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夜のことだ。
ノチェセルが「帝国」の要人と会うらしいと知った。
「今更か?」
「私もそのように思う。聞かされた議題はあるけれど、それは表向きのことでしかないだろう」
「じつのところは、五分の一を返せ、と?」
「そういうこと――なんだろうね」
デモンはごろんと寝返りを打ち、隣のベッドで身体を起こしているノチェセルに目をやった。
「返せる状態にはあるんだろう? まだ自治は遠いんだろう?」
「位置づけとしては、植民地という言い方が正しいね」
「ただ、返してやろうにも、要求してやりたい見返りがない」
「そうなんだ」月明りだけが差し込む中、ノチェセルは困ったように笑った。「そうである以上、交渉のテーブルについてやる理由も義理すらもないんだよ」
「そこに提示されているのはプライドか?」
「だろうね。あの『帝国』なんだから」
なるほどなと合点がいき、デモンは「ふぅん」と鼻を鳴らした。つまらなそうなリアクションに見えた、聞こえたかもしれないが、実際、そのとおりだった。
「で、受けるのか?」
「そうだね。暇だからね」
大した理由だ。
「同行してもらっていいかな?」
「雇い主の意向には従うし、行動には付き従うさ」
「ありがたいね」
デモンは起き上がり、乱れた寝巻の胸元を整えながらスリッパを履いた。立ち上がり、歩み、テーブルに置いてあったグラスにポットから水を入れ、飲んだ。次にウイスキーを注ぎ、それもまた口にした。少し多めに流し込んだので手応えのようなものがあり、喉の先と胸の奥とがかっと熱くなった――その心地良さにぎゅっと目を閉じる。
「それがフェアだと考えるから、話しておこう」
「デモン、何をだい?」
「わたしは貴殿の弟君、第十王子ラムサスを知っている」
「この国の王族はそれなりに有名だ。支持もされて――」
「そうじゃない。個人的に親交があるということだ。向こうから接触してきたんだよ。用件はつまるところ、こうだ、奴さんは王とおまえがゆるせないらしい」
「恨まれる覚えはないのだけれど」
「ほんとうに、そうなのかね?」
あらためて、ノチェセルに目を向ける。ほんとうに心当たりがないらしい。右手を顎にやり、深く考え込んでいる様子だ。
「まあ、いいさ。おまえにとっては、確かにどうでもいいことなんだろうからな」
「できれば、実情を教えてもらいたいのだけれど」
デモンは断ずるように「知る資格がないと申し上げたつもりだ」と応えると、それから「で、会談の場所は?」と訊ねた。「第三国か?」と続けた。
「いや、先方に出向くんだ」
「いいのか、それで。あるいは、無鉄砲にもおまえを殺そうとするかもしれないぞ? 捕らえられる可能性だって――
「今の私には立場があるけれど、王からすれば代わりなんて見つければ済む話なんだ。人質の価値はないと言い切れる」
まあ、それもそうかと、デモンは納得した。
「さて、もう眠ろう。夜更かしは美容に良くない」
「そうなのかもしれないが、いささか緊張していてね」
「おかしなことを言うね。ここにはもう慣れただろう?」
「案外、ナイーブなんだよ。どうだ、殿下、一杯、付き合わないか?」
すんなりと、ノチェセルは応じてくれた。
テーブルを前にして隣り合って椅子に座り、チンとグラスを軽くぶつけ合った。
*****
これもまた夜の話だ。ノチェセルは会談のテーブルにつき、彼のすぐ後ろにデモンは控えていた。伝統を感じさせる立派な一室だ。大きくも小さくもない適度な大きさのテーブル、機能性しか垣間見えない無駄に豪奢ではない椅子。うん、いずれもシンプルで隙がない。調度品の一つもないあたりにも好感が持てた。
ユピテル王国の出席者はデモンを入れて三人のみ、少数精鋭、筋肉質な態勢と言える。対して帝国側は十名を超える。ノチェセルと向き合っているのが責任者であり、スピーカーでもある外相、キャスリーン・アロンゾである。元軍人であり、存分に現場経験を積んだ上で背広組のトップも務め、今の地位にあるらしい――と勉強したから知っている。キャスリーン・アロンゾはそれだけの経歴がありながらまだ
挨拶もそこそこに、ノチェセルが「それではアロンゾ卿、早速ですが、具体的なところをお聞かせねがえますか」と切り出した。キャスリーン・アロンゾの「おわかりだと思いますが」との声は、がっちりとした体躯とはギャップのある品に溢れた澄みきったものだった。
「そろそろ返せと?」
「ええ。あのあたりの大地は肥沃で失うには――」
「惜しい?」
「そうです」
「しかし、人々は現状でも良いようですよ? 反抗の意志すら感じられない」
「そのような話はどうでもいいんです」アロンゾ卿はかけひきをしないらしい。「私は返せと言っています」
見返りは?
