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9-6.

*****


 えらく離れた住所だったので、乗合の馬車を使った。やがて左手に見えてきたのは白い砂浜、鮮やかなブルーの海面だった。ああ、そうか、少し街から外れるだけで海を拝めるのか――相変わらず、当てのない気ままな旅を楽しんでいることを実感させられた。


 白亜の一角、大きな病院も白い、五階建てである。病院の表玄関に達しようとしたところで、姿は見えないのだが、確かに殺気を感じた。デモンは「阿呆ども! 出てこい!!」と声を大にした。なにせ病院しかない丘だから聞こえる相手は聞こえているに決まっていて、実際、二、三四五と現れた見るからに物騒な男たちはなんの迷いもなく出てきたように見えた。


「全部全部、殺してやってもいいぞ。正当防衛の線でうまくやる。それがわかっていて、かかってくるかね?」


 デモンがそんなふうに言い放つと、まだ若いと思しき『ギンロウ』の構成員――であろう人物が「あっ!」と声を上げた。「まま、待ってください、兄貴! このヒト、悪者じゃないですよ!!」と仲間に訴えたのだった。


「何言ってやがる!」兄貴と呼ばれた強面の男が声を荒らげた。「見るからに怪しいだろうが! こんなの通すわけにはいかねーよ!!」

「ででっ、でも、ただでさえ女性じゃないッスかっ」

「だからって油断できるかよ。親父がなんで俺たちをここに寄越したのか、わかってねぇわけじゃあねーだろ?」

「でも、女性なんスよ?」

「だから、だったら油断してもいいってのか!」


 子分の言い分が正しい。

 誰もが敵だと判断すれば、ヒトの本質を見抜けないことに繋がりかねない。


「なんだ? 全裸にでもなったら信じてもらえるのか?」

「……は?」上司らしい人物が口をあんぐり、開けた。

「だから、たとえば裸になれば信じてもらえるのかと問うている」

「いいっ、いや、そこまでは――」

「もっと言語化してやろう。おまえたちは従順だ。組織にあるからこそ、その特徴は尊いと言える。その上で、通してもらえないだろうかと言いたい。シキミヤの妹――わたしは彼女に会いたいだけなんだよ。そも、彼女を守る立場にありながら、おまえたちギンロウは、彼女に事実をつまびらかに話したのかね?」


 そ、それは……。

 場の仕切り役であろう上司は、口籠ったのである。


「恩を売るつもりはない。が、くどいのを承知でのたまう。会わせてはもらいたい。おまえたちは律儀だ。それは組の方針にも沿うものなのだろう。だが、飲んではもらえんかね? わたしはホテイから許可を得た立場でもある。なんだったら事後、おまえたちに罪はないことを伝えてやろう」


 すると、どうしてだろう、仕切り役――パンチパーマの男はぐすぐす泣きだしてしまった。


「シキミヤはダメだ。ウチのニンゲンも何人も殺された。だけど……だけど何も知らないみてーなんだ、妹は。だったら、責めることはできねーだろ……?」

「それが漢気というものだ。おまえは優秀なんだな」

「褒め言葉なんて要らねーよ。ただ、どうあれ誰かが伝えてやらなきゃいけねーくらいは理解してる」

「わたしに何ができるのかはわからない。だが、やれるだけはやってみよう。なんとかならないことなんて、わたしにはなかったしな」

「……わかった。頼む」

「どう転ぼうが、成果、あるいは結果? それが得られるまでは守ってやれ」

「それこそそんなの、わかりきってることだ。ねえさんに言われなくたって」


 ねえさんはよしてほしいと思った。

 まだピチピチ? そうだ、ピチピチだ――の、年齢なのだから。



*****


 病院の玄関口で左肩のオミが「黒ずくめは不吉だし、帯刀は物騒だし、だからマナー違反だと思うんだ」などと生意気を抜かしてくれた。ゆえに強く「黙れ。おまえはどこかで暇を潰していろ」と言いつけた次第である。黒ずくめであることは受け容れられるだろう。帯刀については、いざとなったら「論理的な倉庫」に収納すればいい――それをやるとその瞬間は、殊の外、みなを驚かせることに繋がるだろうが。


 心配を杞憂とすることにした。「刀は預けよう」と積極的に申し出たのだ。まだ若いであろう事務員の女は「少々、お待ちください」とぺこぺこ頭を下げ、奥へと消えた。そのうち出てくると、いよいよ「刀をください」などと幼い口調で述べた。受け取ると、案外重いものだからびっくりしたのだろう、床に落としそうになった。「ごめんなさい、ごめんなさいっ」と謝ってくれたので、「気にするな」とだけ伝えておいた。


