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11-1.

*****


 腐った水の匂いがえらく漂うひどく狭く暗い路地、こういうのを胡同フートンというのだったか――ここら一帯はそんなふうに構成されていて、偶然立ち寄ったというわけである。めんどくさいところに迷い込んでしまったものだとも言う。こんな汚い土地では綺麗な宿など望むべくもないだろう。それって結構苦痛だ。人並みに綺麗好きであるデモン・イーブルからするとそれはもう――。


 デモンの左肩に陣取っている小柄なハシボソガラスのオミが、「なんだか生臭いんだ」などと言った。わかりきっていることだから叱責し、その小さな頭をぽかっと叩いてやった。「ひどいんだ、痛いんだ」と返してきた次第である、まったくなんとやかましいカラスか。身の程をわきまえていないとも言える。


「それにしても暗いね。ほんとうに暗いんだ」

「それはもう知った。何が言いたいんだ?」

「こんなところじゃあ、犯罪率も高いんだろうな、って」

「統計を取っているようには見えない感じだ。そういうところなんだろうさ」

「どうするの? 歩くの?」

「ああ、歩くんだよ」


 ほんとう、暗い、いろいろと臭く匂う路地を歩いていたわけだが、すると、比較的背の低い円柱状のガラス作りの水槽を見つけた。綺麗に使っているらしいことが窺える。中ではグレーの海老がいくつも必死に泳いでいる。水はかけ流しになっていて、いかにもぴちぴちと活きが良く健康そうだ。こんな冴えない闇の街にもかくも元気な生き物がいるのかと感心したくもなった。恐らく「海老剥き屋」とでもいうのだろう。そういう街にあるこういう露店はそう呼ぶのだとどこかで耳にした覚えがある――覚えなどという薄っぺらい知識があるだけだが。


 海老剥き屋の主人らしきなんの変哲もない中年男性が「ねえさん、何か入用かい?」などと訊いてきた。ねえさんというと年を食ったような呼称に聞こえ、だから抗議したくなる思いもなくはないのだが、デモンを前屈みになってしげしげと水槽を見つめた。海老の味は嫌いではないのだ。ぷりぷりとした食感も捨てがたい。海老は結構高尚な生き物だとすら考えている。


「珍しいな。海老そのものに興味があるのかい?」

「というより先にだ主人、海老剥き屋は儲かるのかと問いたい」

「儲かるわけじゃないさ。ただ、まあ、親の代からずっと続けてる稼業だ」

「ここの海老は? うまいのか?」

「うまいさ。総じて、海老はうまいものなのさ」

「なるほどな」デモンはすっくと立ち上がった。「よって、うまい海老を食わせてもらえる宿を得たいところだ」


 主人は「あるさ、あるさ」と「あるさ」を二回言って、「ウチは宿にも届けてる立派な海老剥き屋なんでな」と誇らしげだ。


「メモが必要か?」

「いや、口頭でいい」

「さすがだな、ねえさんは」


 何が「さすが」なんだか。

 しかも会ったばかりだというのに何をほざく?


 愛らしい赤いトートバッグを左肩にかけたかわいらしい少女――十二程度ではないのか、そんな奴が「ただいまーっ」と元気の良い声を上げながらやってきた。デモンのほうを見て、デモンを指差して、「お父さん、このひとだぁれ?」などと言った。指を指すのは礼儀としてどうかと思うのだが、そこには無邪気さが溢れているように感じられるので不問に付してやった。まったくもってお優しいデモン・イーブル様である。ついでにオミは挨拶なのだろうか、一つ「カァ」と鳴いたのだが、それはそれでやかましい。


