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訪れた先は黄ばみ、ひびの入った壁で覆われた小さな建物の二階の一室。これといった看板は掲げていないようだが、サカイの職業は「探偵」らしい。「文字通り、世を忍ぶ仮の姿という奴ですよ。そちらのソウシさんに聞かされたことだろうが、本職は神の使いだ。そのじつ、生真面目な働き蟻とも言いますがね」などと少々わかりにくい自己紹介を振る舞ってくれた。生真面目さを自ら強調するニンゲンにろくなのはいないというのがスジとしての考え方だとは思うのだが――。
「まずはゲラとやらに謁見か? そうさせてもらわんと、わたしからはなんとも言えん」
「デモンさん、謁見、ですか」
「最大限、丁寧な言葉を用いている。ありがたく思ったほうがいい」
「言いますねぇ」
「殺されたいなら、首を差し出すつもりで跪け」
そんなこと、するわけないでしょう?
そんなふうに答えたサカイの目には、不敵な色が見え隠れする。
デモンはふっと表情を崩し、邪に笑み、それから「どことは言わんが、似たようなしがらみの中にある国は知らんこともないんだよ」と語った。
「と、いうと?」
「いや、この国の場合、それは極端な例だな」
「だから、というと?」
デモンは皮肉に顔を歪める。一般的なニンゲンからすれば、悪魔が顔をゆがめ笑っているように見えることだろう。
「システムの裏にある暗がりに居座りつづけている寂しいだけの聖典をほとんど無意識的に尊重している原理主義者の集合体――それがこの国、ラビットフットだ。吐き気まではもよおさないが、ただただ絶句しているよ」
デモンはそんなふうに、一息で評価を述べたのだった。
次に邪悪に笑ったのは、サカイのほうだ。
「難しい考え方や概念をうまいこと操っている。ねえさんは賢いと見える」
「そうお考えなら、とっととゲラ・モトと引き合わせてもらえんかね? 焦らされて喜ぶ女は極度のマゾヒストだというだけだ」
「わかった、いいでしょう。アポをとりましょう」
あまりにすんなりと希望が通ったので、デモンは目をぱちくりさせた。
「物分かりがいいんだな、サカイ氏は」
「俺には俺の狙いがあって。それに相応に干渉しない限り、面倒事は避けたいんですよ」
「速やかに、その狙いとやらを言ってみろ」
「嫌ですよ、めんどくさい」
「ま、そうだろうな。素晴らしい素直さだと認めるよ」
デモンはハハッと朗らかに笑ったのだった。
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ゲラ・モトは寝たきりの老人らしい。物を解す脳と物を述べる喉は有しているらしく――齢八十八だというのだが、年相応どころかそれより年老いても見えた。若々しさは皆無だった。だが、真白の髪はしっかりとした羊の体毛のように力強く、口まわりの髭もふわふわと豊かだった。
無防備な枕元――デモンが見下ろしてやっていると、やがてゆっくりとした調子で、ゲラは白に近い灰色の双眸に光を宿したのだった。
「誰かね、きみは」低く濁った声だった。「会うのは初めてだろう?」
「そうだが」デモンは明確に発音する。「ご老人、あなたがゲラ・モトで間違いないかね?」
「ああ。私こそが、そうだ」
「なら、結構。目当ての人物に会うことができて、わたしは喜びに打ち震えているよ」
「嘘をついてくれるな、お嬢さんよ」
「まったくだ」
デモンはにぃと笑みをこしらえた。
「何が知りたい? 私の不遇の人生でも語ればよいのか?」
「そんなものに興味はない。とりあえず、貴殿の存在は、良からぬ疑いを国にもたらす要因になっているようだぞ」
「それは違うな。否定する。私は民に愛されている。正しいのか誤りなのか、そのへんは想像にお任せするが」
一転、デモンは優しく微笑みながら、「会ってくれたこと、お会いできたことについては、ほんとうにありがたく思っているんだよ。感謝しているんだ」と紛れもない本音を語った。「ただ、そもの根っこは知りたいな」と伝えた。「根底にある希望はなんなのか、それは聞いておきたいなと考える」と続けた。
「私は偶然にモトという得体の知れない権力を得たニンゲンだ」
「そのわりには、まんざらでもないように聞かされたつもりだが?」
「そう言うな。ニンゲン、誰にでも間違いはある」
「おまえの人生は過ちだったと?」
「それに満ちていたとは言わん」
「人々の総意は? やはり自らが成したものなのか?」
