*****
ヒトを殺めたことからなんらかのかたちで警察に咎められるだろうと考えていたのだが、それらしき人物は訪ねてこなかった。べつに宿泊先を隠しているわけではないし、ゆえにいつでも捕まえにくることができるはずであり――とにかく「っぽいニンゲン」は現れなかったのである。
丸いテーブルの上で、オミがミックスナッツをつついている。「おいしいんだ、とてもおいしいんだっ」と語尾上げを交えてがっつく。今日もえらくご機嫌だ。
「それにしてもだよ、デモン、ヤクザの幹部を
「ニンゲン誰であれ、慎重さは美徳なんだよ。軽々に挑んでこないあたりについて、わたしはむしろ感心している」
「次は誰が来るのかなぁ」
「だから、そのへん楽しみに待っていると言った」
部屋の戸がノックされた。
ああ、ようやく来たか。
直感的に、そう察した。
「デモン、慎重にね」
「クソガラスが、黙ってろ」
酷いことを述べるとデモンはガウンの胸元も露わなまま、特に身構えることもせず、戸を開けた。これまた四十絡みと言っていいヤクザ然としたオールバックの男が立っていた。にやりと笑むと、「オゥ、嬢ちゃん、ちぃとツラぁ貸せや」などとわかりやすい乱暴なヤクザ言葉を並べ立てた。
「ひょっとして、サイラス・バハートのお仲間かね?」
「ああ、奴さんは兄弟だ。賢い奴じゃあなかったがな」
「わたしを殺すと?」
「そうだよ、親父の命令だ」
「親父、すなわち組長か」
「そういうこったよ」
すぐに殺せるように思えたのだが、軽い調子でぶん殴ろうとするとかわされてしまった。反撃と言わんばかりに顎先にアッパーカット――の寸止め。どうやらできる男らしい。「待っていろ。着替えてくる。それくらいの時間はもらっていいだろう?」と訊ねると、「しゃあねえから待っててやるよ、クソ女ぁ」などと汚い口を叩かれた。ふざけた調子ながらも相当腹が立っているらしいことが窺える。やくざ者の意地として、許せない事実もあるということだろう。
「まともにぶつかる気かい?」と、オミが声をかけてきた。
デモンは今日も真っ黒な着衣に身を包み、ディンプルも露わに黒いネクタイまで締めると、漆黒の瞳で姿見を覗き込んだ。邪な笑みを浮かべる自分がいる。いきなりもいきなりだ。彼女は振り向くなり、部屋の戸と壁を目掛けて渦巻く炎を放ったのである。不意打ちだ。くだんのヤクザをこんがり焼いてやるべく投じたのだ。ぎゃああぁぁという悲鳴。
どうあれ部下を焼き払うことには成功した。ひとまずその成果だけで良しとしようと考える。主賓殿に名を訊いた。「ハビ・タットだよ、嬢ちゃん」と返してきた。
「表でやろう、ハビ殿。ここは狭すぎる」
「ああ、ついてこい」
階段を下り、宿から出たところで、デモンは卑怯にも後方からハビに斬撃の魔法を放った。なんとまあ、ハビは左方にさっと動いてよけたのである。背に目がついているようだった。前方へと飛び、距離をとってみせる。やる。こいつはほんとうに楽しめそうだ。
「たかがヤクザ者のくせに、器用なものだな」
「ぶち殺してやるぜぇ、嬢ちゃんよぅ。舐めてんじゃねぇっつー話だよ。ところで、だ」
「なんだ? やっぱり命乞いか?」
「ちげぇよ。提案だ。魔法も得物もいっさいナシにしねーか?」
デモンはきょとんとなったのち、「はっ」と笑った。
「女相手に力任せの肉弾戦かね。ちょっとみっともないぞ」
「ちげーっつってんだ。やれそうな相手だから、やろうって話なんだよ」
目を宙にひとしきりさまよわせ、「いいぞ」と応えてやった。
面白そうだと感じたからだ。
帯刀をやめ、特に構えることもなく、むしろ両手を広げることで無防備さを晒し、「来いよ、ハビ殿」と煽ってやった。ハビは大いに大笑いしたのち、地を蹴り、突っ込んできた。思いのほかというか、とにかくかなり速かった。腹部に右の膝をもらい、さらに左の頬に右のフックを見舞われた。効いた。たかが、たかがヤクザのくせにメチャクチャ強いではないか。しかも、いい具合に用心深い。すぐさま離れて、またタイミングを計っている。
「これは驚いた。ハビよ、おまえほどのニンゲンが、誰かの下に甘んじているというのか?」
「使うより使わられるほうが得意なんだよ、楽だしな」
「情けないなかぎりだ、うんざりする」
「自分でもそう思うよ」
デモンは初めてファイティングポーズをとった。
「一般的に言えば大した輩なんだろう。ああ、まったくもって、喜ばしいな」
「負けそうだって思ってんなら、魔法、使ったっていいんだぜ?」
「しないさ、喜ばしいと言ったろう?」
殴り合った、真っ向から。女相手だろうが容赦なく向かってくるあたりに、素直な敬意を感じた。ホント、やるではないか。これではいつになく顔が腫れてしまうだろうとはわかっていたのだが、それでもいいと割り切れたわけだ。そのうちデモンが殴り勝って、尻餅をつかせるにまで至った。ハビは「つえぇな」となんだか嬉しそうで、そのとき、デモンもらしくもなく息を切らしていた。ほんとうに強いことの証左と言える。「デモン、だったか。デモン・イーブル……」と言って、ハビはあらためてにぃと笑ったのだった。
「楽しかったぜ。もういいや。自由にしろよ。俺は認めてやる。てめぇのことを」
「あるいは面白半分におまえの組を潰しにかかるかもしれんぞ?」
「そんときゃまたやり合うだけだ」
「それは願ったりなんだが?」
「好きにしろっつったんだ」
妙ちくりんな気色の悪い感覚が冷たさを伴って背筋を滑り落ちた。次の瞬間、ハビの頭部がスイカ割りでもされたように弾け飛んだ。誰かが使用したなんらかの魔法による一撃だとはわかったが――。
ああ、ほんとうに。
いつもいつも、デモン・イーブルを取り巻く環境は、目まぐるしいな。
右方の建物の屋上から黒ずくめの人物が飛び降りてきた。見覚えがある。――思い出した。先日会った、中年手前の男――制服警官ではないか。ヤクザと敵対していたことは当然と言えるが、にしたっていきなり即死にまで追い込むか?
