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地下三階。相変わらず壁の色は赤く――。空間の中央に、黒々とした立派な髭をたくわえた、それでも老年と言っていいだろう、その名も「マスター」が行く手を塞いでいる。あぐらをかいたまま右の肘を右の腿にのせ、頬杖をついている。大物感はたっぷりだ。奴さんと継続的に敵対するようなことがあれば、そいつは戦々恐々、ひどく怯えながら毎日を過ごさなければならないことだろう。マスターの隣には肩までの茶髪にブルーとレッドのオッドアイのヘレナ・オビロワの姿がある。マスターが穏やかな表情であるいっぽうで、ヘレナは緊急時のハリネズミのように目尻を吊り上げている。その覚悟は買える、買えるのだ。
「マスター……」呟くように言ったジャスティンは、目を伏せ、苦しげに俯いてみせた。「僕はわけがわからないままでいます。僕自身、どうしてこんなことをしているのかとおかしなふうに思えてきて……」
「おまえの父を討った時点で、きっと終わったのだ」断定的な口調で、マスターは言った。「良心的な面とあくどい面――我々は両方を抱えているわけだが、どうあっても前者を捨ててはいけなかった。だが、誰かが悪いということではない。ジャスティン、わしらは巡り合わせが悪かったんだよ」
所詮は巡り合わせの運任せ。
単純な帰結だからこそ、言い得て妙だなと思わされた。
「ヘレナさん」ジャスティンは訴えかけるように、彼女に対して切実な声を放った。「僕たちは争わなければならないんですか? 僕とヘレナさんも、そうなんですか?」
馬鹿笑いしてくれたほうが、まだ楽だったのかもしれない。ヘレナはその生真面目さたっぷりの強い目をして、「負けるつもりはありませんけれど、私はここで、死ぬ覚悟です」と悲壮なことを言った。「私たちは潰えるべき存在ですから、どこで行き止まりを迎えても、それでいいんです」と続けた。
「わかるかな、小僧」今度はマスターが口を開いた。「ヒトを殺めると神経のより繊細な部分が擦り減るんだ。生きていることがヘンテコに思えてくる。償いたいんじゃない。わしらはただ、消えたいのさ」
「それが自分勝手だと言ってるんです!」ジャスティンが声を荒らげた。「苦しいから死を選ぶ――卑怯じゃないですか!!」
マスターはゆっくりと首を横に振った。
そして、もっとゆっくりと立ち上がった。
「ヘレナ、下がっていなさい。この小僧が中佐に勝る逸材なのか、わしは身をもって見極めたい」
マスターに言われたとおり、ヘレナは退いた。どことなく不安げな顔をして、壁際に立つ。この階までジャスティンは下りてきたのだ。マイケルとベンが敗北したことくらいヘレナは確実に認識しているだろう。自らを含む部隊が、今、まさに、死滅しようとしている。気が気でないはずだ。侮れない。「小僧」に対して、そんな印象を抱いているはずだ。
マスターの動きは速かった。両手――計八つの指のあいだにいつのまにやらくないを握っていて、それを一気に一斉にジャスティン目掛けて放った。ジャスティンは色のない防壁でそれを弾き、すると駆けだした。右手からボッボッボッと得意の真っ赤な火の玉を撃ちながらマスターの左方に回り込む。マスターから漂ってくるのは万能感。近距離もそうではない距離もイケる口だ。対してジャスティンはあいだを保ちつつでしか闘えない。純粋培養の魔法使いのつらいところだ――が、仮に剣やナイフを生成できるのであれば――さらに、その道に長けているのであれば、互角にやれるかもしれない。マスターはいたずらに近づかない。むしろ引いて――。彼は自身の背の周囲に白い球体を計八つ、ぼわとまとった。初めて見る魔法の形状。白い球体は揃って白く鋭い、糸を引くような光線を発した。器用に――否、なんとかといった感じでジャスティンは動いたが、たった一本、かわしそこなった。威力は確か。左腕を焼かれ、その肘から先は、ぼとりと地に落ちた。角度的にうまいこと観察はできないが、ジャスティンは痛みに冷や汗をかいて苦しんでいることだろう。「次は両脚を削いでやろう」などと、マスターは不敵に笑んだのだった。