「そうも言わん。ただ、人治にしろ法治にしろ、何かを導くためには一定以上のパワーが必要だ」
なんとも俗物がすぎる発想に、デモンは大笑いしてしまった。しかしすぐに口を閉じ、顎を引く。そこにニンゲンの事実を見たのも確かだからだ。ゲラは馬鹿ではない。だからまあ、しんどい思いをしたのだろうし、苦しみに満ち満ちた人生だったのかもしれない。
「久しぶりに、美しい
「報酬によるな」
「何が欲しい?」
「たわけ。そんなの高価すぎるから、誰も払えはせんのだよ」
ゲラは目を大きくしたのち、顔をほころばせた。
「そちらの青年、それに我が使いのサカイ、粒揃いだ。私が推すのは孫のドレルだがね。あれは私の跡取りにふさわしい。私と同じく、とても偏った思想の持ち主だからだ」
「そちらの青年」ことソウシは軽口の一つすら叩かなかった。彼のほうを向くとただひたすらに神妙な顔をして、ふと浮かべたのは苦笑だろう。
「ゲラさん、俺はあなたが嫌いだから、言うよ。悪い呪縛は良くないよ。悪しきは悪しきなんだからね」
「他者のことなど、どうでもよかろう? おまえがこだわりたいのは、女房の死にこそあるはずだ」
女房?
死?
デモンにとってはアクシデントのような言葉だった。改めてソウシのほうを向くと、彼はじつに難しい表情を浮かべていた。
「ソウシよ、問おう。どういうことだ?」
「聞きたいの?」
「言ったろう? わたしは暇なんだよ」
「俺がやり遂げたいことは一つだけなんだけど……ああ、もういいや。俺はもう行くよ。なんだか腹が立っちゃった」
連れてきておいて、ソウシはデモンのことを置き去りにして辞去する。デモンは仰向けのままのゲラの胸に右手を置いた。「じゃあな」と告げた。しわくちゃの老人は「じつに美しい手だな」と笑った。潔癖な微笑みに映ったものだ。
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ラビットフットにとどまるなか、うまいこと呼び出す格好で、またソウシと会ったのである。正午にしてもらった。基本、デモン・イーブルはおねぼうさんだからだ。
訪ねてくるなり、「今日は奢る財力も元気もありませーん」などとほざいてくれた。とりあえず宿の一室に招き入れた。ソウシは倒れ込むようにして、ベッドに背を預けた。奔放すぎる振る舞いだが今に始まったことではないのだろうし、べつに腹も立たないから、デモンは静かに椅子につくだけにとどめた。
「女房の話だ」
「ひょっとして、俺の奥さんのこと?」
「ああ」
ソウシは天井を眺めたまま、ぽかんといった感じで、「あれも警告だったんだよ」と話した。
「だろうな」と応えるまでもなく、そうだろうと察していた。「しかしというかつくづくというか、モトの家は危険だと知っていながら、どうしておまえは彼らを追うのかね」
「最初は仕事でしかなかったよ。上司の命令ってやつ。だけど、国という括りにおける彼らの役割を知ったが最後、これは破壊してやらなくちゃな、って」
「正義感ゆえか?」
「ただ気持ちが悪い事象だからだよ」
これもまた、合点のいく話ではある。
「奥さんが殺されちゃった以上、俺にはもう失うものなんてないからね。モトのおかしさをきちんとまるっと検挙できるようなら、それで御の字なんだ」
「つまらん人生だな」
「そう思うよ。だけど、俺は俺で他にすることもないからね」
攻撃してきた者に対して自動で反撃する。そういった仕組みができていて、だからこそモトには手を出すなということなのだろう。そこにはゲラ・モトの意思など介在していないかもしれない。オートマティックなのだ、とにかく。強固な迎撃システムだ。まったくもって、タチが悪い。
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明くる日の朝刊にて、ゲラ・モトの死を知った。他殺体。ろくに身体を起こすこともできない彼はベッドの上で胸にナイフを突き立てられた状態で絶命していたらしい。手を下した者は現状わからないとされている。誰かの意思により伏せられているのだと考える。奴さんに謁見できるニンゲンは限られているのだから犯人なんてすぐにわかって当然だ。そうでなくとももろもろの事情から誰の仕業かは予測がつくのだが――さてさて、当該事象は事態としてどんなふうに転ぶのか。期せずして一国の行く末の分岐点に出くわすことになったわけだ。大いに楽しんでやろうと思う。