「おねえちゃんはなんのヒト? ねぇ、なんのヒト?」


 なんのヒト、か。

 率直すぎる質問には目眩すら覚える。


「何を答えればいい?」

「んとね、じゃあ、名前と職業」


 まるで警察官みたいだなと思う。


「そんなの、言わん」

「えー、どうしてぇ?」

「何も得をしないからだ。ただ、おまえの名は聞いてやろう」

「んとね、リンといいます」

「いい名だ」

「えっ、そうなの? だったら、てへへ」


 まさに照れくさそうな顔をした少女――リンである。


「おねえちゃん、おねえちゃん」

「確かにわたしはおねえちゃんだが、一度言ってもらえればわかるぞ」

「私の部屋で、話そう?」

「かまわんが」とデモンは答え、それから「何を話すんだ?」と訊ねた。


 するとリンは「私室だよ? それなりの内緒話なんだよ?」などと非常に生意気な単語を用いた。なんとなくの目眩、また覚えたのである。


「なんの話がしたいんだ?」

「フースイ」

「フースイ?」

「風に水で風水だよ」

「へぇ」デモンは感心した。「この世にはほんとうに、そんな不可解な概念が存在したのか」


 するとリンはぷくぅと両頬を膨らませ――。


「不可解なんかじゃないよ。風水は実態を伴って、このあたりに存在してるの」

「実態ときたか。だからといって、街の存立か? それに風水が寄与しているなとは思えんな」

「だからそんなことはないんだよ?」今度はリン、にこりと笑った。「おねえちゃんはなんだかとっても信用できるような気がするから、できれば手伝ってくれないかな? ううん。手伝ってほしいの」


 話の内容自体は問答無用で胡散臭くあるのだが、そうでありながらもなんだか興味深いことをほざいてくれる少女である。


「お父さん、このヒト、家に上がってもらうね? いいよね?」

「ああ。美人さんならオッケーだ」


 空気を読んだオミが「カァ」と述べ、ばさばさと夜の空へと飛び去った。



*****


 二階に上がらせてもらった。壁際に立派な勉強机があって――街が暗いせいで部屋も暗いが、とにかく机は立派で、親の愛情のほどが窺い知れるというものだ。少女――リンいわく、母親はずいぶんと前に亡くなってしまったらしい。悲しみが癒えたのか、自然とそういった記憶は美化され綺麗に思えるようになるのか、そのへんはよくわからない。リンは座布団を出してくれた。よっこらせとあぐらをかいてみせると、「おねえちゃんはゴーカイだね」などと言われた。その点、否定はしない。「茶くらい出せ」と口に出しそうになったが勘弁してやった。いくらなんでも子ども相手に、と、思った次第である。


「でだ、リン、わたしになんの用事かね?」

「結論っていうのかな、そこから話してもいい?」

「そうしてもらえるほうがずっと助かる」

「私はね? ブラフマー様の見立てに役立たなきゃなの」

「……は?」


 ブラフマー?

 見立て?


 どちらも耳にしたことがない単語だった。


「どういうことだ?」

「えっと」リンは俯き、考えるような素振りを見せてから、「この街はとっても暗いよね?」と顔を上げた。

「あるいは国すら暗いのかもしれないが、それがどうかしたか?」

「暗いのは、闇の王が君臨しているからなの」

「……は?」いっそう、デモンは唖然としてしまう。「年がら年中、天気が悪いということではないのか? そういう街なら、わたしは知っているぞ」


 違うの。

 そう言って、リンは首をぶんぶん、横に振った。


「この街はそれなりに広いの」

「だろうな。それくらいの見当はつく」

「言ったら理解してくれる?」

「言われる内容による」

「この街を照らすには、三人の神さまが必要なの」


 ますますわけがわからない。


「しかし――だから、そも、明るくする必要はあるのか?」

「あるよ。誰にとってもやっぱり、おひさまの光は必要だよ」


 まあ、その言葉を覆すようなクリティカルな考えも発言は持たないのだが――。


「要するに、おまえがなんらか働けば、この街には天の光がもたらされる、と?」

「そうなの」リンはとても明るい顔をした。「シヴァ様とヴィシュヌ様の見立ては済んだの。だから、あと一人の神様なの。ブラフマー様の力が得られさえすれば、この街にはとても健やかで気持ちのいい風が通り抜けようになって、光が差すの」


 やっぱり、よくわからん話である。だが、この街――というよりもっと具体的に述べると路地の集合体に住まうニンゲンらにとって、太陽の光がもたらされるというのは非凡で、なにより代えがたいことなのだろう――と、いうことかもしれない。


