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朝っぱらから用意させたローストビーフを、カラスのオミは食っている。安宿にふさわしい質が低そうな代物だ。しかし、本人はあまり気にならないらしい。文句を言われたら引っぱたいてやるつもりではあったのだが。とりあえずデモンは何も気にすることもなく、フロントで借りた新聞に目を通している。斜め読みだ。面白い記事はないように思う。どのような土地においても、まま言えることだ。
「ねぇ、デモン」カラス野郎が訊ねてきた。「今日は誰と会うんだい?」
「どうして誰かに会うとわかるんだ?」デモンは新聞のページをぺらりとめくり。「とはいえ、教えてやろう。ドーパーさんとやらだ」
「ドーパー?」
「ドーパーの名は口にしただろうが。昨晩、話した」
「話してくれてないよ? 眠かったんじゃない?」
「どうあれ性格の良いわたしだから語ってやろう。なんでもドーパーとやらは、リンを殺そうとしている男らしいんだよ」
「えっ、そうなの?」
「今、そうだと念押しのつもりで話した」
デモンは優雅にレモンティーをすすった。
「そのドーパーさんは、どうしてリンちゃんを殺そうとしているの?」
「知らん」
「えっ、知らないの?」
「知らんと言った」
「うーん、不可解なんだ」
「だから、訪ねてみようと思うんだよ」
ぼくはどうしよう。
オミがくりっと首をかしげた。
「また得意の友だち探しでもすればいいだろう?」
「ダメなんだ。この街の空気は重すぎるんだ。だから鳥も元気がないんだ」
「だったらこの部屋にいろ。一応、窓は開けておいてやる」
「助かるんだ」オミは嬉しそうに「カァ」と鳴いた。「それにしてもなんだ、デモン。この街を明るくすることに、ほんとうに意味なんてあるのかな? リンちゃん――いったい彼女は、どんな希望を抱いているのかな?」
デモンは「そのリンから聞かされた話なんだが」と切り出した。「どうやらこの街は、言ってみれば、あっけらかんと呪われているらしいんだよ」と続けた。
「あっけらかん? 呪い?」
「あっけらかんだ、呪いだ。たとえば殺人事件の数なんかがハンパないそうなんだよ」
「そうなの? でも、それくらいだったら――」
「であれば取り締まりを強化しろという意見があってあたりまえだが、そういうことだというだけだ」
「リンもそこはしょうがないと感じてる?」
「だと、いうことだな。アレは、賢い」デモンは皮肉に顔をゆがめ、肩をすくめた。「リンの思いがわからんということはないんだよ。いつまで経っても空は暗いわけだ。だったら気が滅入り、なんらか悪い方向の企てをするニンゲンだって出てくるだろう。そうは思えんかね? 考えられんかね? そのへんどうだ? カラス殿」
オミは「リンは立派だね」と、知ったふうな口を利き――。
「でもさ、リンがドーパーに会う必要はないんじゃないの? だって、ドーパーはリンを殺そうとしているんでしょ?」
「自分を殺そうとしているニンゲンを野放しにしておいて、気分がいいと思うかね?」
「そういうことなの?」
「リンは賢人だと言った――。ガキのくせに、頭のいいニンゲンなんだよ」
「どうなるのかなぁ」
「とにかく、おまえはこの界隈にいるといい。必要とあらば、呼ぶ」
オミはカァカァと二つ鳴いた。
「これは異な事。きみに呼びつけられるシチュエーションは想像がつかないからね」
「クソガラスが、黙っていろ」
デモンは会話を乱暴に打ち切った。
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約束どおり、デモンはリンの家を訪れた。リンの父親である海老剥き屋は「やぁ、いらっしゃい」と無警戒な笑顔を寄越してくれた。商売人の人懐こい笑みだ――つくづくそう感じられる。
「リンなら上だ。会ってやってくれ」
「わかっているよ」
狭苦しい階段を上って、二階の、リンの部屋に至った。リンは白いふわふわとした輪郭のフェイと話をしていた。フェイは両膝を折り、リンと目線を合わせ――。リン笑い、フェイも少しだけ笑った。仲良しだと思われていることは、もはや間違いないだろう。
「ああ、いらっしゃいましたね、デモン」
