結婚式当日の朝、バタバタと準備に追われながら心臓だけはずっとうるさいほどに鳴っていた。
「日和、おめでとう」
控室でウエディングドレスに着替えメイクをしていると母が顔を見せた。いつの間にか母の顔にはシワが刻まれて改めて老けたな、と失礼なことを思ってしまう。でもその代わり、数年前よりもずっと表情は穏やかになった。父も同じだ。私が大人になるにつれ、二人の中でピリピリとした空気の鎧が溶けていくのが分かった。
「ありがとう。もうすぐ彼も来るみたい」
「それじゃお邪魔虫はお暇しようかしら。また後でね」
ふふふ、と母は笑って控室から出て行った。以前よりもずっと丸くなった母を見ていると、ほかほかとした陽だまりの中にいる気分だ。
メイクさんも部屋から出て行き、私は控室で一人になった。
これから自分と彼の結婚式が執り行われるなんて、いささか信じられない。でも現実だ。私はこれから、神林永遠と結婚する。
胸に熱いものがこみ上げて来た。鼻の奥がツンとして、せっかくのメイクが台無しになると慌てて涙を引っ込める。
ここまで来るのに、いろんなことがあった。
あの日、高校二年生の文化祭の最終日、私たちはお互いにアプリの「取り消し」を実行した。
アプリの指示通り、次の日彼は私を好きだという気持ちを忘れ、引っ込み思案な彼に戻っていた。突きつけられた現実に、私はその場で目眩がしたくらいだ。
そして、彼がもう一つ「代償」として失ったものがある。
「永遠、なんか前より老けた?」
「そうかな」
穂花が神林を見て訝しげに首を傾げていた。確かに神林からは以前のような活力が失せ、目の下にはクマができていた。肌の張りも減ったような気がするし、何より目の前の高校生活に辟易しているような気がしていた。
私は彼を屋上に呼び出して、話を聞いた。初めは私と目も合わせてくれなかったが、時間をかけてこれまで二人で過 ごした日々のことを話しているうちに、少しずつ打ち解けていた。そしてようやく、彼が自分の性格を戻すのに払った代償を教えてくれたのだ。
彼が代償として失ったもの——それは“十年分の時間”だった。
「時間……」
「そう。時間を失うってどういうことかと思ったけど、歳をとるってことだったのかって。俺、老けた、でしょ」
たどたどしく言葉を発する彼がなんだかおかしくて、深刻な話であるはずなのに笑ってしまった。実際に彼の年齢が変わったというわけではなく、彼の精神的な部分で私たちよりも十年分大人になっているということらしかった。
「そうね、老けた。でも永遠が永遠であることは変わらない」
彼の目が大きく見開かれた。私のことをもう好きではない彼。クラスのリーダーではない彼。大人になってしまった彼。でも私は絶望していなかった。きっと大丈夫。私は彼の肩に手を置いた。あ、と彼が身を避ける。おどおどした様子の彼が愛しいと思う。私は彼の心を、もう一度掴んでやりたい。今度は私が彼に歩み寄っていけばいいんだ。
「改めて、これからよろしく」
「う、うん」
ぎこちないけれど、彼は私と目を合わせてくれた。
時間はかかるだろうけれど、私が諦めない限りアプリに書かれていた事実は変えられる。だって、人の心はいつまでだって変わり続けることができるのだから。
高校を卒業して八年、彼は新卒で勤めていた会社を辞め、最近海辺にカフェを開いた。お店の名前を『Hiyori』にすると聞いたとき、「恥ずかしいからやめて」と言ったけれどどうしても聞かなかった。
「ここに来て、美味しいご飯を食べてみんなの心が晴れるように。そういう意味でつけたんだ」
「そっか」
そう言われてしまえば肯くことしかできない。『Hiyori』が開店してから客足はまずまずといったところだ。私は『Hiyori』の常連客になった。
「ねえ、あの『SHOSHITUS』って何だったんだろうね」
『Hiyori』が開店したばかりの頃、真新しい店内の椅子に腰かけて、店主である彼に問いかけてみた。
「さあな。でも今はもう俺のとこにも日和のスマホにもアプリはないだろう。あれは、青春を迷子になっていた俺たちに、神様がチャンスをくれたんだと思うことにしてる」
「チャンス、か」
私は自分のスマホの画面をじっと見つめる。あれから二度ほど機種変をしたスマホには、彼の言う通りもうおかしなアプリなど入っていない。
「でもさ、アプリのおかげで永遠と仲良くなれたんだとしたら、私にとっは『SHOSHITSU』じゃなくて『KIBO』だったのかな」
「希望。いいね、それ」
グラスを磨きながら彼が白い歯を見せて笑う。
高校時代から変わらない、大好きな笑顔だった。
父の腕にそっと手を添えて、私は深呼吸した。父の方が私よりもよほど緊張しているのか、ピンと背筋を伸ばし固まっている。お母さんが、「お父さんしっかりして」と背中を叩いた。周りにいたスタッフがクスッと笑っている。
もうすぐ、教会の扉が開かれる。
バージンロードの先にいる彼の元に、早く行きたい。
二度目に「好きだ」と言ってくれた二年前の彼の凛とした顔を思い出す。
私はこの時を待っていたんだ。何度心が折れかけても、この人は自分に一生興味がないかもしれないと泣いても、彼の言葉を信じたかった。
俺が日和を好きなことは変わらない。
たった一つのその言葉を信じてきて良かったと思えた瞬間だった。
かつて私は穏やかな青春時代を生きることを望んでいた。揉め事や面倒な人間関係から避け、やるべきことだけに集中して両親が望むように“良い大学”に進めれば良いと思っていた。
でも、突如現れた『SHOSHITSU』アプリによって私の目標は崩された。それでもアプリのおかげで、大切な気持ちを見つけたのだ。
あのアプリはたぶん、面倒事から簡単に逃げようとした青春時代の私に制裁を加えると同時に、青春は面倒だけれど一度しかない貴重な時間だと教えてくれたのだ。だからやっぱり希望だった。これからはアプリが示してくれた光を信じて生きていこうと思う。
「じゃあ行きますね。三、二、一」
スタッフの掛け声と共に、隣で父が息を飲む音が聞こえた。
私は向こう側にいる彼の姿を想像する。いますぐ胸に飛び込みたいと思うほど、愛しい彼のことを。彼も同じ気持ちでいてくれたらいい。
扉はいま、開かれた。
【終わり】