当然のことを、ノチェセルは問うた。
「ありません。そうでなくとも、小競り合いであれば、今にも起こらん状況です」
「少し話が飛躍しましたよ、アロンゾ卿」ノチェセルの声色に変化はない。「しかし、おっしゃりたいことはわかります。力ずくでぶんどりかえしてもよいというのですね?」
「要求があるのであれば、お伺いします」
「話がいったりきたりだ」
今度はクスクスとおかしそうに笑った、ノチェセル。その様を見ても誰も色めき立つようなところなど見せない。ポーカーフェイスを貫けるあたり、さすがは帝国の面々だ。
「要求はありません。ですから、返すつもりもありません」
要求はない、か。
先達て言っていたとおりだ。
デモンはここに来るまでの馬車のキャビンの中で、ノチェセルにラムサスのこと――彼の希望を話した。「どんな手段を用いてでも帝国の手から妹を取り戻してほしい」という願いをだ。腹違いなる事実は抜きにしてほんとうの妹のように思っていると話していた旨もあわせて伝えた。しかし、この場で今、「要求はない」と断じた以上、ノチェセルにとっては妹――ドロシーのことなどどうでも良いのだ。取引材料にすらならないということだ。冷たいとは思わない。ただ、ラムサスが不憫で、彼が「ゆるせない」とするのもわかる気がした――というあたり、デモン・イーブルは案外、まともな神経、価値観の持ち主なのかもしれない。
双方とも一歩も引かず、ゆえに一息入れようということになった。提案したのはノチェセルだ。主導権を握っているから心にゆとりがある。
テラスを借りた。
どこの国でも、夜空は同じだ。
月が浮かんでいて、瞬く星が見える。
「殿下、よろしいのですか?」
「ベラ、なんの話だい?」
「それは――」
「ドロシーのことだね?」何もかも見透かしたように、ノチェセルは言った。「わかっているよ。ただ、かわいそうなことではあるけれど、国民とは比べられない。そうでなくとも彼らのための王族なのだからね。ドロシーもわかってくれるはずだ」
ノチェセルの言うことはいちいち正しい。
そこにどれだけの善意が込められているのかはわからないが。
前方――空に浮いている人影に気がついたのは、そのときだった。
三人いる、宙を滑るように近づいてくる。
黒一色の軽装、口元を隠す布まで黒い。
ノチェセルに下がるよう促しつつ、ベラが一歩、前に出た。ベラも「誰だ?」とは訊ねない。顔を隠すことでどこぞの賊を気取り装っているのかもしれないが、そうであるがゆえに余計に帝国の手先であることを匂わせる。たった三人か――と感じなくもないが、浮遊しているのだ。イメージを具現化するのが魔法ではあるものの、空を飛べる者は多くない。それなりの使い手なのだろう。
「やれやれ。この期に及んで帰すつもりはないときたか」ノチェセルはおかしそうに笑った。「交渉決裂は望むところではないのだけれど」
嘘だ。
だから実際、「それは嘘だろう?」と訊いてやった。
「半分はほんとうだよ」
「彼らにとっても、国民の悪感情が高まるのは、現時点においては得策とは言えないはずだ」
「それはそのとおりだよ。そうである以上、誰かの独断なのかもしれない」
「後処理などなんとでもなると考えているタカ派の仕業だ。アロンゾ卿だろう?」
「そうかもしれないね」
デモンは柵に飛び乗ると、今度は宙に下り立った。
「やれるの?」と問うてきたのはベラだ。
「問題ないさ」デモンはこきこきと首を鳴らした。「周囲に気を配れ。まだ出てくるかもしれん」
「わかっているわ」
突然、上空から「カァッ!!」と大きな声。
反射的にだろう、黒ずくめの三人がそちらを向いた。
何も確認できないはずだ、まさに闇夜のカラスなのだから。
致命的な隙である。邪な笑みを浮かべつつ、デモンは右手の人差し指と中指とを立てて、それを前に向けた。途端、黒ずくめの一人の身体がズタズタに切り刻まれた。細切れの死体が落下してゆく。宙を蹴り、今度は一息で懐に飛び込んだ。居合の要領で二人目の首を刎ねるとすぐに左手を左方へと向け、三人目については全身を燃やしてやった。お節介とも言えるカラスのひと鳴きではあったものの、敵を速やかに駆逐するうえでは確かに役立った。
デモンの左肩にカラス――オミがふわりと舞い下りた。
「ひどいんだ、デモンはひどいんだ」オミは今日も少年のような声でおしゃべりする。「ユピテルに入ってからこっち、ぼくのことはほったらかしなんだ」
「今や宿が宿なんだから仕方ないだろうが」
「第二王子ともあろう御方が狭量なのかい?」
「不潔なカラスを近づけるのはまかりならんという話だ」
「不潔? わぁぁ、酷いんだ、酷いんだ」
「やかましい」
宙を滑り、デモンはテラスまで戻った。
ベラはまだ険しい顔をしているが、ノチェセルの柔和な表情に変化はない。
ノチェセルが「そちらのカラスくんと話していたように見えたけれど」と言うと、オミが「カァ」と愛想良く鳴いた。自己紹介のつもりだったのかもしれない。
「殿下、どうするね? もはや試合続行とはいかんだろう?」
「そうだね。このまま失礼したほうがよさそうだ」
ノチェセルも宙に立った。デモンは少し驚き、思わず口からは「ほぅ」と声が漏れた。この第二王子は魔法も達者らしい。
「まずは外に出ないとね」と、ノチェセル。「妨害を働くニンゲンについては速やかに処理するように。いいね?」
すでにテラスから出て宙にいるベラは「はっ」と切れの良い返事をした。
デモンについては「わかっているよ」とだけ応えた次第だ。