フェイはそんなふう言ったのだが、白い粒子の集合体でしかないであろうはずの彼女がどのようにして何かを視認しているのかまったくもってわからない。やはり特殊な魔法なのだろうか。自らをの姿を、まるでそこにあるように表現する――まあ、それならそれでかまわない。それくらいのテクなど、あってもなくてもいい。あったところで驚きはしない。魔法とはそういうものだ。
「ではリン、くれぐれも気をつけるのですよ?」
「はーい! フェイさんも元気でね!」
そんなやりとりがあって、フェイは静かに、やはり粒子が散るようにして、ぱぁっと姿を消したのだった。
「おねえちゃん、お茶、要る?」
「こういうときは、黙って出すものだ」
「ごめんなさい」
「いいさ。ドーパーとやらのところに行くんだったな」
「うんっ」
「しかし、どうして出向くんだ? そのへんの事情については聞かせてもらってないぞ」
リンは少々、難しい顔をした。
「じつはね、おねえちゃん、ドーパーさんが羅針盤を持っているの」
「羅針盤? ドーパーさんが、羅針盤?」
「そう。ブラフマー様に降りてきてもらうのに必要な物なの」
デモンは眉根を寄せた。
「降りてきてもらう。それが見立てとやらだということか?」
「さすがデモンおねえちゃん、勘がいいんだね」
「ここまでの流れで、それくらいはわかる。で、羅針盤、だったか」
「うん。それはとても必要なの。ないとブラフマー様には許されないの」
「許される必要があるのか? その点については、合点がいかんな」
「さすがデモンおねえちゃん」
「それはもう聞き飽きた」
デモンは「ところで――」と話を変えるようにして切り出した。
「リン、おまえがやろうとしていることは、ほんとうにこの街のニンゲンのためになるのか? 仮にそうだとしても――」
「あー、他人のためにがんばる必要なんてないって言うんでしょー?」
「ズバリな言い方をしてくれる。そのとおりだ。違うのかね?」
「私はこの街の人たちに日の光を浴びてほしいから」
「日の光なんて、ここから離れればどこでだって見られるんだぞ?」
「言い方を変えるね? 私はこの街に日の光を当てたいの、浴びせたいの」
デモンは渋い顔をして、「やはり、よくわからんな」と言った。
「だが、おまえに決意があるならそれでいい。付き合うぞ」
「ありがとう」リンは喜ばしげに頷いた。「でも、まずはドーパーさんに羅針盤を譲ってもらわないと」
「話し合いが通じる相手なのか?」
「ダメだと思う。だから――」
「ああ。わたしに力を貸せということだな? あるいは強力な脅しとして」
「そうなの」
デモンは肩をすくめ、それから「行こうか」と早速言った。「うんっ」と元気な返事をしたのは無論、リンである。
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ドーパーは見る鯉と食べる鯉を売りさばくことを生業としているようだ――が、そのじつ、裏でクスリをさばくのが本業らしい――と、ドーパー自身が打ち明けてくれた。ドーパーは三頭身くらいしかないのではないかというくらい、顔が大きく、背の低い男だ。問答無用の太っちょでもある。どう見たって狭い、そうでありながらも豪華な調度品が並ぶ薄暗い部屋に招かれた。異常さを感じさせたのは、ドーパーが水槽で泳いでいた小柄な紅白の鯉をがしっと右手で掴み、ぴちぴち跳ねるそれを頭から食べ始めたことだ。デモンは何も驚きはしなかったが、リンは顔を背けた。それはそうだ。ある種の惨劇、目を逸らさずにはいられないだろう。
白いスーツにスキンヘッドのドーパーは緑の背もたれのある椅子に座るとにっしっしと笑う。にっしっし、にっしっしと笑い、「ようやく会えたね、リンさん」などと軽い調子で言い、またにっしっしと笑った。
「そちらのねえさんが、言ってみれば助け船かね?」
違いないので、「違いない」と答えておいた。
「羅針盤をくださいっ」リンがいきなり語尾跳ねで用件を言った。「ドーパーさんが持っていても意味なんてないはずですっ」
「意味がないこともないね」やはり、にっしっしと笑うドーパー。「そもそもリンちゃん、この一帯――街において、空を明るくすることに、何か価値があるのかね?」
「あります。みんな、綺麗な青空を望んでいますっ」
「主語が大きすぎるね。だから事実ではないかもしれないと言いたいね」
ついにはドーパー、鯉を骨までがりがりしゃぶった。
「そんなことありません」大きな声を出した、リン。「ドーパーさんのお仕事を詳しくは知りませんけど、べつに明るい世界にあったって、それはできるはずです!」
