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頭が重くて目が覚めた。
ニスでも塗ったばかりなのか、真新しい木造りの、てかてかした天井が見下ろしてくる。
いい宿にいるなと、わかった。
真っ先に、ベッドの心地よさが感じられたこともあいまって――。
身体を起こそうかとも考えたが、まだ全身、なんだかダルいので、胸を上下させること――大きく息をつくことだけにとどめた。
ヒトの気配には感づいていた。
二分、三分と経過したところで、上半身を縦にした。
「おはよう」
挨拶を寄こしてくれたのは精悍な顔立ちがなんとも凛々しいブラッド、ブラッド・スクイード卿だった。笑顔であるものの、なんだか冴えない表情だ。「わたしはだいじょうぶだよ。平気だ」とデモンが応えると、明らかな苦笑を浮かべてみせた。「何かあったのか?」と訊く。「なんでもないさ」と返してきたが、そんなわけはないだろう。頭を抱えてすら、みせたのだから。
「言ってみろよ、ブラッド」
「いや、ほんとうに、病み上がりのニンゲンにするような話じゃないんだ」
「だったらおまえの苦悩は誰が取り除いてくれるというんだ?」
――くそっ!!
叫ぶように言うと、相当苛立ったようにして、ブラッドは椅子から立ち上がった。
「だから、どうしたんだ、ブラッド」
「アンタに明かすようなことじゃない」
「それはわかったと言った」
「……くそっ」
リリィがいなくなったんだ。
なるほど。
取り乱すわけだ。
「見当は? つかないのか?」
「じつは、ついてる」
「なら、取り返せばいい」
「そうもいかないから、困っているんだ」
「わかるさ、そんなことくらいは」
わたしはどれくらい眠っていた? デモンはそう訊ねた。「二週間だ」と、ブラッドは答えた。
「そのあいだに衝突は?」
「今まで通りさ。複数回、ある」
「どう思うね?」
「リリィの扱いについて、か?」
「ああ、そうだ」
「彼女は、彼女なら、たぶん……」
デモンは口を結び、眉を寄せると目線を上方――宙に泳がせつつ、「怪我人とあらば、敵味方問わず、治したがるだろうな」と予測を述べた。ブラッドもそう考えているようで――「どうしたらいいかな……?」などと弱気の虫をやんわり寄こす。
「彼女に勝る取引材料はない、ありえない。何を言ったところで、返してはもらえない」
「それがわかっているなら、何が何でも守り抜くべきだったな」
「だからっ、そんなこと――っ!!」
「怒鳴るなよ、ブラッド。わかっている」
「俺が、俺が、交渉の席につければって、せめてそう考えるんだけど……」
「立派な軍人だといっても、おまえはただの少佐殿だ。そうもいかんだろうさ」
どうしたら、いい……?
今にも泣き出しそうな声で、ブラッドは問うてきた。
「最大の利害関係者は誰かね?」
「えっ」
「背広組のトップだ。教えてくれ」
「お、教えたところで、どうしようって――」
「借りは返す。見事、リリィを奪還してご覧に入れよう」
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無理やりにと言っていい力業で、官房の要職にある人物に通してもらった。賢い男に見えた。利口そうなおでこをしているように感じられた。リリィをどう扱うのか、その旨、はっきりと問いただした。預けておいていいわけがないとのことで、タイミングを見計らって取り返すつもりだとの回答だった。「タイミングを見計らって――」のくだりが気に食わなかったので、「それはいつのことなんだ?」と率直に訊ねた。彼女が健在である限り、少なからず、敵兵はゾンビみたいによみがえってくることだろう。彼女がいる限り、双方にとってそれはかけがえのない事実であるわけだ。彼女――リリィ自身はどうありたいのか。そんなこと、問題ではない。本人だって決めかねるに違いない、だったら――だったら必ずブラッドのそばに置いてやりたい。人生の在り方について思い悩むのは万人に言えることで、ならばせめて、思い人の隣で何もかも、決めさせてやるべきだ。
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大仰ながらもせせこましくみみっちぃ立場にあるブラッドの同席は許されるはずもなく、しかしそこはデモン・イーブル、「利口そうなおでこの男」――高官の中でも事務方トップにあたるニンゲンと話をつけ、彼に同行する格好で先方――蛮族とされる西の隣国「ケイロン」に入ることができた。寝技? 使ったとか使わなかったとか。道中、多少の妨害に遭った。さすが野蛮を地で行く連中である。会うことについては話がついているにもかかわらず約束を違え、亡き者にしようとするのだから。怪我が治ったデモンはもうすっかり元気なので、行く手を阻む輩は実力をもって排除した。馬車のキャビンに戻ると、おでこの男は言った。「愚かなニンゲンどもに聖女はふさわしくない」と。正しい物の見方ができる人物らしいことが重ねて知れた。
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蛮族国家だからこその会談の間。壁も天井も金ぴかで、なんとも品がない。蛮族国家×2のくせに、先方の担当者は文明人っぽく振る舞ってみせる。くだらない。自らの非についてはいっさい認めず、恐喝まがいの言い分、「これからも戦争をしよう」といったふうなことをおくびもなく述べてくれた。戦の継続? そんなことはどうだっていい。どうせそんな成り行きは火を見るより明らかで、それはこの先もずっと続くことだ。おでこが言いたいことは、デモンがのたまいたいことはそういうことではない。ただひたすらに、「リリィを返せ」ということだ。