ジャスティンは左腕を右手でぎゅっと握り――止血のつもりだろうか? だが無理だな、馬鹿め。ヒトはそんなにうまくできてはいない。祈りや願いや欲求でネガティブな事象を解決できるなら誰も苦労なんてしない――血が止まるはずもないということだ。
ですけど――と、ジャスティンは言った。「ですけど」と、も一度、口にした。
「悲しいです、マスター。でも、もうわかりました」
「何がわかったんだ?」
「僕は相打ちくらいには、持ち込むことができる」
マスターは「同感だよ」と微笑んだ。
正直なのか、もっと言えば、殊の外、諦観が早いのか。
「マスター!」と、デモンは大声を発した。「おまえのキャリアをもってしても、そこのガキに劣るというのか? だったらむなしすぎるぞ。ジャスティンなんてソッコーで駆逐してみせろ。それができないおまえではないはずだ!!」
背後で円を成す幾つかの球体――なおもそれを操り、球からは真白の光線が放たれる。なにせジャスティンの左腕を焼いたのだ。胴体にまともに食らえばその瞬間に決着はつくだろう。
ジャスティンの動きは速かった。間一髪のところで光線を避け続け、やがてはマスターの前にまで至った。そこにジャスティンの決死の覚悟を見る。マスターは近接戦闘が苦手だなんてことはないらしい。徒手空拳。渡り合う。驚かされた。ジャスティンだって決して接近戦が苦手ではないらしい。ケリがつくまで、真っ向から身体を張ろうとする。マスターは強いなぁと思う。ジャスティンも一生懸命に闘っているのだが、がんばりぬいてやっとこさ互角だ。互角。ああ、互角だ。そのうち沈めることができるかもしれない。勝利の可能性は、どちらにも残されているように思う。
決着のときは、まもなく呆気なく――。マスターの振り下ろすような右の拳を、ジャスティンは左手で受け止めた。必然、マスターの――主にボディーに隙が生じた。魔法をぶち込んでやるのかと思ったのだが、ジャスティンは馬鹿正直にどてっぱらに拳を突き立てたのだった。きいたらしい。マスターは血を吐き、膝から崩れ落ちた。決した。大したものじゃあないか、ジャスティン。十七のガキが歴戦の猛者らしいマスターに勝てるなど、正直、思ってもみなかった。
デモンは立ち上がった。マスターとまで呼ばれる男の瀕死をこの目をもって確かめ、天国――地獄かもしれないが――に、送呈してやりたいと考えた。誰かのためにずっと仕え、またこうして誰かのために息絶えようとしているのだ。尊敬しないで、なんとする?
見下ろす先のマスターは、もうこれ以上はないというくらい――口の端から太い血を流しているものの――穏やかな顔をしている。ほんとうに思い残すことは何もないらしい。潔いことだ。それなりに長く過ごしてきたからこそ、自らの人生について達観しているのかもしれない。
マスターがまさに――言葉もなくくたばろうとしている段にあって、壁際で戦闘の様子を見守っていたヘレナが近づいてきた。
「マスター、今までありがとうございました」と言い、ヘレナはぺこりと頭を下げた。「私はマスターのおかげで今の立場にあります。マスターが拾ってくださらなかったら、私は臭い水をすすっていただけなのだと思います」
ヘレナは今一度「ありがとう」を言い、するととても満足したようにマスターは力なく事切れたのだった。
「ヘレナさん」仰向けのマスターを見下ろしたままの、ジャスティン。「どうですか? 僕と闘いますか?」
「横柄な物言いですね。だからとっても腹が立ちます」
「感情論は抜きにしたいです。闘うか闘わないか、それだけです」
……悔しいっ。
ヘレナはそう言い、下唇を噛んでみせた。
「かないっこないから、悔しいです」
「ヘレナさんはきっと、生きていたほうがいいです」知ったふうな口を、ジャスティンは利き。「あともう一つフロア下った先に待っているのは僕に対する無情な事実で、でも、だからといって、僕は僕の信念に付き従います」
「そうであるなら、私に言えることは、もう何一つありません」
「下りますね」
「ええ。せいぜい中佐の餌食になるといいですよ」
ヘレナはマスターの身体をぐっと抱き締めると、醜いくらいの嗚咽を漏らした。ほんとうに、エグいまでにみっともない、大きな大きな泣き声だった。