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4-7.

*****


 地下四階は狭かった。なぜだろう、浴場のような青い泉が右手の壁際にあって、そこからいきなり小さな水色の物体がすいぃと現れた。物体はヒトに近いかたちをしている。とにかくちっぽけで華奢で――。虫のような――と言ってはロマンティックに欠けるが、透明っぽい羽根を有していて、水面の上で浮遊している。


 自分が泉より出現したくせに、水色の物体――最も適切な言葉を当てはめるとしたら妖精だろう――は、顔を押さえて背を向けて、「ひゃあぁっ! やめてください! 乱暴しないで!!」などと甲高い声で言った。乱暴とやらをされた過去があるのだろうか。そのへん知るはずもないが、ヒューは優しく「だいじょうぶだよ」と言った。「妖精さんかぁ」と続ける。妖精――やはりヒューも同じような印象を抱いているらしい。


 それにしても、いきなりのゆとりの空間だ。思いもしない展開だ。三階を抜ければ、とりあえず、憩いの場があったというわけだ。一息つくには絶好の場所だ。デモンにとってはそうでもないが、だって疲れてなどいないのだから。よって、デモンは「行くぞ」と言った。するとヒューが「少し休みませんか?」と返してきた。「かわいい妖精さんがいるんです。少しくらい話をしても」という提案があった。いいだろうと考えた。父を亡くしたばかりなのだ。心の傷は消せなくても、体力的な回復を図ることに異論を唱えようとは思わない。


「あなたの名前はなんというのですか?」と妖精が訊いた。

「僕はヒューだよ。ヒューですと言ったほうがいいかな?」

「いえ、敬語でなくて良いのです」

「ありがとう」


 早速、二人は打ち解けたようだ。

 その間、デモンは別のことを考えていた。


 この階にも、松明がある。

 三階を踏破した者などいないのに、あるのだ。

 これはどういうわけなのか。

 答えは一つしかないような気がしている――突飛な発想でしかないのだが。


「妖精さんは一人なの?」とヒューが訊ねた。

「そうなのです。どうして生まれたのかもわからないのですが、生まれてからずっと一人ぼっちなのです……」妖精はしゅんとなった。「でも、こうして他者に巡り会えたので、たいへん嬉しく思います」


 小さな顔ながらも、妖精が微笑んだのがわかった。


「あっ」と妖精さんが声を発し。

「なんだい?」と、ヒューは首をかしげ。

「ケガをなさっているではありませんかっ」


 確かに、ヒューは右手の甲に手傷を追っている。

 大したようには見えないが、じつは結構深いのかもしれない。


「なんてことないよ」とヒューは笑った。

「ダメですっ。化膿してしまってからでは遅いのですっ」

「でも、だからといって――」

「私には傷を治す力があるのです」

「えっ、ほんとうに?」


 回復の魔法。

 それが使える者に初めて出会った、ゆえにデモンは少々驚いた。


 妖精がすーっとヒューの右手の上まで飛び、「えいっ」という掛け声とともに、彼の傷に両手をかざした。事実だった。なんとまあ黄色味を帯びた淡い光が見る見るうちに傷を塞ぐではないか。ほんとうに稀有な使い手と出会ったものだ。人生、どこで何があるかわからない。


 傷が癒え、するとヒューは「すごいなあ」と目を丸くした。右手の甲をさすり、「ほんとうにもう、なんともないや」と言って笑顔になった。「妖精さん、ありがとう」と礼を述べたりもした。


「そろそろ行くぞ。長居は好かん」


 デモンがそう告げると、ヒューは「はい。わかっています」と気持ちの良い返事をした。彼は「妖精さんはこの先、何階まであるのか知っている?」と訊ねた。


「わかりません。そもそも私は他の階には行けないのですよ」

「そうなの?」

「はい。行ったらダメだと、その記憶だけ、教えだけ、確かにあるのです」

「わかりにくい縛りだね。でも、仮にそうだとするなら……」

「以降はご想像にお任せするのです」

「わかった。ありがとう」


 デモンは無言で階下へと続く階段を目指す。にしても、ほんとうにここにきて休憩所とは。まったく、このダンジョンはどうなっているんだと考え込みたくもなる。考え込んだところでしょうがないので前に進むしかないわけだが。


 ――がぶりっ!

