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11-4.

*****


 宿のベッドで、無論、いつも一人で寝るつもりであり、寝ていたいし寝ているわけであるのだが、今日は胸に顔を埋めている者が一匹、女子がいて、夜の名にあってはそう、確か――リン。


 状況を的確に推し量ればその本人はいたって泣いたっておかしくないはずなのだが、リンは泣いたりしない。苦しい最中にあっても泣かないニンゲンは強い。だからリンは今日も強い――かなり、強いと言える。


 左手でそっと頭を撫でてやると、リンは「ひゃあぁっ」などと声を上げた。かわいい奴だなと思う、ほんとうに、かわいい。自分にも母性があるのかもしれないとすら考えさせられるのはこんなときである。むさっくるしいがそんなこともあるわけだ、世界は広いのだ、ばっきゃろーめ。


「べつにいいんだぞ」

「おねえちゃん、それってなんの話?」


 デモンはその柔らかな後ろ髪に右手の指をからめ、それから言った。


「高い空を望むおまえがいて、暗いままでいいと言う誰かが……ああ、そうだったな……『ワンロン』とやらがいる。まるで御伽噺じゃあないか、ふふ、あぁ、じつに素敵だねぇ、まったく」

「きっとそうなのかもしれないね」デモンの胸の内で、リンはきっと毅然と苦笑し――。「だけど、そうあるべきが健全なの。健全だって思うから」

「健全?」

「空は青いほうが、健全だと思うんだよ?」


 涙がちょちょぎれんばかりの素敵すぎる一言だ。この少女はどこまで犠牲的なのだろう。恐らく心が綺麗なのだ。そういうニンゲンは今の世にあってはつくづく珍しいように思われる。気のせいだろうか――なら、いいな。それならそれで喜ばしい――なんてな。


「おねえちゃん、柔らかいんだね」

「胸の話か?」

「そう、おっぱいの話」


 それはそうだ。

 そうなんだぞ?

 女なのだから、胸くらいはそんなふうにできているんだぞ?


 ――ついつい笑みがこぼれてしまう。



*****


 「ワンニンガーデン」とやらは、ちょっと異質だった。外見だと確かに武骨な六角形の、緑の屋根の一階建てにすぎないらしいのだが、玄関から入ってみると、空間自体がえらく広い。建物のサイズ以上の奥行きやら幅やらが感じられる。気色が悪いことだと思わされた。相手の陣地にあからさまに踏み入ったときに似たような感覚に陥るものだが、これはまた、少し違う。この平屋がワンニンガーデンはヒトを取り殺すことを第一にしているのだろう。剣呑すぎる。そんな空気が漂っているものだから、どう考えたって油断できない、面白い――。


 床は白い、壁も白い。どうやら六角形の辺の部分を延々と歩かされているようだが、その理由もいまいちよくわからない。とにかく歩かされてばかりいる。そうである以上、館の中央に目当ての物や人物があるのだと思われるが――。


「デモンおねえちゃん、終わりが来ないね」


 やむを得なさそうに笑んだリンは、かなり尊い。

 賢いのだから、当然、尊い。


「このままだと、この館から出ることもできないだろうな」

「やっぱり?」

「ああ、この空間自体、奴さんに支配されている」

「えっと、破るみたいなことは……できる?」

「さあな。だが、暴れることなら簡単にできる」

「えっ」

「しないさ、そんな真似は」デモンは薄く笑った。それから「ただ、見ているだろう、おまえは、ワンロンだったか!」と声を張った。「くそったれのワンロンだ!!」と続けて発した。


 馬鹿がっ、かかってくるといい!!

 デモンの威勢のいい高い声が、六角形の縁を描く細い廊下に響いた――。


 空間が揺れ動いた。気がついたときには、館の中央と思しき場所にいた。意味不明だ、不可解だ――が、それは奴さんが対峙しようとしてくれた証左なのだろう。ようやく向き合ってもらえるわけだ。早速目に物見せてやるぞ、くそったれめ。軽々にヒトを舐めるのはよせという話だ。


 真白の空間の中、目の前に現れ、いるのは、顔面傷だらけの太った醜男ぶおとこで、豪奢な椅子の上でただ微笑み、「やあ」と重ねて微笑んだのだった。っとにブサイクだな。「チクショウ」――阿呆な罵りが飛びだそうとする。



*****


「私は暗闇が愛おしいんだ。なぜだと思う?」デブの醜男が高らかに問うた。

「わかりません」とハキハキ答えたのはリンだ。


「簡単だ。暗いほうが、私の醜悪さは目立たない」

「えっ!」と驚きの声を上げたくもなるだろう、リンは「たったそれだけの理由なんですか!」ときっちり訊ねた。


「リン、それはいけないことなのかな?」

「私の名前、知っているんですね」

「やかましいな。私の暗闇を阻害しようとする存在だ。知らないはずがない」

「この街のヒトは、青い空を知らないんです」

「そんなことはない。たとえば海外旅行に行くニンゲンも少なくないはずだ」

「私はこの街にきちんとした秩序をもたらしたいんです」

「もたらしたい、か。難しい単語を知っているのだなぁ、はははははっ」


 軽い調子でつくづくワンロンは笑った。ほんとうにただのデブだ。なのに、この、どことなく漂わせる大物感はほんとうになんなのだろう。


「私は闇を続けたい。きみらはそれを。良しとしない」

「はい」

「だったら簡単だ。そちらの女性に――只者ではないのだろう、そちらの女性に、私を殺させればいい」


 リンが見上げてきたので、デモンはその小さな頭を優しく撫でてやった。


「力こそすべて――わたしにとってそれが信念であることは間違いないが、この小さな小さな少女に出会って、少し考えとそれにまつわる風向きが変わった。その上での結論だ。暗い空と明るい空。どうあったほうが、ヒトは前向きに生きられるのかね?」

