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1.意識しない


 8月29日月曜日。

 長かった夏休みが終わり、とうとう2学期が始まった。始業式の日、教室に入ると柚乃の姿を見た。

 良かった、学校に来られるようになったんだ。

 かつて自分に嫌がらせをしていた人物に、こんな感情を抱くなんて思ってもみなかった。それもこれも、アプリのおかげだと言っても過言ではない。


「おはよう、遠藤さん」


「春山さん。おはよう」


 ぱっちりとした目に艶やかな長い髪の毛。柚乃の周りには以前のような華やかなオーラが戻っていた。柚乃と仲が良かったクラスメイトたちが、次々と彼女の元に駆け寄ってくる。その波に押されて、私は身を引いた。


「いた」


 よく後ろを見ずに後退りしたせいでガタン、と後ろの机に腰が当たり絶妙な痛みが身体を襲う。


「日和、大丈夫か」


 私の身体を支えてくれる人がいると思ったら、神林の手が私の腰に添えられていた。


「わっ」


 びっくりして私は彼から飛び退く。

 新学期早々スマートな身のこなしで女の子の腰を支えるなんて、なんて男だ……!

 ……という本音はおくびにも出さず、「ありがとう」と小さく呟いた。

 そもそも、夏祭りぶりに会う神林の口から「日和」という名前が出てきたこと自体に多少の動揺があった。でも、そんなことにいちいち反応している自分がダサいと思うし、何より彼への想いは封印すると誓ったのだ。


「祭りの日は楽しかった。ありがとうな」


「こちらこそありがとう」


 誘ってくれたのは穂花なので穂花に悪いなと後ろめたい気持ちが少しだけ湧いた。

 本当はもっとあの日のことを話したい。どうしてあんなに長い時間手を繋いでくれたのかと、彼の本音を探りたい。

 でも、頭の隅にちらつく穂花の女の顔が消えないのだ。代わりに、彼との淡い思い出がサイダーの泡のように弾けては消えていく。あの日のラムネの味を思い出せない。きっとかなり甘かったんだろうけれど、もしかしたら苦かったのかもしれないという気になる。


「そういえば、部活の大会はもう終わったの?」


 余計なことを思い出さぬよう、私はとっさに話題を変えた。バスケ部に所属している彼のことだ。夏休みは部活で忙しかっただろう。


「ああ。県大会で敗退しちゃったよ。また頑張らないとな」


 彼は曖昧に笑って、右手首をひょいっと曲げボールを投げる仕草をした。私は彼がバスケをしているところを見たことがない。スリーポイントシューターだと言っていたが、もしかしたら今回の試合でシュートを逃したのかもしれなかった。

 だとすると、精神的にかなり堪えたことだろう。そうでなくても一年間頑張ったことが一瞬の試合で終わってしまうのは悔しいことだ。


「私、バスケのことほとんど分かんないけど。でも頑張ってダメだったことはたぶん無駄じゃないよ」


「おお、励ましてくれてる? さんきゅな」


 神林が、今度は白い歯を見せて明るく笑う。ドクン、と心臓は正直に脈打った。

 ああ、ダメだ。

 もう意識しないって決めたのに。

 だけど、意識する・しないって理性でどうにかなるものなんだろうか。抑え込んでいるうちは、少なくとも彼のことを意識しているわけで……。


「あー……」


「どうした?」


 思考がショートしそうな私が突然声を上げたものだから、神林からしたらさぞ怪しかったことだろう。


「いや、なんでもない」


「日和って真面目なやつだと思ってたけど、時々変だよな」


「変はひどいなぁ。でもそうなるか」


 彼となんでもないやりとりをするだけで、胸はきゅっと締め付けられる。私はまだピエロになれていない。穂花の背中を押す前に、もっと鍛錬しないと。


「じゃ、もうそろそろ始業だしまたあとで」


「うん」


 またあとで話すことがあるのか、もしかして話しかけてくれるのか、いや単なる社交辞令なのかと考える暇もなく、雪村先生が「席につけー」と教室に入ってきた。心なしか前よりも肌が黒くなっている。「先生日焼けしたー!」と女子たちにつっこまれているのを見て、やっぱりなと確信。夏だもん、先生だって遊びたくなるよね。

 私も、神林ともう一度だけでいいから遊びに出かけたい——と、また余計なことを考えてはぶるぶると頭を振った。

 考えない考えない。

 私は彼と友達でいると誓ったのだから。


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