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6.無理だよ

◆◇


「日和!」


 母が私を呼ぶ声がして重たいまぶたを持ち上げた。


「ああ、良かった……!」


 ぼんやりと霞む視界の中で、自分が今部屋のベッドに寝かされていることを知った。


「何があったんだっけ……」


「あなた、学校で倒れてたのよ。貧血ですって」


「貧血……」


 言われてみれば少し気分が悪い上に頭痛がする。全校生徒が教室に戻っていた時間帯だったから、助けてくれたのは神林だろう。あんなに剥き出しの言葉をぶつけたのに、いざという時に救ってくれる彼の優しさが痛かった。


「今日はよく寝なさい。心配したけど何ともなくて良かった」


「ありがとう」


 母が私の隣でほっと胸を撫で下ろす。母にここまで心配されるとは思っていなかった。

 その日私は引きずられるようにして深い眠りについた。翌朝まで一度も目を覚まさずに、夢の中で何度も彼から好きだと言われた気がした。



「今日はどうする?」


 翌朝部屋にやってきた母はベッドに寝たままの私に声をかけてきた。


 私は首をふるふると横に振る。まだ少し頭が痛い。それに、どんな顔をして学校に行けばいいか分からなかった。


「そう。一階におにぎりが置いてあるからお昼はそれを食べて。熱があるならあまり動き回らないように。それじゃあお母さん仕事に行ってくるから」


「いってらっしゃい」


 甲斐甲斐しい母の対応に胸が張り裂けそうだった。ほとんどずる休みで、2組のみんなにも迷惑をかける。スマホの電源を入れると、神林からLINEが来ていた。


『昨日はごめん。体調は大丈夫か』


 たったそれだけのシンプルな文面。身体は大丈夫だけれど、心があまりにも疲れ切っている。でも、そんなことを正直には言えない。


「大丈夫、昨日助けてくれたみたいでありがとう。それと今日はお休みします。迷惑かけてごめんなさい」


 しばらく返信が来なかった。深い意味はないと知りつつも、彼の反応が怖く次にLINEの画面を見るのにとても勇気がいった。


『分かった。日和のところのシフトは補欠のやつに頼むから心配しないで』


 昨日傷つけたのは私のはずなのに、あまりにも親切なメッセージに胸を突かれる思いだった。

 溢れそうになる涙を堪えながら、くまさんがぺこりとお辞儀をするスタンプを送る。すぐに既読がついてそれ以上はもう何もメッセージは送られてこなかった。

 ベッドから起き上がり、部屋着に着替える。カーテンを開けると今日は曇天模様だった。もし雨が降ったらお客さんは減るのだろうか。そうすれば、自分がシフトで空けた穴の被害を最小限に抑えられるかもしれないとぼんやりとした頭で考えた。

部屋の時計の針の音がいやに大きく聞こえる。

 一人きりで部屋に引きこもる時間は永遠のように感じられた。けれど思考はひたすら昨日の神林とのやりとりに持っていかれていた。彼が私のことを好きだと言った時の衝撃が再び全身を痺れさせる。


「知ってたらあんなことしなかったのに……」


 誰もいない空間で一人ポツリと呟く。

もしも、神林が穂花ではなく自分のことを好いていると知っていたら。

 一人で勝手に解釈せずに、彼に気持ちを聞いていれば。

 アプリなんかで気持ちを消したりしなかったのに。

 たら、れば、が思考を支配する。そんなことを何度考えたってどうしようもないのに。ふと窓の外を見ても、雲は一向に流れている様子がない。今日は風が少ないらしい。私と同じだ。がんじがらめに動けなくなっている私と。


「ううっ」


 何が悲しいのか、何が悔しいのか心の整理がつかないままむせび泣いた。ここなら誰にも聞かれないし見られない。スマホを手に握ったまま三角座りをして、顔を膝に埋める。ズボンの膝の部分に涙の染みが広がる。情けなく滲む水滴の跡は、私がどこかに置き忘れた恋情を思わせた。

 どれだけの時間、そうしていただろう。

 手からスマホが滑り落ちて、床に当たったそれが震え出したのを知ってはっと顔を上げた。

 スマホには着信を知らせる表示がされている。相手の人物を確認し、取り憑かれたようにゆっくりと耳にスマホを押し当てた。


「……もしもし」


『日和、大丈夫? 昨日倒れたってさっき永遠から聞いて心配で』


 親友の声が、真っ先に私を心配する声が飛んできて収まっていた涙が再びじわりと目尻に溜まっていく。


「穂花……わたし」


 昨日はごめん、と本当は謝りたかった。穂花の気持ちを知っていながら二人で一緒にいるところを見せつけるようなことになってしまって、本当にごめん。もう彼と話はしないから許して欲しい、と心にもないことを言いそうになった。でも、上手く言葉が出てこない。何から伝えたらいいのか迷っているうちに、穂花の方から話し始めた。


