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乗合の馬車である。三対三、向かい合って計六人ほどが座れる左右から風が寄越される開放的なキャビンには、現在、二人しかいない。決して速くはないスピードであるものの馬は軽快に駆け、デモンは正面の客――中年と思しき男性とおしゃべりをしていた。多少のグラデーションはあれどひとたび彼女を前にすると男どもは決まって鼻の下を伸ばすものだが――恐らく、その理由としてはデモンがじつにイヤラシイ肢体をしていることが挙げられるのだが、くだんの男は話の展開によっては「ははは」ととても快活に笑い、人懐こいところを見せる。根っこが明るい人物であるように映る。えらく日焼けした黒い肌であることから、肉体労働者だろうと思われる。いわゆる馬鹿だから人一倍朗らかなのではないか――とは失礼だろうが、きっとそうだ。もっと言うと、脳筋は愛おしい、となる。ヒトに迷惑をかけない限りは、阿呆は阿呆であったほうが尊いのだ。
「おっさん、おまえに問おう。この馬車はいったいどこに向かっているんだ?」
「えっ、あねさんは行き先も知らずに乗ったのかい? おてんばさんも、いたものだなぁ」
「行くあてがないというだけだ。あねさんとされる年でもなければおてんばというわけでもない。察してもらえないかね、それくらい」
「タロンだよ」
「町か街の名か?」
「そうさ。町か街の名前さ。悪くないところだよ。俺が知る限りは、な」」
タロンに下り立ったら、何をするつもりだい? フレンドリーさがありありと窺える笑みを浮かべる男は、そんなふうに訊いてきて――。
「面白いことを探したい。興味深い事象ともいう。何か心当たりはないか?」
「いきなり言われても――と言いたいところだけど、じつはあるんだなぁ」
まどろっこしい言い方に聞こえるが、彼は即答としたとも言えた。詳しいところをきちんと訊くと、「キーワードは、『ギアニー・ヴァロ』と『スペシャルズ』だ」と返してきた。ギアニー・ヴァロはヒトの名前で、スペシャルズは組織か何かの名だろう。どちらも大仰な固有名詞に聞こえる。特にスペシャルズとは大げさだ。実際、体躯に見合わない存在なのではないか。
こういう場合、深く聞かされないほうが出くわした際の面白味が増す。従ってデモンは前に右手を広げて一方的に「それだけで結構だ」と遮った。参考にできる事柄さえあれば、あとは自分でなんとでもできる。なんとかするとも言える。一般的に、大人とはそういうものだ。
かなりの悪路に入ったらしく、農地の合間を進む馬車はがたがた揺れる。馬もたいへんなことだろう。――と、そんな最中に「あねさんは美人だよな」とか言われた。あらためての感想である。「だから、美人ではあるが、あねさんではない」と答え、デモンは少々口を尖らせた。子どもっぽい反応だと思う次第だが、腹が立つものはしょうがない。
「じつはな、俺は離婚の協議中なんだ」
「なんだ? いきなりなんの話だ?」
「誰かに話さないと……ってか、誰かに聞いてもらわないと、足元から崩れちまいそうなんだよ。こう、がらがらがらっ、てな」男はどことなく照れ臭そうに右手で頭を掻いた。「女房と別れるのは、まあ、仕方ないんだ。いろいろ、合わないからな。でも、そんな俺たちのあいだにも、馬鹿な話、まだ小さな子どもはいるんだよ……」
だったら子のためにも、なんとか持ち直せと言いたい。
……が、それが不可能だから困り顔をするのだろう。
「愛し合って、だから結婚したはずなのになぁ。恋人時代から、もう二十年にもなるってのになぁ……」」
「人生、過去形になることはままある。そうは見えんと謳っておくが、じつはおまえはろくでもないニンゲンなのかもしれない――とも伝えておく」
「そうじゃないつもりなんだけど」
「だから、おまえが気づいていないのではないかということだ」
「親権うんぬんの問題が首をもたげてる」
「そんなことはわかっていると言ったんだ」
デモンは脇に立てた刀を自らの身体へと預けているわけだが、それを見てに違いない、男は「あねさんは人斬りなのか?」などと不躾なことを訊いてきた。
「生業は、それに近い」
「すごいな。そんなニンゲンには初めて会った。やっぱり、金になるのか?」
「わたしの場合は、な。誰にでも当てはまることではないよ。どの世界も腕次第。違うかね?」」
男は沈んだ表情になり――。
「あねさんになら、斬られたっていいな」
「投げやりなことだ」
「子どもは、娘は、女房についていくんだろうな、ってさ」
「だったら、もはや諦めろ」
「冷たいなぁ」
「それがわたしというニンゲンだ」
名を訊かれたものの、答えなかった。
しょうもない男だと察したから、名前すら教えてやらないことに決めた。
「あねさん、もし、女房と娘を斬ってくれと頼めば、引き受けてくれるか?」
それはひどくえらく面白い案だと感じた。
いっそ失くしてしまったほうが楽な場合もあるだろう。
しかし、さまざまあって、「それは無理だな」と率直に答えた。
「どうしてだ?」
「女子供に関する依頼は高くつく。誰も払えんぐらいにな」
なかば冗談、あるいは嘘のつもりだった――なんてのはジョークもジョーク――なのかもしれないが、男は「あんたは正義の味方なんだな」と、とても感心してくれた。
その後、目的地までだんまりを決め込んだのだが、そのうち、男が悲しげにしくしくと泣きだしたので、「馬鹿が」と罵ってやるに至った。愚かな決断は多い。愚者が少なくないのだから、それも当然のことだ。
外から「おーい!」と大声がした。左方――ずっと向こうで、ガキの男が大きく手を振っていた。なにせ田んぼの真ん中だ。手も足も土で汚れていることだろう。だがそのへん素直であり、立派に畑仕事をこなしている様は美しいように感じられた。だからと言って、「いつか晴耕雨読の日々を送りたい」――などとは思ったとか思わなかったとか。腹上死に加わってやるのはあるいはアリかもしれないと考えるのだが。時折、性欲については旺盛になるデモンである。相手は女でもいいのかもしれないという気持ちを、最近、強く抱いていることも事実ではある――阿呆な話でしかない。