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平和の国だの幸福の国だのと聞かされて入った先、名を「ラビットフット」――べつに平べったくなくても幸せでなくとも良かったのだが、なんだか前向きな要素を一掃する逆説を証明するかたちで剣呑さをいきなり見せつけられた。恐らく反社ではないのか。一角を占有占領する建物すべてを焼き払わんとしているくらいだから、当然の警告にも従わなかったのだろう。どうあれモノやヒトが焼き尽くされる匂いとはそれなりにかぐわしいものだ。バーベキューと大差ない。みな逃げたから人込みはない。デモンは手を下している者らのリーダーらしき人物まですぐに至ることができた。若い男だ、茶髪は長くポニーテール。後ろから左の肩をつんつんとつついてやると、勢い良く振り返った。にわかに、汚物でも見るような目を寄越された。「誰だ、おまえは?」と問われたので、「こちとらデモン・イーブルさまだよ」と速やかに事実を返した。彼女の左の肩の上でのんきに「カァ」と鳴いたのはもちろんカラスのオミである。
「気安く触れるのか、この私に」
「怒られ咎められることは予測できた。後ろ姿からして潔癖だからな」
「舐めないでもらいたい」
「そのつもりでいるよ」と、デモン。「で、だ、おまえ、名前は?」
「つくづく無礼なヒトだ。女ともいう」
「理屈はいい。素直な返事ができんほどの小物なのかね?」
ポニーテールの若いその男は、いよいよデモンのほうへと向き直った。グリーンアイ。ゾッとくるくらいの気色悪さを覚えるほどの美男子だった。
「ドレル・モトという。あなたは美しすぎる。ビッチなどとは、用いたくもないが」
なんともいきなりのありきたりな物言い、文言である。だが第一印象に根差した「ビッチ」とはやはり言われ慣れていることであり、だからいちいちああだこうだと説明するのもダルい。嫌われついでにひたすら話を進めてやることにする。
「イイところなんじゃないのか? この国、ラビットフットは」
「我が国を愚弄するのか?」
「そのつもりはない」デモンは、にぃと笑んだ。「ドレル様よ、いっそここで、わたしが捻り潰してやろうか?」
すぐさまのことだった。ドレルが剣を抜いたのである。無論デモンも瞬時に抜刀し、刃を受けた。このへん、決して後れを取らないあたりが、デモン・イーブル様の真骨頂――。
「おやおやおやおや、まるで余裕がないんだな」周りのニンゲンがヒくくらいの勢いで笑ってやった。「やるかね、ここで。であれば、ここら一帯が朽ち、死に絶えることを許容してもらおうか」
するとドレルはすっと剣を引いた。「もとよりそのようなつもりなどない」などと言う。だったらソッコーで抜くなという話だが。剣を鞘におさめると、「私は何も暴力主義の快楽主義者というのではないのだよ」と言った。若いくせにしっかりした口調だし、はっきりと物を言う。ドレル・モト。その大物さ加減ゆえに記憶しておいてやってもいい。
ドレルの左の肩にぽんと手がのったのはそのときだった。いや、近づいてきていたのは見えていたのだ。しかし、まさか事に介入してくるとは思わなかった。中年だ。四十なかばくらいとおぼしきオッサン。オールバックの黒髪に瞳の色も黒。中肉中背の体型で、いかにも冴えない容姿である。
オッサンは「ドレル少佐、やめておきましょうよ」と軽々しく言い、するとそのドレル少佐はゆっくりと首を回し、そちらを向いた、裏拳を見舞うようにしながら、である。「おっと」――ひょいとのけぞり、かわしてみせたのがオッサンだ、身軽だ、興味深い動き、はしこさだった。勢いのある一閃だったので、まさかよけるとは思っていなかったのだ。しょぼくれたオッサン然としたオッサンなので、その動きはじゅうぶんに見る者を驚かせてくれた――楽しませてくれたとも言える。
「もう一度言います。やめましょうよ。任務以外のことはやらなくていい」
軽率さを滲み出すような感じだった。実際、オッサンは軽薄そうに笑んだのである。ドレルは「おじいさまに気に入られているからといって図に乗るなよ」と憎々しげかつ敵対的な口を利いた。「どけ」と言い放つなり、馬まで歩き、乗り、立ち去った。デモンのことを認めるなり、やれやれとでも言わんばかりに肩をすくめてみせたのはオッサンだ。ただのオッサンに見えて、そのじつ、やり手のオッサンだ。これでもいくらかヒトと接してきた。眼識――審美眼には結構、自信がある。
「やあ、おねえさん、美人だね」オッサンは人懐こい笑みを浮かべ、右手を差し出した。「名前が必要なら言ってもらっていいですよ」
その胡散臭さに少なからず口を尖らせつつも――。
「では名乗ってもらおうか。こちとらデモン・イーブルだ」
「サカイというんです。ファミリーネームですよ」
「ファーストネームまで訊こうとは思わん」
「さっぱりしているね」
「やかましい」