「だいたい、わかった。わたしにとってまるで経験のないことだとしても、わかったと言っておこう。見立てというのはやはりわけがわからんが」

「それでも、手伝ってくれる?」

「自らが知らんことに足を踏み入れるのは興味深く、また楽しいものだ」


 リンは「やったー」と右手を突き上げた。


「まずは会ってほしいヒトがいるの」

「誰だ?」

「フェイさんっていうの」

「じつは名前はどうだっていい。そいつの役割を知りたい」


 リンは「ふふふ」と含み笑いをして――。


「女神様みたいなヒトなんだよ? 私を導いてくれるの」


 そこに盲信じみたものはないだろうか。あるいは悪い宗教のような危険性は? ああ、ダメだ、そんなふうに気遣う思考をして良かったためしなどない、ゆえにげんなりしてしまう。もはやリンをかわいく感じている思いが、デモンにはあった。



*****


「フェイさん、フェイさん、どうかお越しください、お願いします」


 リンが彼女自身の部屋の真ん中で跪き、両手を合わせながらそう言った。なんとも大仰な儀式だな阿保らしいことだ。そんな願い一つでヒトがどこから現れるというのだ――などと馬鹿馬鹿しく思いながら、デモンは座布団の上で腕組みをしながらその様子を眺めていた。


 するとだ。リンの向かいにだ、やがて白い粒子が集まって、それはヒトのかたちを成した。驚いた。三十路くらいだろうか。茶色いスーツ姿の美女だったのである。黒い髪は長く、目つきは涼やかで、鼻筋もしゅっとしている。


 リンは、「フェイさん、今日もありがとう!」と声を弾ませ――。


 ひょっとしたらと考え、デモンは四つん這いになって右手を伸ばし、フェイの身体に触れようとした。やっぱりだった。空振りしてしまう。よくわからない現象だ。論理的に存在しても、物理的に存在はしていないらしい。何かの魔法だろうか? だったらお目にかかった類がない性質なので多少ならず興味深い。


「リン、今日も呼んでくれて、ありがとう」


 フェイとやらはゆったりとそう言った。柔和な笑み、口元。まだ会ったばかりだが、そこには大人物であるような色合いすらある。


「フェイさん、今日は紹介したいヒトがいるの」そんなふうに、リンは言って。「このヒトはデモンさんっていうの。私の力になってくれるんだよ?」


 力になる。まあ、そうしてやろうとは、現状、考えている。冷たいデモン・イーブルのくせに意外と面倒見のいいことだ。


「で」とデモンは話を先に進めることにする。「フェイさんか? おまえは何者だ? どうしてわたしはおまえの身体に触れることができないんだ?」

「それは表出しているのが映像情報と声だけだからです」


 デモンは腕を組み、「よくわからんな」と至極まっとうであろうことを口にした。


「私たちはそういう組織なのです」などとフェイは言い。「そういうことで、ご理解、ご納得いただけませんか?」

「質量のない姿を見せることができる――その点についてのからくりは知りたくもなるところだが、今のところ、そうだからといってコミュニケーションには不自由しない。話を進めようか」

「とても賢明で――いいえ、とても優れた方なのですね。感心します」

「おだてたところで何も出んぞ」


 デモンは「フェイ殿、それで?」と切り出し、「おまえがリンに何か吹き込んだ上でなんらか悪さを働こうとしているわけではないのだろう――と言ったつもりだ」と伝えた。「つまるところ、何がしたいんだ?」と追撃するように先を促した。


