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9.余計な距離

「はあー! 疲れた! さすがに今日はもう帰ろっか」


 最初に伸びをしたのは穂花だった。彼女の声で、私はノートから顔を上げた。時計を見ると、食事を終えてから一時間半が経っている。さすがにこれ以上長居するのはお店に迷惑だと思い、私たち3人は片付けをしてそそくさと『Peace』を後にした。


「二人は反対方向だよね」


 電車で帰るという穂花と神林は、私が乗る予定のバスとは逆方向だ。


「そうだね。今日のところはここで解散ね」


「二人ともありがとう。おかげで勉強はかどったよ」


「俺も、久しぶりに集中できて良かった。また月曜日」


 穂花と神林が手を振って駅の方へと歩き出す。二人の背中に、日の光が降り注ぐ。すぐに振り返ってバス停の方に進めばいいのに、肩を並べて歩く二人の姿を、私はぼんやりと見つめていた。何の話をしているのか、穂花が神林の肩を軽く叩く。神林はちょっと避けながらも、まんざらでもなさそうに頭を掻いている。あの二人の間には、余計な距離がないのだ。私と神林が二人でいる時とは違う。私はあそこまで、自分から彼に近くことができない。


 分かってはいたのに、自然とため息が漏れる自分に嫌気が差した。見なければいいのに、視線が勝手に二人を追ってしまう。穂花も神林も、本当に仲がいいんだな。実際のところお互いどう思ってるんだろう。考えても仕方のないことが、頭の中をぐるぐる旋回した。こんなんじゃ、期末テストどころじゃない。いまは勉強の方が大事だというのに、自分が情けなかった。


「にゃー」


 ふと足元を見ると、野良猫が私の足首のところに頭を擦り付けていた。真っ黒の毛並みが綺麗な猫。反射的に昨日連れ去った遠藤家の猫を思い出す。今頃どうしているだろうか。見ず知らずの場所で、ちゃんと餌を見つけただろうか。ダメだ、あまり考えすぎると気が滅入ってくる。

 私はすり寄ってくる猫の小さな体を振り切って、バス停の方に歩き出した。様々な感情が私を後ろへと引きずろうとして、いつもより身体が重く感じられた。一歩前へ進むごとに言いようもない罪悪感に駆られる。私は今日、勉強をしにきたのだ。 それ以外のことは考えなくていい。

 鼻から大きく息を吸い込むと、縮こまっていた肺が大きく開いたような気がして、気分がちょっとだけ楽になった。バス停にたどり着き、いつも学校から帰宅する時に使うバスに乗り込んだ。早く、私をここから遠ざけて欲しい。二人が笑い合いながら歩いているであろうこの場所から、私を遠ざけて。


 家に帰り着くと母親が「ちゃんと勉強したの?」と決まり文句をかけてきた。私はぶっきらぼうに「うん」と答えてさっさと二階に駆け上がる。母はそれ以上何も聞かなかった。結果を見れば分かるとでも言いたげに。定期テストの点数は、毎回両親に必ず報告しなければならない。前回より1点でも落ちていれば、そこから1時間の説教タイム。毎回お決まりの光景なので、今更ビビることはない。

 部屋に入り、私は『Peace』で勉強した参考書の続きのページを開く。母が時々ちゃんと勉強をしているか覗きに来るはずだから、うかつにサボれないのだ。そう思ってペンを握ったのに、その日母は部屋にやって来なかった。


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