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国の名はグレシア。その街は石造りの建物ばかりで、どれも多少古びてはいるもののしっかりとした造りである。天気は良くない。現状、十二分に雨模様と言える。あいにくデモンは傘を持っていない。常にそばにある、普段は不可視の「便利な倉庫」の内には黒いこうもり傘が収まっているのだが、まあ、雨脚が強いわけでもない。小柄なハシボソガラスのオミを左肩に乗せたままてくてく歩くのである――カラスは雨が嫌いではないことくらいは経験則として熟知している。日に幾度も行水する輩もいるくらいだから。
カフェに入ったのである。開放的なテラス席もあるのだがそこはあいにくの雨である。屋内は客でいっぱい、それでも冷たいコーヒーを楽しみながら寛ぎたい。具合の良さそうな相席を探したわけだ。すぐに見つかった。見つかったというより、二人が向き合って座れる席――の向かいが空いていたので断ることもなくどっかりと腰を下ろしてやった次第だ。早速、アイスコーヒーをぐびぐび飲む。氷のせいもあって尖った冷たさが喉をつんけん撫でる。心地良い。それにしても、真ん前に座る男――若人の辛気臭さったらない。ずっと目を伏せ、暗い顔をしている。暗い顔――その表情はいっこうに変わらない。興味がないので何も訊いてやらない――「どうしたんだ?」と訊ねてしまった。わたしは決め事を途中で翻すつまらない女なのだなと思わされてしまったとか、そこまでは言わない。
「あなたは、たとえばだ、綺麗なヒト」と、声をかけてきた。
綺麗なヒト。
どうやら一般的にフツウと言える見る目くらいは持ち合わせているらしい。
少々顔を上げ、あまり元気さが感じられない茶色の瞳で見つめてきた。黒い短髪が爽やかな、まだ二十代のなかばに差し掛かった程度ではないのか――そんな、言ってみればイケメンが微笑む。悲しそうに笑んだようにも見えた。
「恋人が殺されてしまったことを、俺は誰かに話したかったんだと思う」
興味深い話題だなと思い、デモンは「ほぅ」と口をすぼめた。
「おまえがどういうニンゲンかは知らんが、これといったマイノリティーではないのであれば、相手は同世代の女性だという判断に至る」
「微妙に違う。俺が大学を出たのはもう五年も前のことになるが、彼女が卒業したのは半年前なんだ。司書に就いた。小さな頃からの夢だった」
「誰にどうやって殺されたんだ? 無論、話してくれんでもかまわんが」
すると男は「誰かに聞いてもらいたいと思う――そう言った」と、口元に薄い笑みを浮かべた。
「その日、訪ねたとき、アパートの、部屋の鍵が開いていた。このご時世だ。自衛の手段を講じないのは消極的すぎる、俺の恋人がどれだけヒトに優しくとも……。妙だなと思って戸を引いて開けたら、恋人は仰向けに倒れて絶命していた。彼女の唖然としたような表情は、生きているうちは忘れられないだろう」
「不幸な話だ」流れで憐れんでやった。「警察の見立ても一定なんだろう? だったら、犯人がソッコーで捕まっても驚きはしないというものだが?」
目星はついてる。
男はつまらなそうに、そんなふうに打ち明けた。
「なのに、まだ逮捕には至っていない?」
「そういうことだ。不思議だな」
「ちなみに、どんなニンゲンなんだ?」
「ニンゲンというのとは、少し異なる」
「と、いうと?」
「
デモンは小さく二度、三度と頷いた。
ゴーレム、確かにニンゲンではない。
「強姦された痕跡でも?」
「あった、死姦らしい。――でも」
「でも?」
「ゴーレムの精液が土色だとは初めて知った」苦笑のような表情を浮かべた男。「彼女の性器からそれが溢れ出しているのを目にしたとき、俺は笑ってしまったよ」
「土色か」面白いとしか言えない事象なので、デモンだって「あっはっは」と笑ってしまった。「確かに、それは爆笑してしまってもおかしくないな」
やりきれないと男は言い、それから肩を落とした。だが、冷静な姿勢を崩すようなところはない。元より出来たニンゲンなのだろう。過去にしどろもどろに、あるいは取り乱したこともなければ、この先もずっとそうなのではないか。子どもの頃からそういう性質である者は、ときにはいる。
「あなたはどう思う?」
「若気の至りではないのかね?」
「俺もそう思っているんだよ」
「不幸だとは、やはり思わなくもないがね」
彼女は司書だった。
――と、男はあらためて言って。
「たとえば、図書館勤めだった?」
「そうだ。最初は気のいいお客さん、若者だったらしい。だが、いつしかストーカーじみた行為をくり返すようになった」
「その若者――ゴーレムの年齢は?」
「十七だ」
「となると、左手の甲に五芒星のタトゥーが入っているというわけだ」
男は意外そうな顔をした。
「へぇ。詳しいな」