『何も言わなくていい。というか、ごめんね。昨日あたしが二人を見て動揺しちゃったせいで、日和を傷つけたんでしょう?』


 違う、違うよ。伝わらないと思っていながら、私は電話越しにブンブンと首を振った。神林も穂花も傷つけたのは私の方なのに、なんでみんなそんなに優しくなれるの。


「私が穂花を傷つけた。きっと神林のことも。本当にごめん」


『そんなわけないじゃん。よく聞いて日和。永遠は日和のことが好きだって聞いた。それ自体全然びっくりしなかった。むしろそうだろうなって思ってたんだ。だからさ、日和は逃げちゃダメなんだよ』


 逃げちゃダメ。

 自分を振った男が友達のことを好きだと知ったのに、穂花の言葉はどこまでも揺るがない。もしも逆の立場だったら、しばらく穂花と口を利きたくないと思うだろう。

 穂花は強いよ。私なんかよりずっと。


「私は永遠のこと、好きだった」


 ずっと言えなかった。穂花にだけは知られてはいけないと思っていた。彼に拒絶されるよりもずっと、穂花に嫌われるのが怖かった。


「でも今の私は、永遠を心から好きでいられる自信がない」


 恋を失ってしまった私の気持ちは誰に理解してもらえるなんて到底思えない。

 だから曖昧な言葉で彼女に伝えるしかなかった。穂花は私の言葉をどう受け取っただろう。しばらくスマホからは何も返事が聞こえてこなかった。


『そんなの、どうってことないじゃん』


 あっけらかんとした声だった。

 思わず私は「えっ」と声を漏らしそうになる。


『そんなふうにこじらせちゃってる時点で、日和は永遠のことが好きなんだよ。好きなら迷うことないじゃん。今更何言ってるの』


 スマホの向こうから、ふふ、という小さな笑い声が聞こえてきた。決して嫌な感じはしない。穂花が私の背中を押してくれているということが、今ようやく理解できた。


「……ありがとう」


『頑張れ!』


 じゃあまたね、明日は学校に来てね、と彼女は通話を切った。

 おかしいくらいに気分が高揚していた。

 私は永遠のことが好きだった。アプリによってぽっかりと失われたその気持ちは、本当はその辺に浮かんだまま完全には消えていない。

 消えていないと思えば、本当にその通りな気がして。

 穂花に励まされたままに、『SHOSHITSU』アプリを久しぶりに開いた。彼への恋心を消してから初めてのことだった。


『消したもの:神林永遠への恋心』


 自分自身で打ち込んだワードが、呪いみたいにスマホの画面に浮かんでいる。

 目を背けたくなるその文字を見つめて、その下に記された「代償」を初めて目にした。


『代償:大切な人の好きという気持ちが失われる』


「大切な人の……好きという気持ち」


 一瞬、アプリが言っていることが何なのか分からなかった。


 大切な人——それが「私にとって」という意味であれば、他ならない神林のことだろう。

 その神林の、「好きという気持ち」。


「つまり、永遠の恋心が失われる……?」


 神林は昨日、私のことを好きだと言った。

 だとすれば、もし私自身の彼への恋心を取り戻したいと思うならば、彼から私への恋心を奪わなければならないということになる。


「矛盾してる……」


 これまでは何かしらの「もの」を奪えという指示ばかりだった。それなのに今回は初めて「恋心を失う」ときた。「奪う」ではなく「失う」。よく見れば、「代償」の指示の下に「取り消し実行」というボタンがある。

 つまり、このボタンを押せば、自動的に私の彼への気持ちは戻り、彼の私への気持ちが失われるということ……。

 取り消し自体はかなりシンプルだ。しかし、取り消したところでそこに私が望む未来はない。だって自分の恋を取り戻したところで、彼から恋が失われれば本末転倒ではないだろうか。


「ふふっ」


 ここにきて、かなりの難題を示してきた『SHOSHITSU』が憎らしくなった。まるで生き物みたい。私の反応を弄んで楽しんでいる。


「ははは」


 負けた。私はアプリに負けたのだ。示された究極のパラドックスに、私はどうするべきか分からない。このまま何も見えなかったことにして、何事もなかったことにして、残りの高校生活を終えるべきだ。そうすればいつか私はまた別の誰かを好きになって、普通に恋をすることができるだろう。神林じゃなくてもいい。そう、思うのに。


「無理だよ」


 これまで彼が私にくれた優しい言葉の数々を思い出す。頼り甲斐のある彼の背中を思い出す。その度に、失われた私の恋心が元に戻してと叫んでいる。見て見ぬふりをしていても、心はずっと泣いていた。

 一日中、膝を抱えたまま「代償」について考え、頭がパンクしそうなほど悩んだ。すべて自分のせいだと分かっている。元に戻りたいという気持ちと、他人の気持ちを操作してはいけないという理性が絡み合う。ぐるぐると二つの糸がもつれては、どうにか解けないかと模索する。

 結局、一日考えても答えは出なかった。夜が更ける頃には考え疲れて、そのまま布団にもぐって眠ってしまった。


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