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5.最悪の対面


 最悪の目覚めだった。

 鏡を前にして、自分の顔が腫れぼったくて目の下には悪魔のようなクマができている。擦っても擦っても治らない。母にコンシーラーを借りて少しはマシになったが、とてもじゃないが誰かに直視されたくない。


「日和大丈夫なの? 今日から文化祭でしょ。頑張ってね」


 心配そうな母が私に声をかける。事情を知らない母には「うん」と肯くしかなかった。


「いってきます」


「いってらっしゃい。楽しんで」


 最近、親子の関係は穏やかになった。母は私が向き合っていることに応援してくれようとしている。それだけでありがたかった。

 今抱えている悩みの種は、これから行く先に待ち構えている。



 文化祭初日の教室はどこかソワソワと落ち着かない空気が漂っていた。今日の動きを確認する神林をチラリと横目で見ると、いつもと変わらず凛とした姿勢を保っていた。何も変わらないんだな。幼馴染みの女の子から告白されても、その子のことを振った後でも。何事もなかったかのように振る舞える彼に見当違いの怒りすら覚えた。


「その顔どうした?」


 私の視線に気がついたのか、神林は私の顔を見て真っ先に聞いた。


「昨日眠れなくて」


「大丈夫か? キツかったらシフト代わってもらうから言って」


「ありがとう」


 この後に及んで、まだ彼の優しさに助けられている。補欠シフトを考えてくれたのも彼だし、今日私がシフトに入れなくても実際なんとかなるのは間違いなかった。

 彼は完璧で、すばらしい男の子だ。この文化祭期間によく分かった。きっとクラスのみんな同じことを思っている。

 でも今の私には完璧な彼が憎らしくてならなかった。


「みんな、今日から3日間頑張ろう!」


「「おー!!」」


 始業のチャイムと共に、文化祭一日目が始まった。午前中は外部のお客さんがまばらで、やってくるのは生徒がほとんどだった。私のシフトは午後からだったけれど、実行委員ということもあり店を手伝った。神林も一緒で、自由時間でもずっと2組の教室にいた。


「かわい〜!」


「メニューもたくさんあるんだね」


 古本カフェは思いの外好評だった。飾り付け班が頑張ってくれたおかげで内装は可愛らしくも落ち着いたものに仕上がった。やってくるお客さんたちから上がる感嘆の声に、荒んでいた心は少しずつ慰められていく。


「いらっしゃいませ!」


「ママ、絵本〜!」


 時間が経つにつれて客足も増え、一般のお客さんも立ち寄ってくれるようになった。小さな子供連れの親子が楽しそうにはしゃいでいる。絵本を買ってくれた子供が嬉しそうな笑顔を浮かべた。思わず顔が緩む。隣で見ていた神林もつられて微笑んでいた。

 自分たちが作った店で、お客さんが笑顔になってくれる。

 これまで自分の成績ばかりに気を取られてきた私の学生生活に、まったく別の色が塗り足されていく。みんなの協力のおかげで穏やかなだけじゃない青春の日々を心から愛しいと思えていた。


「神林、春山、二人は休憩してきなよ」


 私たちがほとんど一日教室にいたのを気遣ってくれたのか、一人の男子がそう提案してくれた。


「いいのか?」


「もちろん。俺たちだけで大丈夫」


「分かった。ありがとう」


 時刻は午後三時を回っており、今日の文化祭の時間は残り1時間といったところだった。まだ二日残っているし、わざわざ今日回らなくてもいいかなと思っていたけれどせっかくの提案とあっては受けない手はなかった。


