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宿の一室、琥珀色のアルコールを片手にロッキングチェアの上でうとうとしていると、出入り口の戸がコンコンコンと慎ましやかに鳴いた。立つのも面倒なので「あいているぞ」とだけ伝えた。「ほんとうに入っても?」との声は色からして若者のそれだった。声変わりしてからあまり時が経っていないように思えた――たぶん、そうだ。
予想のとおり、入ってきたのは若い男だった。
グレー、詰襟のそれは、たぶん、高校くらいの制服だろう。
デモンは「座るといい」と味も素っ気もない椅子をすすめ、それから「飲み物は水しかないがな」と断りを入れた。
「すみませんね。では、その水とやらをいただきましょう」
少年は小さなポットからグラスに水を注いだ。
黒髪、前髪が長いスタイル。細身で背が高い。紫色の瞳には殊の外威力があり、魅力的で、そこにあるのは雄弁さであるようにも感じられた。ただのガキではないということだ。頭の回るクソガキなのだろう。
水の入ったグラスをくいと傾けると、少年は「ラムサス・フォン・ユピテルといいます」と名乗った。
フォン・ユピテル?
と、いうことは――。
「ええ、そうです。俺は王族のニンゲンですよ、イーブルさん」
不敵な笑みである。
「そんな大げさな少年が、わたしごときになんの用かね?」デモンはあくびをした。「夜中に女一人の客室を訪れるのも気が利いていない」
「謝罪します」
「用件を述べろと言った」
兄上、ノチェセル・ネス・ユピテルを、ぶち殺したいんですよ。
さすがに眉をひそめたくなる話だった。
「馬鹿馬鹿しい宣言だが、理由くらいは訊ねてやろうか」
「行き過ぎた貴族主義が民を苦しめている。ゆるせることではない」
「この国のニンゲンはそれなりに幸福を謳歌しているように見えるが?」
「まやかしですよ。体制がかっちりしていれば、誰も不満を漏らせない」
「一理ある」
「でしょう?」
「ああ」
デモンはブランケットを胸の上まで引っ張り上げた。寝間着の胸元がはだけていて恥ずかしかったとか、べつにそういうわけではない。
「兄上が悪の権化だから、今や彼に近い立場のわたしに事を頼もうと?」
「いけませんか?」
「理にかなっていると言った。だが美しき少年よ、ヒトは見返りがないと動かんものだ」
少年は細く長い脚を組み替えると、「俺は国を動かす男です」とほざいた。あまりに堂々としているものだからデモンは感心し、思わず「ほぅ」と口をすぼめてしまった。
「たとえば王様になって、何がやりたい?」
「その質問に対する答えは重要ですか?」
「欲求は大切だ」
「じつはすべてを取り戻したいだけなんです」
「どういう意味だ?」
「それだけの意味ですよ」
少年――ラムサスは、にぃと口元を歪めた。卑屈めいた笑みだ。ゆえに好感が持てる。深くは問わないまま引き受けてやろうかとも考える。しかし、何かリスクに見合った明確な報酬が得られないと――とはやはり思う。そこで「気が向けば、ということでいけないかね?」と持ちかけた。こういった場合、どっちつかずのほうが楽しめるとデモンは経験則から知っている。
「それにしても、帝国と張り合うだけの国家の王族が、これほどまでの不穏さに満ちているとはな」
「兄、そして父。彼らのような身勝手な大人が強権を振りかざすようでは、世界は何も変わらない」
世界。
そんなもの、ヒト一人で変えられると、本気で考えているのだろうか。
そのへん、ツッコミを入れてみた。
すると、今度は苦笑じみた表情を浮かべてみせた。
「明日を望むという意味では、ノチェセル……兄と俺は似ているのかもしれない」
「だったら、厳密にはどこが違う? それを言葉にせんと、サボっているのと変わらんぞ」
「話したほうがいいですか?」
「話してもらったほうが信頼できる」
ラムサスは水を一口飲むと、「かつて、我が国と帝国は人質を交換しました」と、いっそう苦々しげに言った。
「人質?」
「ええ。まだ、そんな取り交わしだけでなんとかしようと両国が考えていた段階でのことです」
「察するに、その人質とやらが――」
「俺の妹なんです」
「ということは――」
「何番目のそれであるかは問題ではない。とにかく俺の妹なんですよ」
ふぅん。
鼻を鳴らしつつ、デモンは小さくゆっくりと三度、頷いた。
「まあ、そういうことなら親族が相手と言えども憎らしく思うだろうな。世界を変えたい、ぶっ壊してやりたいというのは、いささか飛躍しすぎだと考えなくもないが」
一転、ラムサスは怒りを宿らせた顔になり――。
「今や明確な敵対国家同士と言って過言ではありません。遅かれ早かれ、そうなることは、わかっていた。売ったんですよ、父は。兄だって酷いものです。腹違いとはいえ、かけがえのない妹を救おうとしないのだから」
聡明そうであるいっぽうで、不確かで危うい人格だなと感じる。まあ、まだ十代半ばであるわけだ。好きなものがたくさんあれば、嫌いなことだって多くあることだろう。そうあって不思議ではない。
しかし――。
「答えは保留とさせてもらおう。いいメシが食えて、いい酒が飲める。最大限の礼儀を尽くしてもらっているのでな。今しばらく、豪奢な生活を謳歌したいのさ」
「俗物的ですね」
「あるいは力を貸してやると言っているつもりだ。じゅうぶん、妥協的ではないかね?」
そうとも言えますね。
そう言って、ラムサスはにわかに頬をゆるめ。
「失礼なことを言いました」
「いいさ。で、だ、王子さま、おまえはどこの学校かね?」
「ギルバート学園です。ご存じですか?」
「まさに貴族の学校だろう? 興が乗ったら出向いてやる。そのとき、また話をしよう。どうだ? つくづく好条件とは言えんかね?」
「そう思いますよ」
ラムサスは椅子から腰を上げた。
「ぜひ、また会いましょう。俺はあなたに興味が湧いた」
自分や、なにより妹が不幸にならない世界に改造する。つまるところそのあたりが一丁目一番地なのだろう。ポジティブに唱えるのであれば、それは些末な定義でしかない。結局のところ、どれだけ尊い賢人に見えても、そこはやはり少年でしかなく、ゆえに不安定さを存分に孕んでいるのだと言える。
楽しいニンゲンではあることは、まず間違いないが――。