が悪い、悪いのだ! そんな時には、もう平謝りに徹するに限る!
自分に言い聞かせながら、彼は次の雷に対する心の準備をする。
だが。
「まあ、いいでしょう」
女性の言葉に、彼は思わず目と口をぽかんと開けた。
「どうしました。起きてしまったことは仕方ないでしょう」
「は、はい」
「ただ何の理由であれ、遅れると判っていたなら、連絡の一つは欲しかった所です。以後気をつけて下さい。あなたは実習とは言え、二週間、この西区中等学校後期部の教師ですから!」
「はい」
「声が小さい!」
「は、はい!」
近くに居た茶髪の教師が肩をすくめた。今度は、大きすぎたのではないか、と彼は思った。
「
「はい」
一人の女教師が立ち上がった。
「今回の実習の担当は、あなたでしたね」
「はい。会議終了後、直ちに高村先生を私のクラスに案内いたします」
高村「先生」。いきなりのその呼称に彼は面食らった。
先輩から聞いてはいた。行ったらすぐにそう呼ばれる。そんなことでいちいちびっくりしていたらやっていけないぞ、と。
「あなたに任せます。高村先生、あなたは二週間、南雲先生について実習を行って下さい。判りましたか?」
はい、と今度は初めから大きな声で、彼は答えた。
「と言う訳で、よろしくね」
南雲は出席簿を手に高村に近づくと、左手を差し出した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「私の担当は化学なの。だから今回、あなたの担当に選ばれたらしいわ」
「化学担当の方は、南雲先生だけなんですか?」
「いいえ、もう一人いらっしゃるけど。森岡先生」
「こちらには」
「ああ、もう姿が見えない。化学準備室の方かしら。私は五年の化学を担当しているの。森岡先生は六年の方。だから今回は私に白羽の矢が立ったようね」
「五年」
「ええ。それと、私の担任しているクラスは五年五組。そう、こっちのHRの方も経験してもらいましょうか」
ふふ、と彼女は笑う。
化粧気の無い顔だったが、白衣にショートカットのその姿には良く似合っている、と高村は思った。
「しかし高村先生? ずいぶんとでかい声だねえ」
先ほど彼の大声に肩をすくめた茶髪の教師が、くるりと椅子を回した。プラチナ色の六角形の眼鏡のフレームが、きらりと光った。
「あ…… すみません、そんなオレ、でかいですか? え…と」
「島村だよ。俺は五年の現代国語を担当してる。まあ時々顔を合わすことになるけど、その時にはもう少し、声のヴォリューム下げてくれる?」
島村は、そう言い捨てると、にやりと笑った。机の上には、古今東西の文学の本が山と積まれている。
「高村先生!」
「は、はい!」
「HRが終わったら、一度職員室に戻って来て下さい。今後の日程についてお話いたします」
先程の女性だった。どなたですか、と高村は南雲に小声で訊ねた。教頭先生よ、と彼女は答えた。教頭!
はい、と高村は再び大きな声で返事をした。