「商売うんぬんはどうでもいいね、私は暗い世界が好きなんだ、邪魔だ、きみは、にっしっし」
「それはどうしてですか?」
「日の光が嫌いなのさ」
「たったそれだけの理由なんですか?」
ドーパーは深く頷いた。
「世の中、眩しさを嫌うものだっている。おかしなことではないと思うがね」
ドーパーの言い分には一理以上のものがあるように感じられた。夜を好むヴァンパイアがいるように、明るさを嫌がるニンゲンがいたっておかしくないだろう。
「でも、羅針盤はください。じゃないと私は困ります」
「だからリンちゃんよ、そいつはできない相談ね」
うだうだやるのは性に合わない。ゆえにデモンは椅子から腰を上げるとニ、三歩み、ドーパーの首に刀の刃のほうを突きつけた。
「ドーパーとやら、わたしはこの小娘の力になってやると決めたんだ。よって、素直に言うことを聞いてはくれないとそれなりに困るんだぞ」
――突然のことだった。突きつけていた刀の刃を、ドーパーが右手で、素手でガァンと弾いたのだ。そして至近距離から炎の魔法を放ってきた。咄嗟にかわそうとしたのだが、かわせはしたのだが、それでも着衣の腹の部分を焼かれた。ああ、まったく、デモン・イーブルの着衣はどれもこれも値が張るというのになんたる暴挙、あるいは暴力か。ドーパーはデモンの腹を蹴り飛ばしてくれた。油断したつもりはないのだが――じつは油断したのだろう。ドーパーはぴょんぴょん跳ねて、部屋の隅に至った。
「にっしっし、ねえさん、ぬるい反応ね」
「ああ、残念ながらそのとおりだ。弁解の余地などない。しかし、おまえにはもう、逃げ場がない」
「ねえさん、そうかね? 私はこれでも使える身ね」
すると、ドーパーは両手を前に突き出した。「焼け死ぬがいいね!」などと大げさなことを発しつつ、渦巻く炎を放ってきた。すぐ後ろにはリンがいる。避けるわけにはいかない。デモンは身体に密着するようなかたちの氷の壁を前に張った。――見事に防いだ。炎が止んだところで壁を解除、すぐさま刀を振りかぶる。「好きにするがいいね!」などと不遜なことを述べたドーパーのことをデモンは鮮やかに袈裟斬りにした。手応えについては、結構、良かった。それをやったことはないが、豚を一刀両断にすれば似たような感覚が得られたのではないか――。
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ドーパーの屋敷を散策して、そのうち「あっ、これこれ、たぶんこれだよ?」とリンが目当ての物を見つけた。くだんの羅針盤である。見た感じ、フツウの羅針盤だ――多少大きくはある。方角の参考になる程度の、フツウの役割しか有していないように映る。だから、「ほんとうにそれが役に立つのか?」と訊ねた次第だ。「フェイさんが言ってたから、きっとこれでいいんだよ?」とリンは満足げな表情。ドーパーが死んだことは面倒だなと思った。そのうち、自らが見つけられ、尋問に訪れる警察があるかもしれない。まあ、それはそのとき、考えれば良いことではあるのだが。
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帰り道。路地の集合体と言って差し支えない街はほんとうに暗い。陰気で辛気臭いということだ。確かにこの調子がずっと続くようであれば、抜けるような青空を求めるニンゲンも現れるのかもしれない――が、それはほんとうに耐えきれないほどの事象なのだろうか。空が欲しいならつくづく他の街に――国に移れば良いではないか――とは思うものの、ここに明るくあってほしいという奴は実際にいて、その代表がリンなのだろう。少々、ほんとうに少しだけ、涙ぐましい話である。
「ねえ、デモンおねえちゃん」
「なんだ?」
「最後まで、私に付き合ってくれる?」
「そのつもりだが、最後とはなんだ? 具体的に聞かせてもらっていないぞ」
「それは最後になればわかるから。ううん、わかるはずだよ?」
デモンが難しい顔を向けると、リンは満面の笑みを浮かべた。
「おいしいおかゆ屋さんがあるの」
「かゆ、か。あれは腹が膨れる気がまるでせんだろう?」
「そんなこと言わないで、食べて帰ろう?」
「金は? 持っているのかね?」
「ううん。もちろん、おねえちゃんの奢りぃ」
調子のいい少女である。