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デモンは宿にいる。テーブルにはオミがいる。宿というのは名ばかりであるだけの矮小なる寝床が多い。この部屋――当該も例にもれず、だ。しかし、悪くは思っていない。むしろ狭さ、空間が限られているからこそなにかと快適に感じられる――という謎理論。その心地良さは愛おしい。得難い貴重さとも解釈できる。
ゆっくりと上半身を起こすとベッドから下り、デモンはテーブルの上のグラスに水を注いだ、なんの変哲もない飲み水だ。もはや完全に冷徹さを失っているが、喉を潤したいという欲求には敵わない。ごくごく飲む――イイ感じ。
出入り口の戸がノックされた。ああ、つまらん用件なのだろうと、当てずっぽうながらも見当くらいはついた。
返事をすることもなく戸を開けた、全身鼠色――鎧兜の、いかめしさすらまとう中年と思しき男の姿。さまがら騎士様だ。男はさっと目を左に逃がす。自分はほとんど、特に胸元についてははだけているなとあらためて思い知ったデモンである。
「デモン嬢、昨日今日の新聞は?」
「知らんが、まずは名乗ったらどうだ?」
「私の名になど意味がない」
「そうかもしれんが」
男は左の手のひらを上に向け、それからいっとき置いてから、「どういうことか、わかるか?」と訊ねてきた。「いまだ魔法は使えないということだ」と自身から答えを披露してみせた。
「コロンビーヌ・ソビエスキーの存命の報せは心地良い」
「なぜ、そう?」
「ベリナスが苦戦している様子は、現象としては笑えるからな」
「性格が悪いな」
「そうだよ。ついでだ。おまえのことも馬鹿の愚か者と罵っておいてやろう」
で、おまえはどうするつもりなんだ?
そんなふうに、デモンは訊ねた。
「あなたを殺せとのお達しだ」
「ほぅ。まさかとおまえに嫌疑をかけたくもなるが」
「ベリナス様はナーバスになっておられるのかもしれない」
「不穏分子は消せ、と?」
「表に出てもらうおうか」
「やぶさかではないさ」
上から下まで黒ずくめの衣装――に、着替えを済ませて歯を磨き、それから男の後に続くかたちで表に出た――出たところで、背中から腹にかけて刀でもってぶっすり貫いてやった。瞬く間に力を失った男の身体が前のめりに倒れる。すぐにおつきの者――二名が剣の柄に手をかけたが、抜かれる前に両者を袈裟斬りと唐竹で殺してやった。通りすがりのニンゲンが驚きの声を上げ、特に女の悲鳴が高く響いた――。
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三日が経過したが、戦況にはあまり変化がないらしいと新聞を通して知った。戒厳令は敷かれたようだ。特段の事情がない限り外には出るなということだ。現状、そんな様子は見受けられないが、そのうち治安だって悪化するかもしれない。ベリナス一派がもたらす混乱は、間違いなく、市民生活を脅かしている、しかし、その程度の影響しかもたらせないのかと考えると情けなさを覚えたりもする。辟易するとまでは言わないが、呆れたくはなる。ベリナスよ、せいぜいもっと、がばれがんばれ。
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相変わらずベリナスは国境の外にいて、そんな彼と、首尾良くまた会うことができた。白い陣幕の中にあり、簡素な椅子に座っているベリナスは、えらくやつれたように見えた。いろいろ思いどおりにいかなくて、苦労が絶えないのかもしれない。普段は隣国の宿の部屋を借りているらしいのだが、なにせ反乱軍のトップであるわけだ。基本的にはこの陣にいることが多いのだろう。
まあまあ気になっていたことを訊ねるとする。「ディー・シュターゼンとはどうなった?」と実際に口にした。
「主に大局的な見地において、まだ勝負はついていない。さすがは騎士団の長。強い」
「第三騎士団だと聞いたが?」
「数字は役割を示しているだけだ。実力とは関係がない」
「そういうものか?」
「あたりまえのことに疎いんだな」
「抜かせ。言ってみただけだよ」
デモンは椅子の上でふんと鼻を鳴らし、脚を組み替えた。
「コロンビーヌは怖いなぁ」
ふいの一言に眉をひそめたくなった、実際、そうした。
「なんだ、いきなり」
「向こうと条件は同じだと言った。だが、じつはこちらには優れた魔法使いが多いんだ」
「だったらやはり、殺すべきだ」
「怖いことを言うなぁ」
「正しき論と書いて正論というんだよ」
ところで。そう切り出したデモンは、「コロンビーヌが紡ぎ出す、言わば魔法の禁止空間。それの限界はどの程度なのかね」と話を振った。
「わからない」というのが、ベリナスの返答だった。「全土に展開が可能なのであれば面白いな。彼女一人で、世界が変わる」
まあ、そうだろう。デモンはおもむろに左の手のひらを上に向けた。つい「おっ」と声が漏れた。ゆらめく炎が発生したからだ。
「使えない時間は長かった」ベリナスが言う。「もしかしたら、果てなく継続的に展開しているせいで狂いが生じたのかもしれない。魔法は疲れるだろう?」
