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4.母みたいにはなれない


 数時間後に仕事から帰ってきた父と母はいつも通り疲れた顔で食卓に座った。私は、自らテストの結果を切り出すのが気まずくて、何も知らないフリをして席についた。


「テスト、どうだった?」


 間髪を容れず母は私に問うた。今日のメニューは大好きなクリームシチューで、冷めないうちに一口でも味わいたかったのにそれすらも許してくれなかった。


「あとで見せる」


 早くご飯を食べたい気持ちと、できれば成績なんか見せたくないという気持ちが半々だったのだが、私のこの一言は母に後者だと思わせたらしい。


「いいえ、今見せない」


 だったら最初から食卓につく前に言ってよ、と反抗したい気持ちを抑えつつ、私は部屋に戻りカバンからテストの結果を取り出した。まだ順位表などは受け取っておらず、渡せるのは生の解答用紙のみ。しかしそれだけでも十分に破壊力があるので憂鬱な気分でそれを母に差し出した。


「……」


 母は各教科の答案用紙をじっくりと確認した。その間、父はひたすらシチューを口に運んでいる。放置された私のシチューからは未だ湯気がもうもうと立っている。


「ひどいわね」


 予想通り、母の表情は最悪だというふうに曇っていた。こうなることが分かっていたから見せたくなかったのだ。


「どうしたんだ」


「あなた、これ見てよ」


 ついに父にまで点数を見せる始末。それ自体は仕方ないとは思ったのだけれど、問題が起こったのはその後だった。


「ああ、結構下がっちゃったな。でもそういう時もあるし次は頑張りなさい」


 母同様、父も教育には厳しい方なのだが、この時ばかりはどうやら私の味方だったようだ。どちらかといえば普段から「一度のテストで一喜一憂するんじゃない」と諭してくるタイプだったので予想できたといえばそうだ。

 しかし母は父の反応を見て、曇らせていた表情を余計に硬く険しく歪めていった。


「ちょっと待ってよ。あなた、それだけ? 私は全然納得できないわ」


「納得できないって言われても、終わってしまったものはどうしようもないじゃないか。次に頑張るしかない」


「そうだけど! もっと言うことがあるでしょう。あなたはいつもそうやって適当な言葉でその場を濁すわよね。あまり真剣に考えてないんじゃないの」


「はあ? どうしてそうなるんだ。考えてないわけないじゃないか」


「じゃあいつ、どんなことを考えてるっていうのよ。自分の仕事さえ上手くいっていれば家庭のことはどうでもいいんでしょ

う!」


 ダン、と父がテーブルに手をつく音が嫌に大きく響いて聞こえた。

 ヒステリックな母にうんざりした様子の父は食べかけのご飯をそのままに席を立った。自室へと消えてゆく父の背中から「勝手にしろ」というオーラが漂っている。こうなったらもう父は口を聞かないし明日まで部屋を出てこないと決まっている。


「はあ、これだからもうっ」


 前髪をかき上げた母はストレスの塊を、今度は私に吐き出すためにキッとこちらを睨んだ。


「日和、あなた今回全然勉強してなかったでしょう」


「勉強ならいつも通りしたよ」


「それで足りなかったから今回こんなひどい点数になったんでしょ。夏休みだって夏祭りになんか行ってる場合じゃなかったんじゃないの」


「それぐらいいいじゃん。むしろ夏祭りぐらいしか遊んでないんだし、それすら楽しんじゃだめだって言うの?」


「そういうことじゃないわ。気持ちが緩んでるって言ってるだけ。お母さんが高校生だった頃は一年生の時から一度も遊びになんか行かなかったわ。それぐらい必死でやってるの?」


 一度も遊びに行かないなんてそんなの絶対嘘だ、という言葉を呑み込んだ。一流大学にストレートで進んだ母ならやりかねないことだ。

 だけど、それとこれとは話が違う。

 私は母みたいになれない。いくら優秀な二人から生まれたからって、父や母ほど頭は良くないし、要領も悪い。17年間生きてきて自覚したことだ。限界を知っているからこそ、力の抜き方も考えているというのに。


「どうせ私なんて、お母さんみたいにはなれない。努力したって上手くいかないことだってあるよ!」


「努力した? 本当に? 努力って主観的なものでしょ。周りからすればもっと頑張れるんじゃないのって程度で努力って言うんだったら、お母さんはそんなの努力とは認めません」