「それで、どなたに御用ですか?」


 ああ、確かにまだ言ってなかったなと思う。


「五階だ、503号室の女性に用事がある」

「エマさんですね?」

「ああ、そうだ。エマ・シキミヤだ」

「はい、そうです。エマ・シキミヤさんです」


 にこにこ笑いながらしゃべるあたり、なんというかこう、シキミヤはここに来るときは素直な男だったのだろう。あるいは「イイヤツ」だったのかもしれない。そう思うと、なんとも浮かばれない話だなと思わされた。


「通してもらっても?」

「かまいません。ご案内したほうがよろしいですか?」


 ぬるい警備だとは感じたのだが、ともあれ病院だ、性善説が働いているほうが微笑ましいし健全だ。


 デモンは白く艶やかな床を、階段を進む。帯刀していなくてもまったく不安にならないあたり、わたしはやはり無敵なのだなと思わされた。



*****


 503号室。一応の礼儀だろうと戸を三度、ノックした。女の高い声、「どうぞ」と返ってきた。どことなく期待が窺えるような声色だった。


「おにいちゃん、おにいちゃんでしょう? やったーっ! 三日も来てくれなかったから寂しい――と言うより、心配してたんだよ?」


 なるほどなと思う。どうやらシキミヤは毎日訪れていたらしい。兄が来るのはいつもの「あたりまえ」だったのだろう。


 心が締めつけられるとは言わない。

 なぜならわたしはデモン・イーブルなのだから。


 後ろ手で静かに戸を閉め、ああ、一人部屋なのかと今更ながらに気づく。


「おにいちゃん、おにいちゃんだよね?」


 寝間着から覗く不健康そうな白い肌、削げた頬、茶色い髪にも艶があるとは言えない。拒食に陥り栄養が足りていないのは確からしい。その理由については興味がない。ただ、その事実については哀れに映る。


「ねぇ、おにいちゃんなんでしょ? おにいちゃんだよね?」


 ああ、そうなんだなと思わされた。デモンに向ける視線が多少、ズレている。一見、斜視のようだ。見えていない。大切なことも、そうではないことも。


 だからこそ、なおいっそう、不憫に感じられる。

 不憫? ――そんなふうに感じる心はとうに捨て去ったはずなのだが。


「……ねぇ」暗い顔をして、女――エマは訴えるように言う。「ねぇ、あなたはおにいちゃんじゃないよね? 鈴の音がしないから……そしてあなたは女のヒト。ねぇ、私にいったいなんの用事があるの?」


 えらく勘がいいな、えらくはきはきしゃべるな――と、いろいろ考えるところはあった。しかし、彼を殺したのは私だから、一応、その旨を伝えに訪れたわけだから――とっとと切り出した。「わけあって、おまえの兄貴はわたしが殺した」と。


 エマが見つめてきた。声がする方を、デモンのほうを向いてきたわけだが、斜視のようにして、やはり幾分、視線がズレている。目が見えないというのは、もはや疑いようがない。


「あなたはほんとうに兄じゃないんですね。ほんとうに女性なんですね。鈴の音がしない、しないから……」

「わたしについて、わかってくれとは言わん。ただ、おまえの兄貴はただのくそったれだったんだよ。何人も殺した。殺したんだ」

「目が見えないことなんて治せないし、私の食が細いことだってどうにもならないことなのに、兄はお金を払って、私をここに住まわせてくれたんです。きっと悪いことをしたのも、私の入院費を得るためなんです。ねぇ、そんな行いを、あなたは悪だと罵りますか?」


 デモンは「クハハ」と笑った。まったくおかしな問いかけだと思い、だから「クハハハハっ」と笑うしかなかった。


「兄貴のおまえに対するものは愛そのものなんだろう。だが、闇に生きる者として多くのニンゲンを殺したことは、問答無用の事実なんだよ」

「だから、聞かせてほしいんです。それって罪なんですか?」

「おまえはどう考える?」

「……罪だと思います」


 デモンはにぃと笑んだ。


「そう思い、それがつらいなら、とっとと死ぬべきだ。おまえがのたまったとおりだよ。どうあれ、どのような目的があれど、おまえの兄はヒトを殺して回った罪人だ。一般社会において、そういう行いは許されることではない」

「でも、確かに悪く言うヒトもいますけど、私にはとても優しくて、とても頼もしい兄だったんです」

「二度も三度も言わせるな。おまえの兄貴はおまえに生きてほしいと考えていた。くそったれのくそったれらしい理屈に沿ったいかにもくそったれには違いないが、妹を思っていたというのであれば、それはそれほど、腐った話には思えないんだよ。いくらわたしの心根が腐っていようが、な」