「それくらい常識の範疇だろう?」それで――と、デモンは前置きし、「おまえはどうしたいんだ?」と訊ねた。
「思うところはある。ああ、俺の恋人は、アーリィというんだが」
「いい名だ」
「ほんとうに、そう?」
「肝心なところで、嘘はつかん」
「あなたの名前は?」
「デモン・イーブルだ」
「それこそ、いい名前だ」
「嘘をつくな。邪悪すぎる並びだろうが」
男は肩をすくめるばかりで、否定も肯定もしなかった。
「おまえの名は?」
「ヴェイン。ヴェイン・アルマシー」
「だったらヴェイン、おまえはいったい何がしたい?」
「簡単だ。犯人は殺す。ゴーレムどもも皆殺しにする」
「できるのか?」
「俺は一応、“超級”の“掃除人”なんだ」
さすがに驚かざるを得ない。確かにやりそうな物腰ではあるが、まさか自分と同じ肩書きとはとデモンはびっくりさせられた。ときには意外な出会いが待ち受けているらしい。
「とはいえ超級よ。それだけの地位を得ているのであれば次を探せと言いたいところだ。――が、まあ、そうもいかんか」
「そのとおりだ」ヴェインは肩を落として。「あなたは案外、ヒトの気持ちがわかるみたいだな」
「案外とは余計だし、そんなのどうだっていいが、命を賭すのだろう?」
「当然だ。もう決めたことだ」
「ゴーレムどもの命に、そこまでの価値はあるのかね」
「アーリィは、いい女性だったんだ」
「それはとうに見当がついている。だがしかし、という話だ」
そう切り返しても、「決定事項は変わらない」との強い決意――。
――と、そのときだった。
デモンの右方、ヴェインの左方から、いきなりもいきなりだ、魔法――渦巻く炎が飛んできた。至近距離ではなかった。多少のあいだがあった。防御も何もなかった。不意打ちとはそういうものだ。その気配が感じられない以上、具体的な察知が遅れるのはやむを得ない。にもかかわらず、ヴェインは左手を広げ、いっさいの炎を遮ってみせた。なかなかの反応だし、そこに確かな技量を感じさせた。周りのニンゲンが巻き込まれる格好で多少の被害が出たようだが、多少は多少だ。気に留めるようなことでもない。弱い奴は殺されたところで文句を言えない。真理だ。
ヴェインはというと、炎が飛んできた方角を目がけて、もうとっくに走りだしている。仕留めてやる――なる意気込みゆえの動きの速さだろうか。手を下した人物は全身を使ってガラス壁を突き破り、逃走を図った。ヴェインが続く。デモンもすぐさま後を追う。
――街中の入り組んだ路地を忙しなく左右に折れて進み、やがてヴェインに追いついたとき、その向こうに敵さんと思しきニンゲンの姿はなかった。
「逃げられたのか?」デモンは訊いた。
「ああ。はしこい手合いだったみたいだ」ヴェインは答えた。
デモンは目を上にやった。今さらながらの曇天にあらためて気づきつつ、腕を組み、それから右手を顎にやった。
「真にゴーレムは? この街には少なくないのか?」
「小さな国、街ではないんだ」ヴェインは答える。「大きな支部がある。誰を向こうに回しても、やる気は満々だということさ」
「なんのやる気だ?」
「彼らは何かを求めているわけじゃないと言う。なのに、自らの権利は主張する」
「なにせヒトのかたちをしているんだ。ニンゲンとはいえ、真っ向から否定するのは難しいし、現実的ではないな」
だけど潰す。
ヴェインのその声、言葉は力強く――。
「死んだアーリィは、今頃、どんな思いでおまえを天から見ているんだろうな」
ヴェインは口を歪め、嫌な笑い方をした。
「あなたがそんなあたりまえの物を言うとは思わなかった」
「馬鹿抜かせ。言ってみたというだけだ。そして」
「そして?」
「おまえの言動の帰結を見たい。ご一緒させてはもらえんかね?」
ヴェインはぬめりと濡れた妖しい視線を寄越してきて――。
そこにはきっと、仄暗い思いしか宿っていないわけで――。
「帯刀しているくらいだ。加えてまとう空気がフツウじゃない。だけど、誰にも協力してもらうつもりはないんだ。女性ならなおさらだ」
「ゲラゲラ笑いたくなる」デモンは皮肉に顔をゆがめた。「あいにくと、わたしはおまえと同じ超級なんだよ」
「まさか」
「なんなら立ち合ってみるかね。それをやった以上、おまえは死ぬことになるが」
嘲笑の視線を向けてやった。
ややあってから、ヴェインは納得したように頷いた。
「どこまで協力してくれるのか。今ならわかる。デモン、あなたは快楽主義者で個別主義者なんだろう?」
「わたしとしては遊びたいだけだと言っても、おまえ自らの利益が見込めるのであれば、組んで損はないはずだ」
ヴェインは笑った。
初めて、それなりに朗らかに。
「潰したいものを潰すことができれば、俺はそれだけでいい。わかった。俺と歩調を合わせてもらいたい」
「非常に喜ばしい返答だ」
デモンはハイクオリティな執事のように、深々と辞儀をした。