「一緒に回るか?」 


「う、うん」


 首の後ろをぽりぽり掻きながら、彼は私を誘った。あまりに自然だったので思わず返事をした。文化祭を一緒に回ることに特別な意味なんてないのに、耳の後ろがこそばゆい。

 私たちは残り1時間の文化祭を少しでも楽しむべく、一階のクラスから順番に回ることにした。私たちのクラスのように店をやっているところもあれば、美術や文芸作品の展示を行なっている教室もあって思いの外見応えがある。二人で段ボール迷路に参加したら私の方が先にゴールしてしまった。でも、お化け屋敷では足がすくんで前に進めなかったから、おあいこだった。するすると進んでいく神林が得意げにこちらを振り返る。「早く来いよ」と言わんばかりの笑みにムキになって足を踏み出すも、横から飛び出してきたお化け役にびっくりして尻餅をついてしまった。

 そんな私を見て、神林が豪快に笑う。恥ずかしくなった私は耳まできゅーっと熱が上っていった。


「見なかったことにして」


「いや、残念だけどもうしっかり記憶に焼きついた」


「最悪……」


 中庭で買ってきたアイスを食べながら先ほどのお化け屋敷での光景を思い出す。いや、思い出したくないのだけれど、神林があんまり笑うものだからいやでも意識してしまっていた。


「そろそろ終わりみたいだな」


 純粋に文化祭を楽しんでいたので、終わりの時間が迫っていることを忘れていた。そういえば外部のお客さんたちはもうとっくに校内には残っていないようだ。


「俺たちも教室に戻らなきゃな」


「そうだね。明日の準備もしないと」


 アイスを食べ終えた私たちは椅子から立ち上がり、校舎の入り口へと歩き出す。生徒たちが自分のクラスへと戻っていく波の中に私たちも入り込もうとした時だった。


「日和?」


 後ろから声をかけられた。振り返ると穂花が4組の友達と3人で一緒にいた。


「あ」


 穂花は、私と神林を交互に見て、私たちが二人でいる理由を考えているようだった。他の2人が「どうしたの?」と穂花の顔を覗き込む。彼女の表情がみるみるうちに歪んでいく。

 隣にいる神林が息をのむ音が聞こえた。

 突然穂花は我に返ったように踵を返す。


「ちょっと!」


「待ってって」


 友達の二人が彼女を追いかける。私も一緒になって彼女を追いかけようとした。でもその瞬間に強い力で腕を掴まれ、ぐっと足を引き止められた。


「離して」


 私は私を引き止める彼の方を振り返り、彼の手の力に負けないくらい強く言い放った。

 校舎から終業のチャイムの音が聞こえた。廊下を歩く生徒がそろそろと教室に入っていく。


「日和、教室に戻ろう」


「でも穂花が」


「あいつは大丈夫だ。4組に戻ってるはず」


「そうじゃなくて。私、穂花が心配で」


 先ほどの穂花の表情を思い出す。昨日あれだけ電話で話をした私が、神林と一緒に文化祭を回っていることに驚愕したような顔だった。私たちにはそんなつもりはまったくなかったのに迂闊だった。私は穂花を傷つけたのだ。


「なんでそんなに焦ってるんだよ。落ち着けって」


 ぐいっと、今度は穂花を追いかけようとする私を無理やり正面へと引き戻した。バランスを崩して転びそうになった私の身体を、彼はしっかりと支えていた。


「なんでって……。じゃあ、なんで永遠は穂花を振ったの……?」


「……聞いたのか」


「親友だもん、当たり前じゃん」


「そうか」


 チャイムが鳴り終わり、廊下からは人影がなくなった。きっと今頃2組の生徒たちは私たちを待っている。戻らなくちゃいけないのに、目の前の問いをなかったことにして帰ることはできない。


「私は、穂花が永遠のことを好きだって知ってたし、永遠も穂花のこと好きなんじゃないかって思ってたのに。だから納得できなかった」


 自分がどれほど身勝手なことを言っているのかは十分理解していた。それなのに、なぜか私は彼を責めたくて仕方がない。こんなことを言う資格なんて私にはないのに。


「どうしてそう思ったんだ」


「だって、二人一緒にいることが多かったし楽しそうだった。それに私、この間二人が海でデートしてるとこ見ちゃったの。幸せそうに笑ってたから間違いないって」


「あの日、見られてたのか」


「ごめん。でも偶然だったの。二人のデートを覗き見するつもりなんてなくて」


 どんな言葉を紡げば、彼は本音を話してくれるのだろうか。私はこの半年間で彼のことをどれだけ知れていたんだろうか。半分くらいは分かったつもりでいたけれど、本当は10%も見えていなかったんじゃないだろうか。


