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10.覚えていない

◆◇


 週末が明け、月曜日がやってきた。

 この日、私の心臓は朝から鳴りっぱなしだ。遠藤柚乃の猫をさらったのは先週の金曜日のこと。アプリの「代償」の意味を履き違えていなければ、今日学校に柚乃が現れるかもしれないのだ。

 いつもの通学バスに揺られながら、窓に張り付く雨雫と向こう側の景色をぼんやりと眺めていた。余計なことは考えない。ここ数日間、ずっとそうして思考がおかしな方向へと向かないように注意してきた。高校二年生の私には、勉強や人間関係のこと、母のこと、アプリのこと、全部を一度に考えるには重すぎるのだ。

 学校に着くと、バクバクと鳴る心臓を止められないまま、2年2組の教室の扉を開けた。


「おはよう、春山さん」


 ドアを開けた瞬間、一人の女子生徒から声をかけられてビクッと肩が震えた。その人は紛れもなく遠藤柚乃だったのだ。アプリの言う通り、代償を支払ったことで消失した彼女が戻ってきたわけだ。

 しかし、まさか戻ってきた初日に私に声をかけてくるなんて思ってもみなくて、目の前に現れた彼女を見て私は面食らう。


「お、おはよう」


「どうしたの? 元気ない?」


 明らかに、彼女の様子が以前とは違っていた。まず、柚乃が私に自分から話しかけてくるなんてこれまでのことを考えるとありえないのだ。何かにつけて嫌味を言ったり無視したり、嫌がらせをしてくる彼女が挨拶なんて。

 しかも、彼女の目を見ると真っ直ぐに私を見ていて、まったく悪意がなかった。普段なら瞳の奥に暗い夜の底が垣間見えるのに、今日の彼女の目は透き通っている。まるで、私をいじめていた彼女とは別人だ。


「ううん、なんでもない」


「そう。それならいいんだけれど」


 踵を返して他の友達の元へと戻っていく彼女を、呆気にとられながら見つめていた。柚乃の身に一体何が起こったのか。考えられるとすれば、『SHOSHITSU』アプリの影響で彼女が変わってしまったとしか言いようがない。

 私は教室をざっと見回して、彼が教室に来ているかを確認した。クラスの中でアプリのことを知っている唯一の人間。神林は席につき、私を見つけると軽く手を挙げた。


「おはよう。あのさ、彼女のこと知ってる?」


 私はさっそく神林に柚乃のことを尋ねた。


「彼女って、遠藤さんのこと? 知ってるも何も、クラスメイトじゃないか」


「そうだよね。変なこと聞いてごめん」


 神林は訝しげに首を傾げる。そりゃそうだ。彼から見ればいま私はかなりおかしなことを口走っている。

 頭上からキンコンカーンという予鈴が鳴り、私は自分の席に戻った。まだまだ聞きたいことは山ほどあるのだが、頭の整理が追いついていなかった。

 担任の雪村先生がやってきて今日の連絡を話している間、ずっと上の空だった。

 柚乃が消えて、戻ってきたこと。アプリの効果が本物であること。

 それ自体はなんとか受け入れざるをえないということが分かった。およそ信じられない現実だけれど、実際起こっているのだから認めよう。


 もう一つ疑問なのが、神林がどれだけ覚えているかということだ。彼には3日前に、アプリのことや柚乃のことを話している。その時点で彼は柚乃を覚えていなかった。でも、今日はしっかりと柚乃の存在を知っている。

 となると、私が神林とアプリの話をしたこと自体、なかったことになっているのだろうか。

 神林は覚えていないのだろうか。

 アプリのことだけじゃなくて、私と屋上で肩を並べて話したことも。優しい手で背中を撫でてくれたことも……。

 あの屋上のシーンを思い出しているうちになんとも言えない感情に襲われて、先生の話がまったく耳に入ってこなかった。夢があまりにもリアルだったせいで、目が覚めた後もしばらく夢の中の出来事に心を持っていかれている、そんな感じだ。


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