「兄は、お兄ちゃんは――っ」

「憎みきれないとは言った。だが事実として、わたしが殺した」


 おねえさん、あなたは……。

 そんなふうに、エマは言い。


「私はお兄ちゃんを信じます。お兄ちゃんはいつも笑ってくれて、きっと私の笑顔のために、がんばってくれたんですから」

「そうならいいがな。ただ――」

「ただ、なんですか?」

「初対面の折、不躾に胸を揉ませろと言われた」

「おにいちゃんはおおきな胸が好きなんです。だから、だったら私のを触ればいいって言ってたんですけれど」

「妹のには触れられない、と?」

「はい」


 まったく、変なところで律儀で潔癖な男だな、と思う。

 しかしまあ、そんなこと、それもまた「あたりまえ」、か。


 ふと思い立ち、「兄貴のピアスは? そういうことなのか?」と訊ねた。すると、考えていたとおり、「鈴は兄を示す音なんです」と返ってきた。わかっていた話だが、なんともやりきれないと思わされた。自らがシキミヤの人生に終止符を打ったという事実は変わらない。だったらもはや、彼女にかける言葉などないのだが。


 たったのささいな鈴の音にそこまでの意味があったのかと思うと――否、目が見えないと聞いた時点で考えが及ぶ範囲であったのだが、いざ、事実を目の当たりにすると、少なからず悲しい、と言うより虚しい思いに駆られた。


「兄は愚かだから、死んだんですね?」

「ああ、それは間違いない」

「どうして、愚かだったのでしょうか」

「そこにある本意は、奴に訊いてみなければわからん」

「あなたに私はどう見えますか? 哀れに見えますか?」

「それを訊くかね。うっとうしいな」

「ごめんなさい……」


 つっけんどんに言う性格なのに、デモンは不思議と自らに苦々しさを覚えた。


「私、これからどうしよう……」

「その点は問題ないと思うぞ」

「えっ」

「じき、男が一人、訪ねてくるはずだ。そいつはなんとしてでもおまえを守るとのたまうはずだ」

「誰なんですか?」

「いい年のおっさんだ。ただ、どうしてだろうな、パッと見た感じだと、おまえのことを娘か何かに思っているようだ」


 エマはふるふると首を横に振り、「そんなのダメです。私にそこまでの価値はありません」と言った。


 だから、デモンはおもむろにエマの左の頬を張った。


「自らに価値がないとかほざく奴は嫌いだ、大嫌いだ。価値のないニンゲンなどいないんだからな。おまえにも価値がある。誰かが価値があると考えている以上、価値はあるんだよ」


 エマは肌布団を両手でぎゅっと握り締めると、ぽろぽろ泣きだした。


「デモンさん」

「なんだ?」

「あなたにとって、兄はどんなヒトでしたか?」

「くどいな。ただ、向かってきたところを殺しただけだからな。無鉄砲に見えたいっぽうで、勇敢にも見えた」


 そうですか……。

 どこか納得したようにエマは言って。


 左手を伸ばしてきた、少し震えている。

 そうしてほしいように見えたので、両手でそっと、その手を包んでやった。


「そうなんですね……こんなに温かいヒトでも、ヒトを殺すんですね……」

「大きな主語であえて述べよう。人類に失望したかね?」

「いえ。違うんです。あなたがここを訪れる必要はなかった。違いますか?」


 違わない。

 ほんとうに利発だ。

 なにより純粋ときている。


「興味本位だよ」

「違います。あなたは筋を通そうとしてくださったんです」


 何も言い返せないというより、何も言い返さなかった。


「頬に触れてもいいですか?」


 顔を近づけ、左手を右の頬へと導いた。


「やっぱり、あたたかいです」またぽろぽろと涙をこぼす。

「すまんとは言わん。仕方なかったとも。しかし、殺したという事実は未来永劫残るわけだ」

「はい」さっぱりした顔で、エマは笑った。「それでいいです。兄のことを、どうか覚えておいてください」


 そういうことを言ったつもりじゃないんだがなとは思ったが、あまりに晴れやかな笑みを見せてくれたものだから、まあいいかと納得した。


 去り際、デモンはエマに「メシは食え。たくさん、ちゃんと食べろ」と言い聞かせるように言った。「がんばります」という答えは元気に満ちていた。彼女が死んでしまったら――とは考えたくない。考えたくないから、考えないでおこうと思った。阿呆の兄と良く出来た妹に、どうかどうか神の祝福を――。


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