「集中力は必要かもしれないな」
「コロンビーヌの凄味を感じずにはいられないし、その愚直さなまでの働きについては敬意を表するよりほかにない」
「ただの小娘なんだがなぁ」
デモンは曇天に目をやった。状況が停滞しそうな感があるので、早々に国を出てやろうかなどとも考えた。
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街に戻った。
化物どもで溢れ返っていた。
化物。毒々しい色合いの異形ばかりで、なんというかこう、それらを一言で言い表すことは困難だし不可能だ。元気なバケツのような不可解な生物もいれば、醜い竜のような気色の悪い奴もいる。片っ端からヒトを食らう――ヒトを食らうことに特化した連中であるようで、そこらじゅう、飛び散った血だらけだ。地面にも建物の壁にも飛び散っている。あまりに気持ち良くたいらげられるものだから笑いそうになった。――無駄に鮮やかな青の醜い竜が四方から向かってくる。全部全部、刀で斬り裂いてやった。ありがたいことに当面の物理は容認してもらえるようだ。そうでなければあまりに反則だと言える。
これは良くないな。
ああ、良くない。
デモンは駆けだした。
左の手のひらを上に向ける。
炎は生じたり生じなかったり――一定性、一貫性を見ない。
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コロンビーヌの屋敷。
周囲に人影はなく、彼女の護衛を担っていた男らの死体が散見される。
ああ、もう死んでいるかもしれないな。そんなふうに考えながら、玄関から屋敷へと踏み込んだ。部屋中の壁に、ねっとりとした感のある紫色の血液であろうモノが散っていた。
コロンビーヌは客間にいた。
隅っこで背を丸めて小さくなり、頭を抱えていた。
「おい」と声をかけても返事がない。
「おい」と左肩に右手をかけた。
「きゃあああっ!!」と甲高い悲鳴を上げ、コロンビーヌは身を左右によじった。
しかし振り返り、デモンのことを認めると、すぐさま抱きついてきた。幼子のように「うえぇ、うえぇぇぇっ」と泣きながらすがりついてくる。
「すごいな、おまえは」戦った上で生き延びているのだろうからと、デモンは感心した。「結界をはりながら、並行して他の魔法も使えるのか」
「使えるみたいですけれど」うえぇ、うえぇっと、やはり泣くコロンビーヌ。「これ、どういうことなんですか? あんなヒトたち、見たことがありません」
元気なバケツも醜い竜もヒトではないなと思う。
「連中に似たような生き物にはお目にかかったことがある。“ダスト”だよ」
「“ダスト”って、あの?」
「ああ、そうだ。そして、そいつらについてはわたしの守備範囲内だ」
「デモンさん、あなたはいったい……?」
「“掃除人”だよ。“超級”の、な」
結界を解け。
デモンは速やかにそう告げた。
「えっ」
「誰がゴミどもを引き入れたのか、見当はつく」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。そっちはわたしが請け合おう」
「結界を解けというのは?」
「魔法が使えれば、街のニンゲンだってゴミどもを駆除できるかもしれん」
あっ、それはそうですね!
場違いなくらいいきなり快活に、コロンビーヌははきはき言って。
「あっ、でも」
「今度はなんだ?」
「いえ、結界を解くには、ジュピトリス様の許可が……」
「事後承諾でいい。今、必要とされるのは、臨機応変さ、だよ」
コロンビーヌは物わかりのいい女だった。「わかりました」とすぐに首を縦に振ってくれたのだ。
「それで、以降、私はどうしたら……」
「以前に言い渡したとおりだ。まずは隠しワインセラーにいろ。だいじょうぶだ。ゴミとは総じて馬鹿なものだ」
勇気づけてやったつもりだが、それでも、コロンビーヌは不安げに視線を落とす。
やむを得ないな。
デモンは「オミ!!」と腹から声を発した。コロンビーヌが「ひゃっ!」と驚くほどの大声だ。オミの奴がぴゅーっと、窓から入ってきた。多少偉そうな接客用の四角いテーブルに着地したのである。
「この女と一緒にいろ。何か問題が起きたら無条件でなんとかしろ」
「デモン、いつもきみは無茶苦茶なんだ」
「黙れよ、クソガラス」
「なんとでもするよ。任せておいて」
カァと力強く鳴いた、オミ。
「コロンビーヌよ、結界は?」
「もう解きました」コロンビーヌは意外とすっくと立ち上がった。「うわぁ、すっごく身体が楽になりました。いよいよとなると、こういうことなんですね」
「結界――とんでもない魔法だ。重荷でなかったはずがない」
「優しいことをおっしゃらないでください。泣いてしまいますから」
「自分のことだけ考えていればいい。それが許される状況だ」
オミ、しっかりやれよ。そう声をかけてやるとオミはコロンビーヌの左肩に乗った。カラスが「いってらっしゃい」などと言うあたり、気が利いていると前向きに評価してやってもいい。