ぞんぶんに複雑さを孕んだ国らしいな。デモンはそう言うと、左肩の上にいるオミの喉をおもむろに右手でくすぐってやった。猫であればごろごろ言ったところだろう。
「デモンさん、この国はひどく胡散臭くてね」
「だから、それは知ったと言ったつもりなんだが?」
「どう見える?」
「主語を用いろ」
「この国は? あなたにはいったい、どう見える?」
「だから、幸せそうには見えるさ」
「だろう?」サカイのしたり顔が、鼻につく。「豊かに映るのだろうし、それは確かだと思うね。平和的だ、平行的だからこそ穏やかだ。だがその背後にはまさにフィクサーがいて、彼らは国の成り行きを遊び半分に見ながらもっと遊び半分に楽しんでいる」
事実かもしれないそのくだらなさにデモンは嘲るように「はっ」と発し、「なるほどな。幸福さがすぎる国にはありそうな話だ」と納得の意を示した。それから「しかし、なにゆえそうなるのかね。幸せだというのなら謳歌していればいいというだけの話だと考えるのだが?」と続けた。
「強固な鍵がかかっている――とでも言えば、ご納得いただけるかな?」
「なんの話だ?」
「鍵を壊したがるニンゲンはいるということですよ」
「それはわかったと言っている。壊した先に何があるのかという話だ」
何も要らないんでしょう――というのが、サカイの返答だった。
「さっきのにいさん、彼はドレルといってね。モト家の三男だ。じいさまのいっとうのお気に入りだ。ご本人様も懐いているときてる」
「じいさま?」
「ゲラ・モトなる老人ですよ」
「有名人なのか?」
「そりゃあね。先に俺が述べた黒幕があるとするなら、その主たるのがくだんのじいさまなんだよ」
「そいつこそが強者だと?」
「ああ、この国そのものが、くだんのじいさまの傀儡なんだ」
なんとも大仰な物言いであるように聞こえる。
「で、サカイよ、おまえはいったい何者なんだ?」
「うざいほどに蒸し返すあたり、いい根性ですねぇ」サカイの声は優れた劇団員のそれのように渋い。「俺はモト家から依頼を受けて、信任を得てとも言うかな、じいさま――ゲラ氏が権力者でいられるよう方々と調整を図るニンゲンだ。これまではそうだったし、これからもそうなんだろうと思ってますよ」
デモンは腕を組み、「ふぅん」と頷いた。「つまらん役割だ――自らそう語っているように聞こえるな」と言った。
「そうでもないんですよ。俺はこの国の中枢に入り込んでいますから」
「そうとは思えん。おまえの代わりなど、いくらでもいるんじゃないのかね」
するとなんとも言えない苦笑じみた表情を浮かべた、サカイ。
「こんなところで無闇にだべるのもなんだ。しっかりとお茶くらい、奢らせてもらえませんかね」
「結構だ、断る。何が悲しくてオッサンと茶を飲まなくちゃならんのか」
「ひどい言われようだ」サカイは肩をすくめてみせた。「忠告だ、ねえさん」
「言ってみろ」
「とっとと国を出たほうがいい。あんたみたいなのは、重大な局面に関わってくるって決まっているんだ」
「経験則かね?」
「いや、勘だよ」
言って、サカイは向こうへと立ち去った。
右隣に人影を覚えた。いきなりのことだったので少し驚いた。小男が――まだ全然若い、二十代であろう男性が腕組みをして立っていたからだ。サカイとの会話に気を取られていたとはいえ、存在を気取らせないあたり、大したものだ。天性のものだろう、センス、だ。後付けで得られるスキルではない。騒がしいことだ。思いの外、世は有能なニンゲンで溢れているらしい。
「なんだ、青年。名前は? なんという?」
「ってより、おねえさんは何者? サカイさんとはどういう関係?」
「わたしはデモン・イーブルだ。彼とはどろどろとした粘着質な肉体関係だ」
「嘘でしょ、それぇ」
「話を聞いていたんだろう? すぐ近くで」
「じつはそうです」てへへと頭を掻いた青年である。「俺はソウシだよ、ファーストネーム。ファミリーネームは必要?」
「要らん」デモンは多少の不快さに眉を寄せた。「再度だ。おまえこそ、誰なんだ?」
公安です、よろしくね。
元気良くはきはきと、ソウシは答えた。
「さきほどのサカイ、彼の行動は、言ってみれば国家運営者らの総意におけるものだと聞き及んだつもりだが?」
「公安は公安だよ。俺たちは俺たちで健康的で建設的だってこと」
「なるほど。そうであるのなら、まさに健全だ」デモンは一つこくりと頷いた。「で、どうしてサカイを追うんだ? 詳しいところはどうなんだ?」
「俺たち、まだそこまで仲良しじゃないよね?」
それはそうだ。
デモンは「はっはっは」と笑った。
「だったらもういい、クソガキが。わたしは早々に立ち去ることとする」
早速くるりと身を翻し、デモンは歩きだした。
すると、ややあってから、「デモンさーん」と大きな声がした。
「サカイさんとはあまり仲良くしないほうがいいよー。俺の敵になっちゃうからねーっ」
怪訝に思いながら振り返ると、その朗らかな若者の姿は、もうなかった。