*****
宿を移った。空間を贅沢に使う第二王子の私室にはダブルよりも大きなサイズのベッドが二つあり――その一つにはまさにくだんの第二王子がおわすわけであり、もう片方にはデモン・イーブルが陣取っているわけであり、その状況からして、結構、異常だとは言えまいか。デモンがひとたび「うん」と首を縦に振ればベッドは一つで済むのだが、現状、「オスの象徴」を受け容れてやるつもりはないのである。
朝の気配を目ざとく感じ取って夢から覚めたデモンは、後頭部の後に両手を敷いた。「おはよう、殿下」と挨拶したのである。そしたらきちっと返ってきた。「ああ、おはよう、デモン」と返してきた。彼は身体を起こすと、小さな、しかし指向性に富んだ歌うような声で「ベラ」と呼んだ。栗色の髪にグリーンアイの彼女が入室してきた。「おはようございます、殿下」と綺麗に
「ベラ、ありがとう、下がってもらえるかな」
「殿下」
「着替えるだけだよ。不安がることはない」
「しかし――」
「子作りに励みたいなら、とっくにそう言っているし、しているよ」
……はっ。
小さくそう返事をし、ベラは退室した。
「デモン」
そう呼びかけられた彼女は、床に置いてあるスリッパに足を下ろした。
「デモン、きみはヴァージンだろう?」
「そうだが、それがどうかしたか?」
「いや、かく言う私も童貞なんだ」
「だと思ったよ」デモンはふっと吹き出すと、小さく肩を揺らした。「気が向いたらベラ嬢を抱いてやればいい」
ノチェセルは「そういう関係ではないつもりだよ」と言って寄こしたが、その真意はどうあり、またどこにあるのか――読めない、あるいは読ませない人物だ。
すたすた歩いて、デモンは部屋に二つある窓のカーテンをそれぞれ開けた。部屋の床目掛けて斜めの角度で日の光が差し込んでくる。まったくもって眩しい。連中はどこまで不躾な存在なのか。
絵に描いたような白いシルク生地のパジャマをまとうノチェセルは、丸テーブルを挟んだ向こうに座っている。どのような環境にあっても映える金髪。長い前髪を掻き上げると、美麗な唇にグラスを運んだ。
「デモンは、今日はどうするのかな?」
「あえての物言いになるが、それは雇い主であるおまえ次第となるな」
「今日も陛下に会うんだ」
「仲がいいことだな」
「一般家庭においても、ままあることとは言えないかな?」
おっしゃるとおりだと、デモンは納得した。
「どういった用件だ?」
「さあね。ただ」
「ただ?」
「いや、結局のところは、釘を刺したいだけなんじゃないかな、ってね」
デモンはくつくつと喉を鳴らした。「まあ、自らを裏切る急先鋒が誰かというと、それはおまえしかありえないことだろうしな」と笑った。すると、やれやれと言わんばかりに首を左右に振ったノチェセルである。
「国そのものを敵に回すつもりはないのだけれど」ノチェセルは言う。「そもそもデモン、国家とは?」
「言ってみれば、禅問答?」
「プリミティブな話だよ」
「国はヒトだ。ヒトそのものだ」
「私もそう思う」ゆったりとした所作で、また水を口にしたノチェセル。「だけど、いや、だからこそ、国家のあるべき姿を語り、説くのであれば、ヒトの心を顧みないとね」
まあまあ綺麗事を抜かす野郎だなと嫌になりそうにもなるのだが、当該人物はなにせ王族の最高権力者に近いわけであり――おや?
「そういえばだノチェセル、私は第一王子の存在について聞き及んだ覚えがないんだが」
「兄上は穏やかなニンゲンだ。鳩のように温厚な。いろいろと、向いていないんだ」
「馬鹿にしているらしい」
「事実を述べているにすぎないよ」
たしかに、ノチェセルはあまり冗談は言わない。
「きみはどうする? ついてこいと強く言うつもりはないんだ」
「王にお目通しがかなうのであれば面白い。興味深い体験とも言う」
「なら、ご一緒願おう」
「一言もらえれば、実行に移さなくもないんだが?」
「ん? なんの話かな?」
「『絶対王』を殺めたとあれば、
危ない女性だ、きみは。
ノチェセルはまんざらでもない顔をして、すっくと椅子から立ち上がった。
寝癖の一つすらない金髪がふわと揺れた。
*****
赤絨毯の面積、すなわちそこに至るまでの距離は長いものだったが、王はそう高い場所にはなかった。三段だけの階段の向こうの玉座についているだけだった。まあ、恐らくクリスタルか何かが用いられた静謐な驕りに満ちた居場所ではあるが。護衛の者も左右に一人ずつ控えているだけだ。
片膝をついて礼を尽くしたノチェセル。無論、デモンも同じようにし、当然、ノチェセルが身体を縦にしてから立ち上がった。デモンは帯刀している。一足飛びに跳ねて首を刎ねられるというものだが、なぜだろう、なぜかそれをさせないぞという強烈に反発的な空気みたいなものがあいだにあるように思えてならない。
「陛下、本日は何用でございましょう」綺麗な言葉を綺麗な声で述べたノチェセル。
「父が子の顔を見たいと言ってどこが悪い?」威厳しかない声色だった。
「最近、お会いしてばかりのように感じています」
「それだけおまえがかわいいということだ、ノチェセル」
高らかに朗らかに、まるで勝ち誇ったように王は笑った。
雰囲気がある、びくともしない揺るぎない強者の雰囲気が。
二つ名である「絶対王」は、伊達ではないらしい。
「不穏分子の存在は?」
「陛下ほどの御方が、恐怖を感じておられる?」
「たとえば、おまえには怯えておらん。が、民草に関しては、そうでもない」
「ご冗談を」
「ああ、冗談だ」
今度は王、大きな声で阿呆みたいに笑った。
「誓います、陛下、私は、陛下への絶対的な忠誠を」
「当然だ。わしがそうではないと感づけば、そのときおまえは灰になる」
親子の会話にしてはつまらないし、権力者同士の話にしてもイマイチ。まったくもって冴えないやりとりだとの思いから、デモンは思わず笑ってしまった。仮にそうあってもノチェセルは取り乱したりはしないし、王にしてもそうだろうとの思いはあった。黒ずくめで見るからに怪しいが、ちょっと美人でちょっと胸が大きいくらいの女など気にも留めないだろうと考えていた。だが、喜ばしいことに興味を持ってもらえた。視線が捉えてくれたのだ。
「女よ、おまえはわしを殺せるな?」
「ええ、はい。違いない。御覧に入れましょうか?」
「その先をなんとする?」
「王殺しの大罪人として生きるのは悪いものではないだろうと考えています」
途端、豪胆にしか映らなかった王の目に、得も言われぬ突き刺すような冷たさが宿った。背筋がぞっとなる、恐怖を覚えるほどの暗い色合いが、そこにはあった。といっても、臆してやったりはしないのが、デモン・イーブル様なのだが。
「長生きしたければ頭は高くしないことだ。下賤な者には幾分、具合が良いことだろう」
「陛下」
「なんだ、ノチェセル」
「もう退きたい。あなたの威圧感は毒なのです」
「自信があれば、かかってくるがいい」
「そんなことはしないと申し上げている」
深々と礼をし、ノチェセルは身を翻した。
後に続くデモンである。
見たところ、感じたところ、王と第二王子の格は同等であるようだ。