「感謝するよ、デモン・イーブル」
彼に対して名乗ったかなと、頭上にクエスチョンマークを浮かべる。
名乗ったのだろう、名乗ってないのかもしれないが。
「今のところ、感謝しかない。あなたはこの街最大の暴力団組織に喧嘩を売り、しかも次々とお偉方を駆逐してくれている」
「貴様みたいのにありがたがられる覚えはない。わたしは好き勝手に振る舞っているだけだ」
「結果論を、俺は言っている」
「気に食わんな。ぶち殺してやろうか」
「警官殺しは良くないな」
「わたしにその理屈は当てはまらない。というか、おまえはただの警官ではないんだろう?」
前髪を掻き上げながら、警官はおかしそうに「くはは」と笑い。
「シマザキ・ファミリーというんだ、あなたが敵に回した連中は。さんざん、顔に泥を塗られたんだ。彼らはあなたを街から出すつもりもなければ、むしろ積極的に殺しにくるだろう」
「受けて立つまでだよ。前のめりに突っかかってこられたほうが愉快だ。しかし、一つだけ、気に入らないことがある」
「それは?」
「何度も言わせるな。おまえたち警察に力を貸すような格好になってしまうだろう――という話だ」
だからそれは違いないと、警官は否定せず。
「ともあれ、あなたは戦えればそれでいいはずで、だったらそれだけでいいはずだ」
「おまえたちの利益に寄与するつもりはないと言っている」
「それでも、追われる立場である以上は、やっつけるしかない」
「しょうもない。この話はここで終わりだ。おまえ、名は?」
「ただの識別子を答えろと?」
「言え」
「ゲッツ・フォン・ニューネベルク」
たかが一匹の男のくせに大げさな名だなと感じ、デモンは顔も口元も歪めたのだった。
*****
武器――つまらない既存のそれであろうと、鉄砲や弓をはじめとする飛び道具は有効だと言えなくもない。街を歩いている最中にいきなり銃撃に遭ったのだった。背後からの一撃で、自らでなければまともにもらっていたかもしれないと感じた。ゆっくりと振り向く。これまた新たな四十絡みの男が立っていた。
「ライト・ベムといいます。あなたのおかげで、我がシマザキ・ファミリーの若頭補佐は、俺一人になってしまいましたよ、組はもうガタガタだ」
「わたしに喧嘩を売ったのが悪い」と、デモンは言い切った。「おまえが言った通り、おまえのところは傾いているはずだ。だったら、立て直すことに注力したほうがいい」
「ケジメをとるほうが先なんですよ」
くだらんな。
言って、デモンは嘲笑い。
「とはいえそういった愚直さは嫌いではないよ。かかってくるといい」
「殺し合おうと言ってます」
「だったらとっとと来いと言っているんだ」
地を蹴り突っ込んできたライトの一撃はなかなかに鋭かった。首を刈られると咄嗟に悟ったものだから、寸前で抜刀し、受けた。押し込もうとするだけの意志と膂力がある。無論、譲ってやらないが。そう太くない体躯のわりには怪力で、ぐいぐい押し込もうとしてくる。腕力勝負だと頑張ってくれるらしい。そう感じ、遠ざけるべく薙ぐようにして刀を動かした。距離をとったライトである。この男も、またできる。致命傷を受けない位置でうまいこと立ち回っている。――が、つまらない戦いぶりであることは間違いない。互いの一撃を受け合い、鍔迫り合い。戦ううちに相手の動きに慣れてきた。となればもう仕留めるだけだ。ぴょんぴょんと跳ねるようにして一足飛びに接近する。ライトが剣を横薙ぎに動かした。それをスウェーバックでかわし、そして身体を縦にするなり斬りかかった。もはや勝ちの目はないと踏んだのだろう。「好きにするがいい!!」と声を大にしたライト――遠慮なく袈裟斬りにしてやった。ライトはゆっくりと後方に倒れ――デモンは彼のことを見下ろした。
「少し残念だよ、ミスター・ライト。おまえはヤクザっぽくない。わかり合うこともできたのではないかと考える」
「俺も、あなたが殺した先の二人――俺の兄弟も現状には飽いていた。ヤクザの思考なんてそんなものですよ。親父にだって、それほどの価値はない。裏を返せば、俺や兄弟は俺たちの生きたいように生き抜いたということです」
「殊勝なことだな」
「警察には気をつけたほうがいい。この国において、彼らは絶対的だ」
「それがほんとうだとしたら、意外と珍しい話だな」
そういうことがあってもおかしくないし、治安維持の観点で考えるとそうあることが正しい。
まったくもって、ライトはあるべき姿を語っている。
「さようなら。俺はもう逝く、デモン・イーブル」
「ああ。あの世でも達者でな」
ライトはゆっくりと目を閉じた。
殺したかったから殺してやっただけだが、多少ならず、胸の真ん中がちくりと痛んだ。