「あなたの考えを否定するのは簡単だ。私が力ずくで、拒めばいい」

「ほぅ、醜き男よ、貴様にはそれができる、と?」

「やってみなければ、わからない」

「だったらかかってこい。相手をしてやろう。闇の王よ、おまえは無様だ」


 卑屈にデモンは笑い、ワンロンは高らかに、まるで勝利を確信したかのように笑った。


「勇猛果敢だ。闇を好むニンゲンのほうが、ずっと多いというのに」

「だ・か・ら、それは統計でもあるのかね、ワンロンよ」

「一般論で十分だ。闇があたりまえなら、闇にあったほうがずっと安心するという側面は、必ずある。ゆえに、この街は暗くあっていい」


 それは暴論だと思うんだがな――。デモンがそう言おうとしたところで、リンの奴が、「みんな明るいほうが好きなんです!!」と大声でかなりの真理を説いた。涙が出そうになったわけではない、感動したということもない。ただ、果てしなく力強いその言葉は、暗闇にあるすべてを照らし出したように思えた。


「デモンおねえちゃん!」

「なんだ?」

「このヒトを殺してください! もう、要らないよぅぅっ!」

「承知したよ、まったくもって、かわいいな、言ってみればワロス、だ」


 ソッコーで踏み込み、抵抗の間を与えず、また抵抗の素振りすら見えないワンロンを、刀でもって一息に唐竹にしてやった。ぐだぐだ抜かしてくれたわけだが、奴さんの血はきちんと赤かった。「妄想の権化」とでも評すべき卓越した存在だったのに、そこはきちんとニンゲンだったのだ。特段の明確な理由もなく暗闇を愛するニンゲンがいたって、それは決して間違いでもないのだろう――だからこそ、あっさり闇の海に沈んでしまってもおかしくないというわけだ、そのへん、しみじみとでものたまうべきか――愚かしいな……。



*****


 ここで行き止まり、ここで終わりにするんだよ?


 デモンの宿でロッキングチェアを漕ぎ漕ぎ、リンはそんなふうに言い――。


 ベッドの端に腰掛けているデモンは、「行き止まり、あるいは終わりだというならそれでいい」と述べた。彼女は「フツウに思考すれば、闇の王たるワンロンがいなくなった時点で、事は解決だ。ずんぐりむっくり重苦しい曇天だっていずれは晴れるのだろう――となる。であるのに、まだ何か問題があるのかね?」と問うた。


「闇を解決する必要があったの」

「それは知ってる。だいじょうぶなのだろうとも言った」

「人柱が必要、だということ」

「人柱?」

「何を手に入れるにしたって、対価は要求されるでしょ?」

「リン」デモンは厳しい顔をした。「そんな難しいこと、ガキのおまえが考えることじゃあない」

「だけど、やっぱり、空はきっと、青いほうが素敵だから」


 リンはにこにこ笑う。

 ロッキングチェアから立ち上がった。


 彼女は胸にくだんの羅針盤を抱いている。

 無意味無価値にしか思えないなんのことはない木の板を抱いている。


 そのうち、リンの姿が粒子になりはじめた。

 それはほんとうに、白い白い粒子。


「ありがとう、デモンおねえちゃん。これで私は、私に胸を張れるんだ」


 デモンは咄嗟に手を伸ばした。「待てっ」と口にし、リンの小さな頭もろともその右手に収めようとした。しかし手応えなど得られず、彼女の手は右手は、リンのことを通過した。


「ほんとうに私は、それってきっと綺麗なものだから、それをみんなに見せてあげたかっただけ。だから、ほんとうに、悔いなんてないんだよ?」

「おまえの死なんてぇ、わたしが望まない……っ!」

「ふふ、大きな声も出せるんだね、デモンおねえちゃん」


 デモンはリンを、白い発光体を抱き締めた、できる限りの力を込めて。


「おまえは阿呆だ、ほんとうに阿呆だ。チクショウだよ」

「でも、これは死じゃないの。私は青空になるんだから」


 デモンは悲しみに顔を歪ませる。彼女の右の頬に一筋の涙が伝った頃、リンは鮮やかに静かに、真白の粒子と散って消え失せた。抱き締めていたかったのに、閃光すら思わせるその一瞬の輝きは、デモンの干渉を受けることなく、指からも腕からもすり抜けてしまった――。


 しかしだ、悲しむのもそこそこに、表に出た。それができるあたりがデモン・イーブルの良さなのである。見上げる。重く垂れ込めていた雲が限りのない天に吸い込まれるように、まるで浄化されるかのようにして消えてゆく。そのうち、ぽっかりと空が覗いた、大きな口だ。口が空いた。間違いない。これはリンが作った青空だ。


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