 ああ言えばこう言うという状況に追い込まれた私は剥き出しの母の攻撃を裸で受け止める度、鋭利なナイフで肌を斬り付けられる痛みを覚えた。


「……お母さんは」


 自分でもびっくりするくらい、声が震えていた。声だけじゃなくて、肩も心も震えている。頭がジンジンと熱く、熱でもあるんじゃないかというくらいぐらぐらした。


「私に、どうなってほしいの?」


「どうなってって、そりゃいい大学に進んでいい就職先を見つけてほしいに決まってるじゃない。いつも言ってるでしょう。女一人で生きていく時代になるんだから、自力で余裕のある生活を送れるぐらいにならなきゃいけないわ」


「……違うよ」


 自然と溢れでた母への反抗心。母は「私のため」と謡いながら、本当は誰のために必要以上に私に厳しくしているのか自覚がないのだろう。

 そんな彼女を可哀想にさえ思えてくる。私の将来は、私以外に案ずることなんてできないというのに。


「何が違うの」


「お母さんは私のことを考えてる?」


「何言ってんのよ、当たり前じゃない。そうじゃなきゃ、成績一つにこんなに躍起になったりしないわよ。全部、あなたの将来のため」


「それが違うんだよ。私はお母さんに未来を決めて欲しくない。そんなものは自分で考える。確かにこの成績じゃどうしようもないことぐらい分かってる。でもだからって、そこまで騒ぐ必要がある? 私の気も知らないでっ」


 分かっている。これが高校生の私の生意気な言い分だってこと。自分も子供を持てば母の気持ちが分かるのかもしれないということ。でも、今の私はどうあがいたって春山家の娘であり、母の庇護なしでは生きられない。その母に、これまでの努力や我慢してきたことを肯定されないで、一体誰に認められたらいいの?


「お母さんは日和のことが心配なだけ! それなのにこんなふうに反抗するならもうご飯も作らないわよっ」


「だったら、そうすればいい。私はお父さんとお母さんのために生きてるんじゃない! 別の人間なんだよ。そんなに私に消えて欲しいならはっきり言ってよ!」


 こんなにも頭が熱く、血液が全身を駆け巡る感覚は初めてだった。

 昔から母や父に「勉強しなさい」と言われても諦めることしかできなかった。近所の友達が私を遊びに誘いに来ても、休日に動物園や水族館に行きたいと思っても、両親はそれを許してはくれなかった。そういう二人の元で、どんどんと自我を失っていった。そのうち、二人の期待に応えるためだけに生きるようになって。反抗したり歯向かったりすることが無駄なことだと悟って。心は予想外にも凪いでいった。


 それが、今はどうだ。

 言いたいことをぶつけて、はあはあという荒い呼吸が止まらない。吸っても吸っても息が苦しくなる。鏡を見ていないから分からないけれど、今自分はひどい顔をしている。額や鼻の頭に汗が吹き出て、耳は赤く染まっているに違いない。

母の表情が、怒りから絶望に変わってゆくのが見て取れた。目の前にいる自分の娘が、本当に血を分けた我が子なのか疑っているように。鬼の子にでも出会ってしまったかのように。恐ろしい生き物を見る目で、私を見据えていた。


 それは些か予想外の反応だった。

 母のことだから、私が反発すればより激昂してくるかと思っていたのだ。母の方が数倍も激しくほとばしる熱を放出させるとばかりだと。けれど母はそうしなかった。あまりの衝撃に、返す言葉も失っているようだ。

 テーブルの上のクリームシチューからはもう湯気は立っていなかった。私は、大好きなご飯を食べられなかった未練を振り切って、固まったままの母に背を向ける。もう話をきくことはない。母にかける言葉も見つからない。


「……明日の予習があるから」


 そのまま階段を上り、部屋の扉を閉めた。一階からは何の物音も聞こえない。私は母の心を砕いてしまったのかもしれない。それでも、後悔はなかった。こんな娘ならば、母は本当に消えて欲しいと願うかもしれない。

 そうしたら教えてあげよう。便利なアプリがある。消したいものを即座に消すことのできるアプリがあるんだよって。

 ふう、と息を吐き気休めに部屋のカーテンを開ける。月明かりがいつもより暗く感じる。プールから上がった後のように、全身がふわふわと浮いているような感覚に襲われた。ようやく整ってきた呼吸と、冷めてきた全身の熱。自分がこれほど母に対して抗戦的になれるとは思ってもみなかった。成績のことだけじゃなくて、親友とその幼馴染みとの関係で心が乱れているせいだ。穏やかな高校生活を送ることをずっと望んでいた。最近まで、三年間の平穏な日々の夢を叶えられると思っていた。

でももう、後戻りできない。

 私は十分壊れてしまっている。


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