「見立ての話は?」

「ブラフマーだったか? ブラフマー様か? 聞かされたよ。でなければ、わたしは今、ここにはいない」

「不思議に思われませんでしたか?」

「不可思議には思っている。見立てか? 意味のよくわからん単語だ。詳しい知識はないということだ。どういうことなんだ?」


 淡く白い光を帯びている茶色の背広の美女――フェイは、ふふと笑ってみせた。場違いな優雅さに見えたが、それが彼女のキャラクターなのだろう。


「見立て――言い方を変えると神を顕現させることですね、そのために必要とされるニンゲンは限られています」

「そうなのか?」

「ええ。誰にでも可能だと思われましたか?」

「なんとなぁくの話でしかないが、そこまで限定的だとは考えていなかった」

「ブラフマーはおろか、シヴァとヴィシュヌの見立てに見合うニンゲンも一人、たった一人だったのです」


 だったら、言うぞ。

 デモンはそう前置きした。


「仮にそうなのだとしたら、にしたって、このいたいけな少女を言わば贄か? 代価ともう言うな――に差し出すのは、はなはだ心苦しくはないのかね?」

「それはそのとおりです。しかし、リンが望んだことです」

「ガキが相手だから巧妙に諭し騙したんじゃないのか?」

「私はすべてを話しました。ですから、合意の上での話なのです」

「納得がいかんな」

「なぜ、ですか?」

「このガキ――リンは、この先、きっと美人になる。その芽を摘み取るのは悲劇的なことだ」


 ふふ、と笑ったフェイである。


「リンとよくよく話してください。私は必要に応じていつでも現れますが、裏を返せば必要とされるまでは現れません」

「くそったれめ」

「お美しいのにそのような言葉遣い、損をしますよ?」

「くそったれめ」

「一度、消えることにしますね」


 文言のとおり、フェイは白い粒子となって散ったのである。



*****


「よくわからんというのが印象だ」デモンは狭い部屋の中、座布団の上で腕を組み組み言った。「フェイ、奴はほんとうに信用に足るのか?」

「とってもいいヒトなの」てへへとばかりにリンが頭を掻くのはなぜなのか。「この街のことわりを私に教えてくれたし」


 デモンは首をかしげた。


「ほんとうに聞き入れるだけの文言を発している人物なのかね」

「私はそう信じているんだよ?」

「わかった」デモンは深いため息をついた。「おまえのことが嫌いなわけでもないしな。何か結果が出るまで付き合わせてもらう」

「それって私のことが好きだってこと?」

「肯定するのははばかられるが、だから肯定するのは嘘ではない」


 やったーっ。

 ぴょんと飛び跳ねたリンである、そのせいで堪え性のない二階は揺れた。


「できることなら、もう一度、フェイ女史に会いたいんだが? 詳しいところを詳しく聞かせてもらいたいんだよ」

「必要だと思ったら私が呼ぶから。今は納得してほしいの」


 偉そうな口を利くガキである。しかし「まあ、それでいい」と答えるデモン・イーブルのなんと大人なことか――と、彼女自身は何度だって思うわけだ。


「ああ、そういえばまだ聞いていない。この街の名、についてだ」

「街とか、そういうものでもないと思うけど」

「そうだな。実に辛気臭いだけ一帯だ」

「そうなんだけど」

「ああ、ああ、悪かった、言いすぎた。街は街だ。立派でない街などそうはない。だから今後とも、いろいろと教えてくれないかね?」


 しくしく泣きだしそうになっていたリンが、嬉しそうに顔をほころばせた。


「この街はカイファ。みんな、一生懸命に生きてる、カイファだよ?」


 デモンは重ねて「穿った見方をすれば、べつに空が暗くたって問題なんかないと思うがな」と言った。すると、「みんなこの街が好きなんだよ?」との答えがあった。「誰もここを離れたくないし、その上で、明るい未来を望んでいるの」と返してきた。


「しかし、たったそれだけの理由なんだろう?」

「そうかもしれない。だけど、ここで明るい空を見たいって考えるヒトは、確かにいるの」

「なおのこと、よくわからんな。青空にどれだけの意味と意義がある?」

「誰にとってもそう。毎日毎日、あたりまえのように青空を見られることは、とっても幸せなことなんだよ? きっときっと、そうなんだよ?」


 その発言には一つの曇りもない。素晴らしいなと思わされた。そうか。こんなしょうもない世界においても、自らの意思をとことんまで突き詰め、そしてきちんと決断できる少女もいるのか……。


「リン」

「なあに?」

「明日はどこに出向けばいい?」


 きゃはっ。

 嬉しそうに、リンは笑って。


「もう一度、ここに来てほしいの。これからは一蓮托生だよ?」


 一蓮托生、か。

 なんとも難しいかつ、愚かな言葉を用いる少女である。


「もう一度言う。もう一度、フェイに会えないかね?」

「何か気になった?」

「……いや」デモンは首を横に振った。「現状、かまうようなことでもない、か……」

「じゃあ――」

「ああ、翌朝、またここを訪ねよう。しっかり眠るんだぞ、リン」

「はーい!」と右手を上げたリンだった。


 あたりまえのことを子どもに説く自らは滑稽だ。そう考えたデモンの口元には、しょうもない笑みが浮かんだ。


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