先方の担当者は坊主頭で、その時点でなんだか信用ならない――とか述べると世の坊主頭の諸君に対してはえっらい侮辱にあたるのかもしれないが、中年男性であろうボウズの奴さんは「見返りは?」と短く問うてきた。おでこの男がデモンのほうをちらと見た。デモンは「話にならない」とばかりに広げた両手を上に向けた。すると、「だ、そうですよ、ベルベット・クライン閣下」とおでこは「そちら」に話を振り――。
クライン閣下? そうか、担当者――胡麻塩頭の中年男性、坊主頭の彼は、見た感じのとおり、きちんとした軍人なのか。
「クライン閣下、こちらはひらにリリィ・アップトンを寄越せと申し上げている」デモンは邪に笑う。「返せと、彼女を。でなければ、わたしがじきじきにおまえたちを滅ぼしてやるぞ」
デモンは腕も脚も組み、椅子の上でふんぞり返った。
先方は色めいた様子だが、クライン閣下は眉尻の一つすら動かさず――。
「デモン・イーブルさん、だったか」
「ああ、そうだよ、閣下。あいにく名刺は持ち合わせていないが」
「俺の記憶が確かなら、そういう名前の戦略兵器があったはずだ」
「ああ、その知識は正解だ」
「であれば、敵に回すのはよろしくない。お返ししよう」
彼に物言う、立ち上がってまで文句を垂れ、抗議する輩もいたが――。
「黙れよ、頭でっかちども。これは武人同士の会話、取引なんだよ」
「クライン、きっさまぁぁっ!!」
「どこのどいつとも知れん文官殿よ、こちとらクラインに違いないが――俺はうるさいっつったんだ。そもそも彼女をさらってどうするつもりだったんだ? そこに何かを進展させる材料があるとでも考えたのか? もしそうなら、おまえたちは救うに値しない愚か者だよ。死んじまうといい」
その文官殿は勢いよく立ち上がりはしたもののの、「ぐっ」と歯噛みし――。
「おまえみたいな軍人がいるのに、どうして戦争はやまないんだ?」と、デモンは当然の疑問を口にした。「なあ、おい、なぜなんだ?」
「それはひとえに、俺の力が及ばんからさ」苦笑いのような表情を浮かべた、クライン閣下。「慕ってくれる部下もいるが――」そこまで言うと、彼は血が溶けた咳を吐いた。「ほら見ろ。俺はもう、長くはないんだよ」
「それは不幸なことだが、しかしおまえに命令だ」デモンは言う。「クライン閣下、いいからとっととリリィ嬢を連れてこい。でなければわたしはおまえをゆるさない」
承知したよ、デモン嬢。そう応えたクラインには安心したようなところが見えた。じつのところ、返したかったのだろう。返すことで、できるだけ事を、穏便に済ませたかったのだろう。彼が最高権力者であれば話をつけることもできるのかもしれないが、そうではないのが現状がある以上、双方にとって、戦闘を継続することは正解だとしか言えないのだろう。馬鹿みたいな話だなと思う。万人は馬鹿だなと考える。
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ブラッドはリリィを抱きしめ、恥ずかしがる素振りも見せず一通り熱い抱擁にキスまで終えると、デモンにきっちりと頭を下げてよこした。じつのところ、ブラッドはリリィのことを、なかば諦めていたらしい。だったらなおのこと、よかったなと思った。デモンとしては、取り返すことができなければ合わせる顔がなかったのだが。
ブラッドの屋敷。
長方形のテーブルを挟んで、デモンは二人と向き合った。
「まさか、ほんとうにやってのけるとは思わなかった。あなたはスゴいよ、デモンさん」
「やろうと思えば、なんとかなることのほうが、世の中、ずっと多いんだ」デモンは「閑話休題」と前置きしてから、「ブラッド、さて、この先はどうなる? まだまだ泥仕合か?」と訊ねた。
「ちょっとわからなくなった。というのも、大きな動きがあったんだ」
「大きな動き?」
「先方の指揮官、クライン卿が亡くなったらしいんだ」
デモンは二つ三つと頷いた。
「殺されてもおかしくないな。先見の明がある御仁だったからな」
「やっぱり、そうなのか?」
「ああ。惜しい話だ」
「残念だな」
魔神の丘の具体的な状況について、デモンは訊ねた。
てっきり「小康状態だ」くらいの返答しかないものだと予想していたのだが――。
「押されているんだ。俺もすぐに戻る」
「ここに来て、押されている?」少々、疑問に思った。「クライン卿がいたからこその互角、ではなかったのか?」
「それは違いないと思う。でも」
「一点突破を図る馬鹿がいると?」
「あなたはほんとうに勘がいいな」ブラッドは苦笑のような表情を浮かべた。「やり手の王族が出張ってきてるらしい。いよいよやる気みたいだ」
「大げさなことだ」デモンは笑った。「どうあるべきなのかね。両国の関係は」
相手次第だな――ということらしい。
「どちらも体制の崩壊までは望んでいない……っていうのが、微妙なところなんだよなぁ」
「またいつかこの国を訪れたとき、同様の戦闘が続いているようなら、加勢させてもらおう」
「いいのか?」
「世話になったからな」
デモンは椅子から腰を上げると、「リリィ、こっちに来い」と呼び寄せた。きょとんとした顔で言うとおりにしてくれたリリィはテーブルを回ってすぐそばに来た。デモンは容赦なく、彼女のことを抱きしめた次第である。「ひゃぁっ」と高い声を上げた彼女が愛おしくてたまらなかった。
「礼を言うぞ、リリィ・アップトン。おかげでわたしは命を拾った。『奇跡の左手』とは、よく言ったものだな」
同性に対しても、色っぽいことができるらしい。
リリィはデモンの首筋に唇を寄せ、「あなたに会えて良かった……」と甘ったるく言った。
デモン・イーブルの旅は、今しばらく続きそうだ。