 擬音化すると、ほんとうにそう聞こえた。


 咄嗟に左を振り向く。

 ヒューにはもはや、胸から上がなかった。

 彼の背後には先ほどまで妖精だったであろう奴がいた。


 それは全身水色の怪物だった。先程までの可憐な姿はどこへやら、顔から下はかろうじてヒトのかたちを保っているものの、顔全体が口だった。口しかないのだ。まさに大口を開けていて、齧り取ったばかりのヒューの身体をがしがしがしと噛み砕いている。ああ、そうか。そういうトラップか。哀れだったな、ヒュー。念仏くらいは唱えてやってもいいが、あいにく、今はそんな気分じゃないんだよ。


 水色の怪物がぶよぶよの身体を揺すりながら後ろに下がった。まだ咀嚼している。ほんとうに口だけが異常に大きい。歯も発達していることだろう。醜悪な生き物だ。じつに醜い。食虫植物みたいだなと思う。悪くない不意打ちだった。そうだ。やるとなったら、これくらい殺伐としていないと。


「醜い醜い怪物殿。ヒューの傷を治してやったのはどうしてかね?」

「油断すると平気で背を向けるだろうと考えた」顔面凶器の怪物ががらがら声で言う。「ぎゃははははっ! 愚かだな愚かだな愚かだな! 他者というものはここまで愚かだったのか!!」

「なるほどな。で、醜い醜い怪物殿――」

「そんなふうに呼ぶな。腹が立つ」

「しかし貴様は醜いんだよ」


 恐らく怒りに満ちた表情を浮かべたであろう醜い怪物は、骨まで砕いたらしい。ヒューのそれを吐き出さないことから、飲み込んだらしいと窺える。


 デモンはかったるさに駆られた。


「いいぞ。かかってこい。最後くらいは景気良く散ってみせろ」

「なにを偉そうに。ニンゲン風情が偉そうに」

「ほぅ。わたしがニンゲンであることはわかるのか」

「会ったことはない。だが、それとなくたぐるとわかる」

「そのへん、よくわからないな」

「おまえがかかってこい。食ってやる、食ってやる、食ってやる」

「そういうセリフ、わたしは好きだな」


 肩を落とし、それから目を光らせ、全身の脱力は最速を生み出す。踵を起点として地を蹴った。あっという間の出来事だ。醜い怪物を一息に斬り、上半身と下半身を分離させた。相変わらず、わたしの刀は良く斬れるなとデモンは感じた。感心したとも言う。


「……は?」仰向けに倒れている上半身だけの化物は、驚いたふうだった。「お、おまえ、私に何をした?」

「要するに、左から右へと薙いでやった。おまえの意識が追いつかないスピードで、な」

「まさか、私は死ぬのか?」

「ああ、そうだ。一つ、ミスを指摘してやろう。不意打ちで殺すべきはわたしだった。どちらが強いか、それが判別できなかったのだから、お里が知れる。残念だったな。非常に心地がいいよ。おまえが化物であったのは僥倖だ。せいぜい死を満喫するがいい」


 すると怪物は涙声を発し。


「嫌だ嫌だ嫌だ。死ぬのは嫌だっ」

「今さら何をほざく? 何があろうと、もはやおまえは死ぬんだよ」


 デモンは顔を歪めてシニカルな笑みを浮かべた。


 かたきを取ったとは言わない。


 ただ、ヒュー。

 天国に昇れるといいな。

 そう祈りながら、デモンは彼の身体を燃してやる。


 そのうち、水色の怪物も死んだのだった。

 事切れる瞬間まで、「嫌だ嫌だ」と連呼していたのだった。


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