「ねえ、永遠は穂花のことどう思ってたの? 本当はどんな気持ちで一緒にいたの」


 気がつけば小学生みたいに、分からないことをそのまま言葉にしてぶつけていた。嫌われるかもしれないと心のどこかで察していた。それでもいい。私は穂花とずっと友達でいたい。彼との関係はたった半年だもの。白紙に戻ったってなんら影響はない——。

 そう思うのに、彼が口を開いたとき、どうか自分を傷つけないでくれと深く祈った。


「穂花は大切な幼馴染みだよ。あいつが一緒に遊びたいって言ったから付き合っていた。一緒にいると気が楽だし楽しい。それは間違いない。でも俺は」


 傷ついたり傷つけたりする青春は、本望ではない。目を瞑り耳を塞ぎたかった。でも、悲痛な表情で私を見つめる彼の顔を目の当たりにすると逃げてはいけないような気がした。


「日和のことが好きなんだ」


 傾き始めた日が、彼の左頬を染め上げた。私は眩しくて右目だけをきゅっと瞑った。ずきん、と胸が疼く。ずきん、ずきん、と激しさを増していく痛みはとうとう私をその場に立たせておくには強すぎた。


「嘘だ」


 ずり、と右足を後ろにずらした音が響く。

 目の前の男から今すぐ遠ざからなければならない。


「日和」


 彼は私が逃げ帰ることを察したのか、先ほどよりも強い声で私の名を呼んだ。


「俺のことどう思ってる?」


 聞きたくない。言いたくない。私はきみのことなど好きではない。今の私にはもう、きみへの恋心など残っていないのだから。

 彼の右手が私の左頬へと伸びる。その手が触れてしまえば、私はその場に崩れ落ちてしまうだろう。

 だから逃げた。

 地面を蹴り、校舎の入り口から反対方向へと走った。こうして彼に背を向けて走り出したのは何度目だろう。でも今日はいつもとは違って、彼は私を追いかけてきた。


「待って! 待てって」


 必死に逃げても彼の足の速さには敵わず、再び腕を掴まれた。跡が残りそうなほど強い力だ。「いた」と反射的に口から漏れた。

「ごめん、でも」と彼の方が先に口を開く。


「逃げるなよ」


「だって、仕方ないじゃない!」


「何が仕方ないんだ。俺のことが嫌いか? それならそうと言ってほしい。何も聞かないままいなくならないでくれ」


 どうして。そんなふうに冷静に言いたいことが言えるの? こっちはぐちゃぐちゃになりそうな感情が爆発するのを必死に抑えているというのに。


「私はっ……あなたが私のことなんてなんとも思ってないって思って、穂花の恋を応援したくてアプリを使ったのに!」


「アプリ?」


「そうよ。『SHOSHITSU』アプリ。永遠にだって何度か話したことあると思うけどもう忘れちゃった? 私はアプリでいろんなものを消した。だから今回も消したの。あなたへの気持ちをすべて!」


 およそ理解のできないことを口走る私を見て、彼は頭のおかしいやつだと思ったに違いない。何の話だよ、と問い詰められるかと思った。でも、予想に反して彼は何も聞かない。どうして。意味が分からないはずなのになんで聞かないの。


「……」


 発狂しそうな私を前に、彼は黙りこくりそのまますっと私の腕を握っていた手を離した。


「俺、戻るわ」


「え?」


 それだけ言い残し、彼は校舎の方へと戻っていく。掴まれていた腕がジンジン痺れている。去っていく彼の背中を眺めながら、突如目の前が真っ暗になった。


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